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#ワンナイトラブ
おまる
それから数日後───
高橋家の本家は、都心の喧騒を忘れさせるほど静かな森に囲まれた、重厚な日本建築だった。
「……大丈夫、結衣。君は完璧だよ」
車を降りる直前、徹さんが私の震える手を握りしめた。
今日の私は、徹さんが選んでくれた控えめながらも気品のある淡い色の訪問着に身を包んでいる。
特訓した通り、背筋を伸ばし、一歩踏み出した。
大広間には、既に数十人の親族が集まっていた。
入り口に立った瞬間、一斉に向けられる「鑑定」のような視線。
冷たい沈黙が場を支配し、私は息が詰まりそうになる。
「あら、徹。遅かったわね」
上座で扇子を手に座る静江さんが、ゆっくりと口を開いた。
その隣には、見慣れない、けれど圧倒的な華やかさを纏った女性が座っていた。
「紹介しておくわ。こちらは、徹の幼馴染で、先日イギリスから帰国したばかりの白鳥麗奈さんよ。…白鳥家とは、代々家族ぐるみの付き合いなの」
麗奈と呼ばれた女性は、立ち上がると優雅な仕草で徹に微笑みかけた。
「お久しぶり、徹くん。…相変わらず素敵ね。隣にいらっしゃるのが、噂の……『仮』の彼女さんかしら?」
『仮』。
その言葉が、私の胸を鋭くえぐった。
親族たちの間から
「やはり……」
「家柄も釣り合わないのに」
という囁き声が漏れ聞こえてくる。
「母さん、何の話だ。麗奈がここに来るなんて聞いていない」
徹さんの声が怒りで低くなる。
けれど、静江さんは動じない。
「いいじゃない。今日は親睦の会ですもの。……田中さん。麗奈さんはね、マナーも教養も、高橋家の嫁として完璧に仕込まれているわ。あなたが徹の隣に立ちたいのなら、彼女と並んでも恥ずかしくないところを、皆に見せてちょうだい」
それは、あまりにも残酷な比較だった。
食事会が始まると、麗奈さんは完璧な所作で親族たちの心を掴んでいく。
一方の私は、特訓の成果を出そうと必死になればなるほど、周囲の視線に萎縮してしまいそうになる。
「あら、田中さん。お箸の持ち方が少し……いえ、失礼。慣れていらっしゃらないのね」
麗奈さんの、悪意のないふりをした鋭い指摘。
親族たちの冷ややかな笑い声。
徹が私のために口を開こうとしたその時、叔母の和代さんが追い打ちをかけるように言った。
「徹。冗談はそれくらいにしたら? 偽装から始まった恋なんて、一時の気の迷いよ。お家のため、そして何よりあなた自身のために、どちらを選ぶべきか……もう分かっているでしょう?」
私は、膝の上で拳を強く握りしめた。
私一人の問題じゃない。
私の存在が、大好きな徹さんの評価まで下げている。
逃げ出したくなるような屈辱と孤独感
けれど、そのとき
ガタン、と畳を鳴らす激しい音が響いた。
「───静かにしてください」
徹さんが、立ち上がっていた。
その瞳は、これまで見たこともないほど深く、激しい怒りの炎を宿していた。
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