ユカリとベルニージュは今度こそ本当に人の気配のない場所を探す。すでに地平線が黄金に色づき、ビトラの河を輪郭のない夢のように煌めかせていた。呻き声をあげる城砦を出て、焼け焦げた街から逃れるように石の壁を回り込み、扶壁の陰へと移動する。
「ずいぶんノンネットに気に入られたんだね」とベルニージュ。
「気に入られたというか不憫に思われたというか」
「良いから着てみなよ。せっかくなんだからさ」
ベルニージュに促され、包みを開いたユカリは炎のような輝かしい刺繍で彩られた護女の美しい僧衣を狩り装束の上に纏い、赤い布飾りの被り物で頭を覆う。ユカリは裾を掴んで広げて、自分がどういう風に見えるか想像する。
それを見てベルニージュはくすくすと笑うのだった。ユカリは顔を赤くする。
「ちょっとベルニージュさん! 失礼極まりないですよ!」
「だってユカリ、それ」ベルニージュは指まで差す。「全身覆うはずなのに、腰までしか届いてない」
「腰よりはちょっと下です!」
ベルニージュは苦しそうに息を整えると深い溜息をつく。
「うんうん。でも似合ってる。これで立派な護女様だよ。差し詰めワタシは加護官かな。さあ、修業に勤しむぞ。あ、肩車しようか?」
「結構です」
「でもそれ、暖かい?」
「いえ、あんまり変わらないですね」
二人は冷たい壁にもたれて座り、木苺の乾いた灌木を眺め、新たな魔導書について意見を交わした。
道化師が病を癒すという物語から、この魔導書の力をユカリは推測した。
「確かに癒しの奇跡としか思えない。その物語を聞く限りはね」ベルニージュはユカリの意見を肯定する。「でもこう言っちゃなんだけど、セビシャスの魔導書、偶然の死を回避して生き永らえるっていう奇跡と範囲が少しかぶってない? 魔導書にけちつける日が来るとは思わなかったけど」
同じように思ったことを認め、ユカリは頷く。
「まあ、そういうこともあるのかもしれません。もしくは生き永らえる奇跡の方は死を回避し、生を保ちはするけれど、病や怪我を完治させることはないのかも。今までは即死しかねない出来事ばかりでしたから、勘違いしていただけかもしれません」
「言われてみればそうだ」ベルニージュが読めない羊皮紙を嬉しそうに覗き込む。「それで、呪いは天邪鬼? それか嘘をつくことかな」
「だとすれば憑依したとしても本当のことを話すだけで憑依は解けるんですね」
「よほど特殊な状況でない限り憑依を保ち続けるのは難しいよね。いくら生粋の嘘つきでも、ずっと嘘つきなんてことはないし。だからあんなところに落ちてたのかもしれない。嘘つきに憑依して、正直者になったら解けてを繰り返した結果なのかもよ」
「でも私さっき嘘をつきまくってましたよ。何で憑依しなかったんでしょう?」
「憑依してなかったの?」
不意な問いにユカリは面食らう。
「確かに、憑依された経験がないので憑依していたとして気づくかどうかは分かりませんね」
「でしょう? ユカリってなんだか色んなことを隠してそうだしね。まあ記憶喪失のワタシほどじゃないか」
確かに多くのことをユカリは隠していた。異世界から転生したらしいこと。魔導書という存在そのものに関わっていること。名前もそうだ。いくら魔導書探しに協力してくれているからといって、そのような突飛な出来事を話す気にはなれなかった。
「ベルニージュさんは記憶喪失で、自分の過去、どういう風に生きてきたのか分からなくて、不安じゃないんですか?」
「不安がないといえば嘘になるけど。今は魔法、それと魔導書に夢中だからね。そっちを追求するのに精一杯の手一杯だよ」ベルニージュははにかむように口の端を上げる。「それに、自分を発見するって結構面白いよ。暗い喜びかもしれないけど」
もしも前世の記憶が全て頭の中に入り込んだら自分はどうなろうのだろう、とユカリは想像する。本来はそのようになるはずだったのだと、ププマルと名乗る獣は言っていた。
ユカリは行き先の見えない暗い想像を止める。とにかく魔導書にせよ、ベルニージュの記憶にせよ、もうこの土地には存在しない。
