テラーノベル
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第179話 役割のノイズ
【現実世界・駅周辺対応点/規制区域内・朝】
駅前の希望は、静かに広がっていた。
駅名標の文字が、また少し読める。
バス停の標識も、輪郭を保つ時間が長くなった。
駅舎の柱は、薄く揺れながらもそこに立っている。
人々は規制線の後ろで、それを見つめていた。
「戻すために、今やっています!」
警官たちは何度もそう言った。
その言葉は効いていた。
避難者たちは前へ出たい気持ちを抑え、隣の人にも「待とう」と声をかけている。
だが、木崎はその中に混じる小さな乱れを見逃せなかった。
駅員の一人が、同じ動作を繰り返している。
右手を上げる。
二歩下がる。
振り返る。
同じ言葉を言う。
「こちらには進まないでください」
「安全確認中です」
「こちらには進まないでください」
三回。
四回。
五回。
疲れているだけにも見える。
混乱の中で同じ案内を繰り返しているだけにも見える。
だが、間が揃いすぎていた。
木崎はカメラを向ける。
レンズの中で、その駅員の顔が大きく映る。
汗。
疲労。
乱れた髪。
人間の顔だ。
しかし、目だけがほんの一瞬、遅れた。
顔は右を向いたのに、視線だけがわずかに遅れてついてくる。
まるで、外側の顔と中の何かの反応がずれているみたいに。
「……今の」
木崎が呟いた。
隣の隊員が聞く。
「何か見えましたか」
「分からん」
木崎は答えた。
「でも、あいつだけじゃないかもしれない」
その言葉が終わる前に、別の場所で警官の声が響いた。
「この位置を保ってください!」
「この位置を保ってください!」
「この位置を保ってください!」
木崎はそちらを見る。
若い警官だった。
緊張で声が硬くなっているようにも見える。
だが、言い方が同じすぎる。
避難者の一人が、その警官へ不安そうに言う。
「ここにいれば大丈夫なんですか」
警官はすぐに答えた。
「この位置を保ってください」
「いや、そうじゃなくて――」
「この位置を保ってください」
会話になっていない。
その瞬間、木崎の背中に冷たいものが走った。
敵だ、と断定できるほどではない。
だが、人の動きではない。
木崎はすぐに通信を入れた。
「駅周辺、誘導員の動きに違和感」
「同じ言葉の繰り返し。視線の遅れ。
まだ敵とは切れないが、記録しろ」
返ってきた城ヶ峰の声は短い。
『現場を止めるな』
『ただし、同じ発話を繰り返す者は交代させろ』
『理由は疲労扱いでいい』
「了解」
木崎はカメラを下ろさなかった。
人に混じっている。
だが、黒い影として現れているわけではない。
ラストのように顔を切れる相手でもない。
もっと面倒だ。
人が、人の役割のまま、少しずつずれている。
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸方面/資材ヤード・朝】
日下部の端末にも、駅周辺からの報告が届いていた。
《同一発話反復》
《視線追従遅延》
《誘導員交代指示》
《人流ノイズ増加》
佐伯がそれを見て、眉を寄せる。
「これ、ラストとは違いますよね」
「違うと思います」
日下部が答える。
「錆や腐食の反応は出ていない。
金属でも設備でもなく、人の行動パターンに乱れが出ています」
村瀬が小さく言う。
「行動パターン……」
「役割のノイズ、かもしれません」
日下部は画面を切り替えた。
「駅員は駅員らしく、警官は警官らしく動いている。
でも、少しだけ人間の反応からずれてる」
木崎の通信が入る。
『言葉は正しい』
『だから逆に気づきにくい』
『“危ないこと”は言ってない。
ただ、人を動かす言葉だけが空回りしてる』
城ヶ峰が低く言う。
「つまり、命令系統に紛れている」
日下部は頷いた。
「はい」
「今はまだ小さいですが、もしこれが増えると、避難誘導そのものが信用できなくなります」
その一言で、資材ヤードの空気が重くなった。
ラストは設備を壊した。
だが今起きているのは、設備ではない。
人の役割。
現場を動かす声。
誘導する立場。
そこに小さな歪みが混じっている。
「駅周辺の指示系統を一本化する」
城ヶ峰が言った。
「現場判断を減らす。同じ文言を繰り返す者は交代。
目視だけで判断するな」
日下部がすぐに入力する。
《駅周辺:指示系統一本化》
《反復発話者:疲労扱いで交代》
《役割異常の可能性》
《光路維持継続》
村瀬が不安そうに聞く。
「これ、試行は止めないんですか」
日下部は少しだけ黙った。
止めたい。
そう思う自分がいる。
けれど、今止めれば光路の安定が失われる。
駅周辺の輪郭も、また揺れ戻るかもしれない。
「止めません」
日下部は言った。
「ただ、広げない」
「今の範囲を保ったまま、人の動きだけを締めます」
城ヶ峰が頷いた。
「それでいい」
木崎の声が、もう一度入る。
『分かった』
『こっちは人を見る。
そっちは線を見ろ』
◆ ◆ ◆
【異世界・駅周辺/臨時防衛線・朝】
