テラーノベル
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「……結衣、背筋。指先まで意識して」
週末、徹さんのマンションのリビングは、臨時のマナー教室と化していた。
テーブルの上には、高橋家の家系図と
複雑な親族の相関図、そして分厚い礼儀作法の本が広げられている。
「は、はい……っ」
私は慣れない慣れない懐石料理の作法を確認しながら、徹さんの鋭い視線に背筋を伸ばす。
徹さんは今日、眼鏡をかけていて
いつも以上に「完璧なエリート」のオーラを纏っていた。
「親族の集まりでは、食事の作法はもちろん、会話の間合いも重要視される。特に、叔母の和代さんは言葉の裏を読むのが得意だから、余計なことは言わずに笑顔で受け流すんだ。いい?」
「…うう、覚えることが多すぎて知恵熱が出そうです……」
私はガクッと机に突っ伏した。
仕事のプレゼン資料を作るより、何倍も神経を使う。
名家の嫁になるというのが、これほどまでに過酷なことだなんて。
「……結衣」
頭上で、徹さんの優しい声がした。
見上げると、さっきまでの厳しい「家庭教師」の顔は消え
そこには愛おしそうに私を見つめる「恋人」の顔があった。
「ちょっと詰め込みすぎたね」
徹さんは私の隣に腰を下ろすと、私の頭をそっと自分の肩に預けさせた。
「……でも、それだけ結衣を誰にも文句を言わせない形で、俺の妻として迎えたいんだ」
「徹さん……」
「あの日、母さんが言った『たぶらかした』なんて言葉……。俺、本当は今すぐにでも撤回させに行きたいくらい、頭にきてる。結衣は、俺が必死に口説いて、やっと隣にいてもらってる人なのに」
徹さんはそう言うと、私の左手を取り
指輪をそっと撫でた。
「練習はおしまい。……今日は、もう頑張ったよ」
「え、でも、まだお辞儀の角度が……」
「いいよ、もう。……それより、今の俺には『マナー講師』としての時間より、結衣の『婚約者』としての時間が必要なんだ」
徹さんの腕が私の腰に回り、ぐいっと引き寄せられる。
視界が遮られるほど顔が近づき、彼の体温が部屋の暖房よりも熱く伝わってくる。
「特訓の続きは、明日。……今は、結衣の補給をさせて」
重なる唇。
高橋家の重圧も、静江さんの厳しい視線も
この腕の中にいる間だけは遠い世界の出来事のように思えた。
けれど、テーブルの上に置かれたあの
『親族の集まり』の招待状が、刻一刻と迫る決戦の時を無言で告げていた。
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おまる