ユカリは決意を固めて言う。「とにかく、せっかくこのような奇跡を手に入れたんですから、これを使ってこの砦の人々を治療しましょう」
「そんなことすればすぐに魔導書がばれちゃうってば」ベルニージュは呆れたように眉尻をあげる。「今ならまだ、ん? 何だか治りが早いなあ、っていう程度の疑問で済むし、病だって治療の目途はたったみたいだし、ここら辺が潮時だとワタシは思う」
ユカリはきっぱりと言い返す。「でも救う手段があるのに放っておくなんてできません」
「その話はさっき決着がついたと思ってたんだけど。ユカリが救うべきは魔導書災に苦しむ人々なんじゃないの? 魔導書を使うことではなく」
ユカリはそんな風に考えたことはなかった、ことに気づいた。ミーチオンの一連の事件を終えた時、由来の分からない使命とは関係なく魔導書の全てを手に入れると決意したし、それは確かに魔導書に苦しむ人々を想ってのことだが、あくまで魔導書による被害を止めるという意識であり、自分自身が苦しむ人々を助けると考えてのことではなかった。
「それは、まあ、そうかもしれませんがあああ!」
ユカリは驚き、心の中の衝撃で跳ねるように立ち上がる。ベルニージュもまたほとんど同じくらい飛び退く。
「何!? どうしたの!? 素っ頓狂な声出して」
「またです! また! 魔導書の気配です!」
ベルニージュも立ち上がる。「また!? って言っても距離も方向も分からないんだから、当てどなく地道に探すしかないけど。いや、でもよく考えたらこの世界の全ての魔導書の気配を感じている訳じゃあないんだよね?」
辺りを警戒しつつ、ベルニージュの疑問にユカリは淀みなく答える。
「ええ、一定距離内の魔導書だけです」ユカリはベルニージュを連れて砦を門扉の方へと回り込む。「ここからだと半径でちょうどビトラ川の岸辺くらいまででしょうか。その範囲に入って来たり現れたりした魔導書の気配を感じるんです」
城砦を回り込み、今は亡き街へと開かれた城砦の門の前までやってくる。惨たらしい景色の向こうに大河ビトラの壮観が広がっている。門のこちら側では怪我人や病人が呻いているが、焼け落ちた街は静まり返っている。まるで生と死の狭間に立っているような気分だ。
その死の原の向こうに輝く川面にはユカリたちが乗ってきたような大げさな船が一隻、焼け焦げた港に停留している。何かを連れてきたのか、もしくは迎えにきたのだ。
「ユカリが気配を感じた時にのこのこやってきたんだし、魔導書の所有者が乗っている、上陸したとみて間違いないよね」
ベルニージュの言葉を受けてユカリは頷く。
「そうですね。まずはそう見なしておきましょう。とにかく何者なのかを見極めないと。さっきも言いましたけどまずは砦の人々を癒しますので、奪取するとしてもそのあとです」
「弱気なんだか強気なんだか」
「穏便に済むならそれに越したことはないですよ」
「またしくじらないでよ」とベルニージュは呟く。
ユカリは唇を尖らせて小さく愚痴る。
「そもそもベルニージュさんが罠だ何だと余計な警戒するからノンネットに見つかっちゃったんじゃないですか」
「ワタシのせいってこと?」とすかさずベルニージュは強く言い返す。「そもそも魔導書って言葉を軽々しく口にしなければ、ただの薄汚い羊皮紙を拾っただけの話になったはずでしょ」
「ノンネットがいるならいるってすぐに教えてくれればあんなこと言わなかったですよ」
「ユカリだって訳の分かんない嘘を並べ立てて自分の首を絞めてたじゃない」
ユカリは言い返せなくなり、二人は押し黙る。
しばらくしてベルニージュが口を開く。「じゃあ、あとは頑張ってね。首席焚書官様。ワタシはノンネットの手伝いでもしてるから」
そう言ってベルニージュはその場を立ち去り、ユカリと、グリュエーの慰めだけが残された。
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