異世界側でも、似た異変が起き始めていた。
最初に気づいたのは、若い術師だった。
光具の外側にいる兵士の一人が、同じ言葉を繰り返している。
「その場で待て」
「その場で待て」
「その場で待て」
命令としては正しい。
避難者を抑えるために必要な言葉だ。
だが、その兵士は避難者が何を言っても、同じ言葉しか返さなかった。
「子どもが水を――」
「その場で待て」
「具合が悪い人がいるんです」
「その場で待て」
「少しだけ後ろへ――」
「その場で待て」
近くの別の兵士が、さすがに声をかける。
「おい、聞け。水の話だ」
その兵士は振り向いた。
顔は普通だ。
黒い影もない。
目も人間のままだ。
だが、口だけが先に動いた。
「その場で待て」
言い終えてから、本人が少しだけ戸惑ったような顔をした。
「……あれ」
その瞬間、周囲の空気が変わった。
完全に乗っ取られているわけではない。
本人も自分の違和感に気づいている。
だからこそ、余計に気持ち悪い。
指揮兵がすぐに判断した。
「交代」
「疲労だ。下がれ」
「自分はまだ――」
「下がれ」
強く言われ、兵士はようやく後退した。
だが、下がる途中でその兵士は、自分の手を見つめていた。
「今、何を言った……?」
その声は、本当に本人のものだった。
光具のそばの術師が、低く言う。
「影というより、言葉が引っ張られている」
指揮兵が聞き返す。
「どういう意味だ」
「分かりません」
術師は答える。
「でも、役目の言葉だけが先に出ている感じです」
その時、ノノからの通信が入る。
『駅周辺、現実側でも同じような乱れ』
『同じ言葉の繰り返し。役割のずれ』
『今は疲労扱いで交代させて。
敵だと騒がないで』
指揮兵は短く答えた。
「了解」
そして、周囲の兵たちへ声を低く落として命じる。
「同じ言葉を繰り返す者は下げろ」
「理由は疲労でいい」
「避難者の前で騒ぐな」
兵たちは頷いた。
光路はまだ通っている。
駅前の輪郭も戻り続けている。
だからこそ、この小さな違和感を大きな混乱へ変えてはいけなかった。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館脇・朝】
学園では、ノノからの報告を聞いたサキが、顔を曇らせていた。
「人の役割が、ずれてる……」
ハレルも主鍵を握ったまま、眉を寄せる。
「前の片鱗と同じか?」
『似てるけど、まだ違う』
ノノの声が返る。
『今のところ完全に乗っ取られてるわけじゃない』
『本人の意識も残ってるっぽい。
でも、役割の言葉だけが勝手に強く出てる』
リオが低く言う。
「厄介だな」
「敵か味方かで切れない」
ダミエがレアの箱を見ながら言う。
「だから顔で見てはいけない」
レアが、箱の中で静かに笑った。
「そうそう」
「顔より、言葉」
「言葉より、間」
サキがレアを見る。
「間?」
「うん」
レアは膝を抱えたまま言う。
「本物の人間は、ちょっと迷う」
「同じことを言っても、相手の顔を見て、少し言い方を変える」
「でも役割だけになると、変えない」
「正しい言葉を、正しいまま繰り返す」
ハレルはその言葉を聞きながら、前に見た片鱗を思い出していた。
兵士の姿で、兵士らしい言葉を使い、治療所の裏へ入り込もうとしたもの。
あれはもっとはっきりしていた。
今はもっと薄い。
薄いから、見えにくい。
サキがレアに聞く。
「これも、あなたみたいなものなの?」
レアは一瞬だけ黙った。
「私みたい、とは違うかな」
「でも、材料は近いと思う」
「人の顔、声、役割。
それを少しだけ引っ張る」
「引っ張られた人は、自分の仕事をしてるつもりで動く」
「じゃあ、どう止めるの」
サキが聞くと、レアは少しだけ首を傾げた。
「役割を外す」
「外す?」
「うん」
レアは言う。
「駅員なら駅員をやめさせる。
警官なら警官として喋らせない。
兵士なら命令を繰り返させない」
「名前で呼ぶとか、別のことを聞くとか」
「その人自身に戻す」
サキはすぐに紙へ書いた。
同じ言葉を繰り返す
役割の言葉が先に出る
名前で呼ぶ
仕事以外の質問をする
本人の反応を見る
ノノの声がすぐ入る。
『使える』
『駅周辺へ共有する。
疲労扱いで交代、名前確認、役割外の質問』
リオがレアを見る。
「ずいぶん詳しいな」
レアは笑った。
「私、役割で作られたようなものだから」
その声は軽かった。
でも、サキには少しだけ重く聞こえた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・駅周辺対応点/規制区域内・朝】
木崎の指示で、反復していた駅員が一度後ろへ下げられた。
理由は疲労。
周囲にはそう説明した。
その駅員は最初、まだ仕事を続けようとした。
「こちらには進まないでください」
「安全確認中です」
「こちらには――」
その時、別の駅員が彼の肩に手を置いた。
「佐野さん」
名前を呼ばれた瞬間、駅員の目が少しだけ揺れた。
「……え?」
「佐野さん。休みましょう」
「さっきから同じ案内ばかりです」
