テラーノベル
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編集者と漫画家の話。
平和な世界線
深夜二時の編集部。静まり返ったフロアで、中原中也はデスクに突っ伏したい衝動をこらえ、手元のタブレットを睨みつけていた。
窓の外は、不夜城・東京のビル群が冷たく光っている。中也は入社三年の若手編集者。そして、彼が担当しているのは、彗星のごとく現れ、初連載で社会現象を巻き起こしている天才新人漫画家・太宰治だ。
「……おい、太宰。聞いてんのか。このコマの表情、もっと寄れって言っただろ」
中也が低い声で促すと、ソファでだらしなく寝そべっていた太宰が、長い手足を伸ばしながら欠伸をした。
「ええー、中也。そんなに細かいこと気にしなくても、読者は僕の描く線の美しさに心酔しているんだから、それでいいじゃないか。それより見てよ、このペン先の滑らかさ。これ、昨日新しく買ったんだ」
「ペン先の自慢はどうでもいい! 締め切りまであと六時間だぞ。お前、これが落ちたら今月の看板作品が消えるんだぞ、分かってんのか!」
中也が立ち上がり、太宰の鼻先に原稿のプリントを突きつける。 太宰は、ふわふわとした癖毛をかき上げ、どこか人を食ったような微笑を浮かべた。
「中也は相変わらず熱血だねえ。編集者っていうより、体育教師みたいだ。そんなに怒ると、せっかくのハンサムな顔に皺が増えるよ?」
「誰のせいで増えてると思ってんだ! そもそも、お前がネームの段階で三日も失踪するからだろうが!」
二人の関係に、異能力も、家柄も、心中という悲劇もない。 あるのは「ヒット作を作る」という共通の、けれど正反対のアプローチから来る衝突だけだ。
太宰治は、デビュー作からして異質だった。人間の内面の泥を掬い上げ、それを透明な硝子細工のような筆致で描き出す。その才能は誰もが認めるところだが、性格は最悪。気に入らなければ原稿を破り捨て、締め切り直前に「心中してくる」と言い残して音信不通になる。
そんな彼の手綱を引けるのは、社内でも「狂犬」と恐れられる熱血漢の中也だけだった。
「……なあ、中也」
太宰が唐突に、真剣な声音になった。彼はソファから起き上がり、デスクに座る中也の背後に忍び寄る。
「もし、僕がこの連載を投げ出して、どこか遠い南の島にでも逃げようって言ったら、君はどうする?」
中也は振り向かずに、赤ペンで修正指示を書き込みながら答えた。
「成田空港の搭乗口で捕まえて、羽交い締めにしてスタジオに引きずり戻すだけだ」
「相変わらず夢がないなあ。そこは『君となら地獄の果てまで』とか言ってほしいところだよ」
「地獄の果てに原稿用紙があるなら行ってやるよ。ほら、さっさとペンを持て。このシーン、主人公が初めて『愛』を知る大事な場面なんだろ。お前の今の、そのニヤついた顔じゃ描けねえはずだ」
太宰は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。 そして、クスクスと喉を鳴らして笑い、中也の肩に顎を乗せた。
「……中也は、時々僕より僕のことを分かっているような口を利くね」
「担当だからな。お前の薄暗い思考回路なんて、三六五日付き合わされてりゃ嫌でも覚えるんだよ」
太宰は、中也の指先に残るインクの汚れをじっと見つめた。 世間は自分を「孤独な天才」と呼ぶ。けれど、原稿の隅々にまで真っ赤なペンで「もっと熱を込めろ」「ここは引くな」と叩きつけてくるこの男がいる限り、自分は本当の意味で一人にはなれない。
太宰はスッと自分のデスクに戻り、ペンを握った。 モニターのバックライトが、彼の整った横顔を白く照らす。
「いいよ。中也がそこまで言うなら、僕の最高傑作を君に献上しようじゃないか」
そこからの集中力は、まさに神懸かっていた。 カリカリとペンが液晶を叩く音だけが、静かなフロアに響く。 中也はそれを邪魔しないよう、黙ってコーヒーを二杯淹れ、一つを太宰の机に置いた。
夜が明け、東の空が白み始めた頃。 「……終わったよ、中也」
太宰がペンを置き、大きく背伸びをした。 中也が完成した原稿を確認する。最後の一コマ、主人公が大切な人の名前を呼ぶシーン。そこには、これまでの太宰の作品にはなかった、痛いほどの熱量が込められていた。
「……ああ。最高だ、太宰」
中也の言葉に、太宰は満足げに目を細めた。 二人の間に流れるのは、恋愛という言葉で括るにはあまりに激しく、仕事という言葉で括るにはあまりに個人的な、魂の共鳴。
「中也。この原稿が雑誌に載ったら、僕にご褒美をくれるかい?」
「……アンケート一位だったら、高い酒の一杯くらい奢ってやるよ」
「おや、酒だけ? 僕はもっと、こう……中也の『愛』が詰まった何かが欲しいんだけどなあ」
「うるせえ。寝言は寝て言え。ほら、帰るぞ。お前、三日起きてねえんだから」
中也が太宰のコートを放り投げる。太宰はそれを器用に受け取り、相棒の背中を追ってエレベーターへと向かった。
エレベーターの鏡に映る二人の姿。 一人は疲れ果てた編集者、一人は飄々とした漫画家。 けれど、その距離は、どんな世界線であっても変わらぬ「特別」を物語っていた。
「ねえ、中也。次の連載は、心中をテーマにしようと思うんだ」
「ボツだ。縁起でもねえこと言うな」
「ええー、いいじゃないか。僕と君が、土砂降りの雨の中で……あ、僕は名家の長女で、きみはスポーツ推薦の脳筋くんね」
「描かせねえっつってんだろ! ほら、行くぞ!」
朝の光が差し込む街へと、二人は歩き出した。 心中も、悲劇も、ここではただの「物語のアイディア」に過ぎない。 彼らのリアルは、この後食べるコンビニの朝食と、数時間後に始まる新しい打ち合わせの中にあった。
コメント
4件
「ええー、いいじゃないか。僕と君が、土砂降りの雨の中で・・・・・・あ、僕は名家の長女で、きみはスポーツ推薦の脳くんね」って・・・前の「雨の中、絡めた指を多摩川に沈めて」のやつじゃないですかぁあああああ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
ちゃんと前回と繋がってて( ᐛღ )すこです