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#心理戦
鬼霧宗作
94
#成り上がり
aohana
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カイガ
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神楽坂邸の主寝室に、薪の爆ぜる音が響いた。
暖炉の中に小さな火花が飛び、高い天井へと揺らめく影を投げかける。
窓の外は帝都を凍てつかせる雪だというのに、この部屋は暖かい空気で満たされていた。
「座れ」
テーブルの傍らに置かれた椅子を指差された千歳の心臓は、壊れそうなくらい早く動いた。
テーブルに準備されているのは陶器の洗面鉢に入った水。
私の顔を洗うつもりなの?
千歳はごくっと唾を飲み込んだ。
このおしろいが落ちれば、父が呪いと呼び、母の命を奪った醜い痣があらわになる。
その瞬間、あの枕元に立てかけられた剣で斬られるのだろうか。
それともこの雪の中、外に放り出されるのだろうか。
千歳は震える手で、椅子の背もたれを掴んだ。
「……あの、私は、その……」
「早く座れ」
感情の読めない目で千歳を見据えた男性は、白い布を水に浸した。
絞り上げる水の音さえ、今の千歳には処刑前の恐怖の音に聞こえてくる。
観念して椅子に腰を下ろすと、男性の大きな影が千歳を覆い尽くした。
逃げ場はない。
もとからそんなものはないけれど。
千歳の顎は男性に強引に持ち上げられた。
恐怖で固く目を閉じることしかできない千歳の頬の分厚いおしろいを、温かな水分を含んだ布が拭い去っていく。
あぁ、もうおしまいだわ……。
これ以上ないほど強く目を閉じた千歳は、男性の罵声を待った。
呪われた娘。
疫病神。
父にも義母にも何度言われたことか。
家族でさえそう言うほど醜い痣を、他人が、ましてや結婚相手が認めるわけがない。
千歳は震えながら、ごくっと唾を飲み込んだ。
……なぜ、何もおっしゃらないの?
男性の手が千歳の痣を撫でていく。
沈黙に耐えきれなくなった千歳は、恐る恐る目を開けた。
「……え?」
千歳の目の前にあったのは、歪んだ嫌悪の表情ではなかった。
男性は千歳の不吉と蔑まれてきたその痣を熱を帯びた眼差しで見つめている。
どうしてそんな宝物を見るかのような目で……?
初めて向けられる視線に千歳は戸惑う。
吸い込まれそうな紅い瞳が、千歳の視線とぶつかった。
「なぜ隠していた?」
「……不吉な痣を見せるなと……呪いを隠せと……」
これでは神楽坂家を呪って没落させろと言われたことをバラしているようなものだ。
だが、答えないという選択肢は千歳にはない。
「誰がこれを呪いだと言った?」
「父が……この痣のせいで母も亡くなり、事業もうまくいかないと……」
厄介払いのため、嫁に来させられたと自白するなんて、自分でも馬鹿だと思う。
でも一番の被害者は目の前のこの男性だ。
きっとこの人が鬼神だと恐れられている男性本人だと思うが、外套を貸してくれたり、顔を拭いた布も水ではなく人肌程度に温かく、噂とはだいぶ異なっている。
「……そうか」
男性は低い声で呟くと、千歳の頬から手を離し、濡れた布を静かに陶器の洗面鉢へ戻した。
「事業の失敗を子のせいにするとは。斎宮の当主は己の無能を棚に上げる臆病者だったようだな」
「え……?」
「千歳……だったか? 鏡を見てみろ」
男性は部屋の隅にある大きな姿見を指差す。
千歳はおずおずと立ち上がり、恐る恐る鏡の中の自分を覗き込んだ。
そこに映ったのは、いつもの青紫色の見慣れた痣。
暖炉の火を反射していつもより少し頬が赤みを帯びているが、どこからどう見ても、母を死に追いやり、周りを不幸にした呪いの痣にしか見えない。
「それは呪いではない。昂った鬼を鎮める『水鏡』の紋章だ」
男性は千歳の背後に音もなく立ち、鏡越しに視線を合わせた。
「水鏡……?」
男性は後ろから千歳の顎を持ち上げると、鏡の前で顔の角度を変える。
一瞬だけ何かが映った気がした千歳は、真剣に鏡を見つめた。
「……見えたか?」
「なにか模様のようなものが……」
自分で角度を変えてみると、ほんの一瞬、白銀の模様が浮かび上がる。
「おまえに触れるだけで、俺の中の『鬼』が静まる。」
男性はそう囁くと、千歳の頬に大きな右手を添えた。
その瞬間、男性の手の甲に燃え盛るような紅蓮の模様が浮かび上がる。
彼の肌に浮かんだのは、禍々しくも美しい鬼の紋章。
鏡の中の模様を食い入るように見つめた千歳は、思わず息を呑んだ。
「恐ろしいか? これが、神楽坂の男たちが代々背負う呪いだ」
男性の声が先ほどよりも低く、少しかすれたような声に変わる。
熱い男性の手のひらに反応するかのように千歳の頬は冷え、身体の奥底から清らかな力が溢れ出すのを感じた。
鏡に映った千歳の頬に浮かんだ白銀の模様が、男性の紅蓮の紋章を鎮めるかのように冷えていく。
男性は満足げに目を細めると、千歳の耳元に熱い吐息を落とした。
「おまえは俺の唯一の救いだ」
この世の誰からも必要とされなかった自分に向けられた信じられない言葉に、千歳は目を見開く。
この痣がお役に立てる……?