駅員――佐野は、しばらく相手の顔を見ていた。
それから、自分の手元に持っていた誘導板を見下ろす。
「……俺、何回言ってました?」
「かなり」
「すみません」
佐野は顔色を悪くした。
「頭がぼんやりして……言わなきゃって、それだけが」
木崎は遠くからその様子を見ていた。
黒い影は見えない。
目も普通。
だが、名前で呼ばれた瞬間に戻った。
「……当たりか」
通信で日下部に伝える。
「役割から外すと戻る場合がある」
「名前で呼ぶ。仕事と関係ない質問をする。
反応を見る」
日下部の声が返る。
『共有します』
別の場所では、同じ言葉を繰り返していた警官に、先輩警官が声をかけていた。
「おい、田村。昨日の夜、何食った」
「この位置を保って――」
警官はそう言いかけて、はっとした。
「……え? 昨日?」
「そうだ」
「カップ麺……だったと思います」
「よし、下がれ。疲れてる」
警官は数秒遅れて、自分が何をしていたかに気づいたようだった。
「すみません」
木崎はそれを見て、低く言う。
「薄い。
でも、確かに入りかけてる」
◆ ◆ ◆
【異世界・駅周辺/臨時防衛線・朝】
異世界側でも、同じ方法が使われた。
「その場で待て」と繰り返していた兵士に、同僚が名前を呼ぶ。
「ミルド」
兵士は反応しない。
「ミルド。お前の妹、今いくつだ」
兵士の口が、いつもの言葉を出しかけて止まった。
「……10、いや、11だ」
「春に11になった」
「よし、下がれ」
「お前、今おかしかった」
ミルドと呼ばれた兵士は、顔を青くした。
「俺、何かしたか」
「まだ何もしてない」
同僚は答えた。
「だから下がれ」
兵士は震える手で槍を握り直し、それからゆっくり後退した。
光路の周辺では、同じように何人かが交代させられていく。
大きな混乱にはならない。
だが、現場の空気は変わった。
敵が見えない。
でも、人の内側に薄く触れてくる。
指揮兵は歯を食いしばった。
「全員、互いの名前を呼べ」
「返事が遅い者は下げろ」
「命令を繰り返すだけの者を前に置くな」
兵たちは互いに名前を呼び合った。
それは奇妙な光景だった。
だが、その声が、役割だけに引っ張られそうな人間をこちら側へ引き戻していた。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/臨時分析拠点・朝】
ノノは、次々に入る報告を処理していた。
現実側。
異世界側。
駅周辺。
人流。
名前確認。
反復発話。
交代。
「これ、かなり嫌だね」
ノノが呟く。
セラも静かに頷く。
「はい」
「人の役割を利用しています」
「でも、まだ深くはありません」
「深くなる前に戻す」
ノノが言う。
「名前で呼ぶ。役割じゃないことを聞く。本人に戻す」
セラは画面を見る。
「光路は安定しています」
「ですが、人の流れに乱れが出ています」
ノノは歯を食いしばった。
光路はうまくいっている。
駅周辺も戻り始めている。
だが、その希望に人が集まり、人が動き、その役割に影が触れている。
まだ、小さい。
まだ、止められる。
そう思いたかった。
ノノは全体回線へ言った。
『駅周辺、光路維持』
『人流ノイズへの対処を継続』
『同じ言葉を繰り返す人は、疲労扱いで下げる』
『名前で呼んで、本人に戻して』
その言葉が、現実側と異世界側の両方へ流れていく。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/薄い演算空間】
白い配置図の上で、駅周辺の光は確かに強くなっていた。
だが、その周囲で小さな黒い点も増えている。
パイソンはそれを見ていた。
焦りはない。
驚きもない。
ただ、静かに観察している。
「役割を外す方法に気づきましたか」
彼は、ほんの少しだけ口元を動かした。
「悪くない」
黒い点のいくつかが、名前を呼ばれるたびに薄くなる。
警官。
駅員。
兵士。
それぞれが、役割ではなく個人へ戻されていく。
だが、パイソンはまだ動かない。
「それでいい」
「まだ、薄い方がいい」
白い光の周りで、人の流れは続いている。
戻りかけた駅周辺へ、希望が集まっている。
希望は動きを作る。
動きは役割を呼ぶ。
役割は、影が触れる場所を増やす。
パイソンは、配置図の一部を指先でなぞった。
今はまだ、点でいい。
線にするのは、もう少し後でいい。
◆ ◆ ◆
駅周辺では、世界が戻り始めている。
同時に、人の中に小さな影が入り始めている。
それはまだ、敵の姿をしていない。
黒い化け物でもない。
警官の声。
駅員の案内。
兵士の命令。
人を守るための役割が、少しだけ人から離れて動こうとしている。
けれど、名前を呼べば戻る。
思い出を聞けば戻る。
その人自身に触れれば、まだ戻せる。
光路は通っている。
駅前の輪郭も保っている。
希望はまだ消えていない。
ただ、その希望の周りで、影は少しずつ、人の形を覚え始めていた。
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