テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
みことの泣き声が、夜の部屋に響いていた。
感情のコントロールができず、子どもみたいにしゃくりあげて、すちの服を握りしめて、何度も何度も「忘れたくない」「こわい」と繰り返す。
言葉にするたび、その現実が胸に突き刺さるようで、すちの喉も苦しくなった。
すちは強く抱きしめたまま、みことの背中をゆっくり撫でる。
「……忘れてもいい」
「俺が覚えてる」
「みことの全部、俺が覚えてるから」
みことが小さく首を振る。
「やだ……」
「すちの全部、……俺の中に残したい……」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を、すちはそっと両手で包んだ。
「残るよ」
「…もし、残らなくなっても、俺が何回でも教える」
額を重ねて、静かに息を合わせる。
「俺は離れない」
「逃げても追いかけるし、忘れてもまた恋させる」
冗談めかした言い方なのに、声は震えていた。
みことの瞳が揺れて、また涙が溢れる。
「……ずるい……」
「そんなこと言われたら、離れられないじゃん……」
すちは小さく笑って、みことの涙を親指で拭った。
「それでいいんだよ」
それからの日々は、静かに、確実に変わっていった。
みことは一人で外出するのが難しくなり、スマホの操作も時々わからなくなる。
けれど、不思議なことに――
「すち」という存在だけは、強く心に残っていた。
名前が出てこなくても、顔を見れば胸があたたかくなる。 声を聞けば、理由もなく安心する。
「……あのさ……」
「俺、君のこと、好きな気がする……」
ある日、真剣な顔でそう言ったみことに、すちは思わず笑ってしまって、泣きそうになった。
「気がする、じゃなくて好きなんだよ」 「昨日もそう言ってた」
「ほんと? じゃあ、昨日の俺、えらいね」
そんな会話を何度も繰り返した。
すちは、同じ言葉を何度でも伝えた。
「大好きだよ」
「ここが家」
「俺はすち」
「みことの恋人」
そのたび、みことは少し照れたように笑って、安心したように頷いた。
それでも、夜になると不安は顔を出す。
記憶が抜け落ちた感覚に気づいたとき、みことは一人で震える。
「また忘れた」
「また抜けてる」
その事実が、静かに心を削っていく。
ある夜、すちが隣で眠っているのを確認してから、みことは小さく布団を抜け出した。
リビングのソファに座り、膝を抱える。
「……忘れたくない……」
「俺、ちゃんと生きてたのかな……」
声に出すと、涙がこぼれる。
すちのことを忘れる夢を見た。 名前が思い出せなくて、顔もぼやけて、胸だけが苦しく残る夢。
「やだ……」
「それだけは、やだ……」
静かな部屋で、みことは声を殺して泣いた。
けれど、その背中を、すちは見ていた。
夜中に目が覚め、みことの姿がないことに気づいたとき、嫌な予感がして探しに来たのだ。
泣き声を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。
すちは何も言わず、後ろからそっと抱きしめる。
「……一人で泣かないで」
みことがびくっとして振り返る。
「すち……ごめ……」
すちは首を振り、強く抱き寄せた。
「俺の隣で泣いて」
「忘れたくないって思えるのは、それだけ大切にしてる証拠だから」
みことはしばらく堪えていたけれど、やがて力が抜けて、すちの胸に顔を埋めた。
「こわい…… 置いてかれるみたいで……」
「置いてかないよ、 一緒に進むからね」
季節が巡り、みことの症状は進行していく。
料理ができなくなり、簡単な家事もすちの手助けが必要になった。 日付や曜日がわからなくなることも増えた。
それでも、すちは決して焦らせなかった。
「できなくなってもいい」
「俺ができるから」
その言葉に、みことは何度も救われながらも、同時に胸の奥で罪悪感を膨らませていった。
そして、ある日。
みことは真剣な顔で、すちを呼び止めた。
「……ねぇ」
言葉が途中で詰まる。
すちは嫌な予感を覚えながらも、黙って待った。
「俺…やっぱり、これ以上……迷惑かけたくない……」
「すちの人生、俺の病気で縛りたくない……」
すちの表情が一瞬で強張る。
「……何を言ってるの」
「だから……別れよ……」
震える声で告げた瞬間、すちは即座に首を振った。
「無理。絶対に無理」
「でも……!」
「どうなっても離れないって言ったでしょ」
「忘れられても、介護になっても、それでも一緒にいる」
みことの目に、堰を切ったように涙が溢れた。
「……忘れたくない……!」
声が崩れて、大泣きする。
すちは抱きしめながら、何度も何度も名前を呼んだ。
「みこと」
「大丈夫」
「一人にしないよ」
「愛してる」
その夜、二人は長い時間、抱き合って眠った。
不安も、恐怖も、全部抱えたまま。
それでも――手だけは、離さなかった。