テラーノベル
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放課後。
夕陽が差し込む教室に、残っている生徒はほとんどいなかった。
机の位置は少し乱れ、床にはプリントの切れ端や、倒された椅子がそのままになっている。
遥は、窓際の席に座っていた。
制服のシャツのボタンは上から三つ、開けられている。
首元には、薄く赤みを帯びた指の痕。
机の上に突っ伏した腕の袖口には、乾いた泥とインクの跡。
脚を引きずるようにして座っているその姿は、どこか異様に静かで、妙に整っていた。
──整いすぎていた。
そこに「乱されたあとの痕跡」が残っているにもかかわらず、遥の表情には崩れがなかった。
むしろ“整え直した”かのような、笑いの形だけを貼りつけていた。
日下部は、教室の扉をくぐったところで止まった。
声をかけようとしたが、息がつかえて、音にならなかった。
遥は、気づいていた。
だが、顔を上げなかった。
長い沈黙のあと、ようやく言葉を吐いた。
「……ねえ、見てた?」
その声は、どこか乾いていた。
怒りでも、訴えでもなく、“確認”だった。
日下部は答えない。
代わりに、数歩だけ近づいて──遥の席の前で止まる。
「大丈夫……って、聞きたいわけ?」
遥がゆっくり顔を上げた。
笑っていた。
唇の端だけが、ほんのわずかに。
「言っとくけど、嫌じゃないよ。慣れたし、こっちの方が“落ち着く”し」
日下部は、目をそらしそうになる。
だが、遥の目がそれを許さなかった。
「……ああ、でも」
遥は席を立ち、ゆっくりと日下部の前まで歩いた。
制服の裾が揺れ、傷のついた膝が覗く。
「“見たくなかった”って顔は、してるね」
そう言って、遥は首を傾け、笑った。
優しさにも冷たさにも分類できない、壊れた表情。
「でも……」
遥が、日下部の胸元に指先を伸ばした。
触れはしない。ただ、その手つきだけで“押し返して”くるような気配。
「“見た”ってことは、もう戻れないよ」
日下部は、ようやく口を開く。
「……やめろ」
遥は瞬きもせず、静かに首を横に振る。
「やめるって、何を? “これ”を? それとも、“これしかできない俺”を?」
声に怒りはない。ただ、刺すような乾いた皮肉が込められていた。
沈黙。
窓の外では部活の声が響いていた。
遥の吐く息が、夕陽の光に溶けていく。
「もうさ──“正しい言葉”なんて、いらないんだよ」
遥は背を向けた。
ゆっくりと、席に戻りながら呟いた。
「どうせ、誰も信じてないんだから」
その声は、ひどく穏やかだった。
なのに、日下部の胸に残ったのは、喉の奥に引っかかるような、重い焦燥だけだった。
──事後。
なのに“誰も何も奪えなかった”かのように平然としている遥。
だが、その平然こそが、日下部には何よりも恐ろしかった。
彼は、言葉を失ったまま、ただその場に立ち尽くしていた。
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