私は生きていてもいいのだと、そう仰るのですか?
有無を言わさぬ力強さで引き寄せられると、胸板の熱が軍服越しに逞しい鼓動と共に伝わってくる。
「俺は神楽坂鷹臣。今日より、おまえの夫となる男だ」
鷹臣は千歳の白銀の光を宿した左頬に、誓いを立てるかのように口づけを落とした。
雪降る帝都の夜。
鬼神の生贄として捧げられた千歳は、生まれて初めて自分の「居場所」を見つけた――。
◇
窓から差し込む眩しい日差しで目が覚めた千歳は、肌に吸い付くような寝具に驚き、飛び起きた。
「……夢ではなかったのね」
ここは斎宮家の隙間風が吹き込む物置とは比べ物にならないほど広くて綺麗な部屋。
高い天井、端に寄せられた重厚なカーテン、そして微かに漂う白檀の香り。
そして、なにげなく触れた左頬は乾燥したおしろいの感触ではなく、しっとりと吸い付くような自分の素肌だった。
「呪いではないと……」
千歳は震える指先で頬をなぞる。
もう隠さなくていいと言われたが、本当にいいのだろうか?
子どもの頃からずっとおしろいで隠し続けてきたのに。
「千歳様、お目覚めでしょうか」
控えめなノックの音に、千歳の肩がビクッと揺れる。
「は、はいっ」
嫁いできた初日から寝過ごしてしまった。
大失態に気づき、顔を真っ青に染めた千歳は、慌てて布団から飛び出した。
「申し訳ありません。すぐにお掃除を……っ」
「とんでもない」
戸惑ったような声と共に扉が開き、数人の女中たちが入室する。
女中たちは千歳の顔を見るなり、息をのんでその場に立ち尽くした。
女中たちが手にした盆が、微かにカタカタと震える。
しまった!
剥き出しの左頬に気づいた千歳は、血の気が引くのを感じた。
慌てて前髪を掻き寄せ、忌まわしい紋章を隠す。
叱責を待ち、ぎゅっと目をつぶった千歳を余所に、女中たちは綺麗な着物を広げた。
「旦那様よりお召し替えを仰せつかっております」
用意されたのは斎宮家で着せられていた古びた麻の着物とは比べものにならないほど美しい振袖。
晴れ渡る冬空のような水色の生地に、銀糸で施された緻密な刺繍。
それは義妹の百合子が誇らしげに纏っていたどの着物よりも、遥かに上質で気品に満ちていた。
「私にはもったいないです」
分不相応な輝きに、千歳は後ずさりながら必死に首を振る。
「旦那様が直々に選ばれたのですよ」
「鷹臣様が……?」
どうして、私なんかのために?
千歳が呆然とした隙に、瞬く間に支度が整えられていく。
「あの、髪は下ろしていてはダメでしょうか……?」
「隠すなと言ったはずだ」
背後から響いた低い声に、千歳の肩が跳ねる。
鏡越しに視線を上げると、部屋の入り口に凛々しい軍服姿の鷹臣の姿が映った。
鷹臣は大きな歩幅で近づくと、千歳の前髪を優しく掬い上げる。
「これほど美しいものを、なぜ隠そうとする」
鷹臣の視線は、剥き出しになった左頬の『水鏡の紋章』に注がれていた。
それは愛しいものを見る眼差しというより、渇いた喉を潤す水を求める飢えた獣の瞳のようだった。
「夜空に輝く星々を凝縮したような、気高く尊い輝きだ」
鷹臣の指先が、痣の輪郭をゆっくりとなぞる。
千歳はその熱を帯びた指の感触に背筋が震えた。
呪いだと罵られ、家族にも疎まれたこの痕。
このお方はこの「紋章」だけを求めているのだ。
自分自身ではなく、頬にあるこの痣だけを。
「……っ」
千歳は思わず肩を竦め、小さく身を縮めた。
「案外、脆いのだな」
鷹臣の声に、先ほどまでの冷徹な陶酔とは違うわずかな戸惑いが混じる。
鷹臣は少しだけ表情を和らげると、拒絶されるのを拒むように、少し強引に千歳の腰を引き寄せた。
「さあ、支度ができたら街へ行くぞ」
「ま、街? この姿で……ですか?」
おしろいも塗らず、髪で隠すこともせず、市女笠も被らずに街を歩くなんて。
「案ずるな。今日からその輝きを『呪い』と言う奴らは、この世からいなくなる」
その強引さに、千歳は恐怖にも似た熱い高鳴りを覚えずにはいられなかった。
コメント
1件
**はる。だわ。** 第2話、めっちゃ良かった……!千歳がおしろいを拭われるシーン、自分のことのようにドキドキした。あの痣が「呪い」じゃなくて「水鏡の紋章」で、しかも鷹臣の鬼を鎮めるためのものだったって伏線の回収、痺れたわ。鷹臣の「おまえは俺の唯一の救いだ」って台詞、重すぎて心臓にきた🔥 立場の違う二人が互いに欠けてたピースを埋め合う関係性、この先どう転ぶか楽しみすぎる。