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控えめな鳥の鳴き声で目が覚めた。気温は暑すぎず寒すぎず、カーテンの隙間からは柔らかな日差しが差し込んでいる。稀に見る良い日だ。
春は好きだ。暖かで穏やかで、過ごしやすい。アメシスの森の中は年中基本的に穏やかな気候だから、一層過ごしやすい。
「薬草でも干すか」
ゆったりと支度をしてから、ババアから譲り受けた家の扉を開けた。
「あ…こんにちは?」
バンッ。
一瞬で外界から隔離された部屋の中には、ドアノブをきつく握りしめて浅い呼吸を繰り返す俺の姿だけがあった。
え…?何だ今の。居たよな、誰か。というか、見間違いじゃなけりゃ思い切り逆さ吊りになった男がいたんだが。…いやいや、まさかこんな良い日の一発目の景色が逆さ吊りの男だなんて…俺の見間違いだよな?そうに違いない。おい、そうだと言え!
もう一度そろそろと扉を開けて様子を見てみる。
「あっ!すみません、一旦ここから下ろしていただけませんか?」
「幻覚であれよぉ!」
残念ながら逆さ吊りの男はばっちり存在していた。どうやったらそんなトンチキな状況になるんだ。あ、俺の設置した罠のせいか。でも野郎対策の罠なので結局はお前らのせいだ。あぁ、俺の良い日がずんずん遠のいて行く。
そうだ、今ここでコイツを強制送還して何もなかったことにしよう。高い木の枝から吊るされているせいで俺と顔の高さがほぼ一緒だから、このままコイツの顔に薬をかけてしまえば…。
俺が内なる邪悪な思想に基づき、ふらふらと近付いて男の顔をじっと見ていたところ、ふとあることに気が付いた。戸惑った様にぱちぱちと忙しなく瞬く男の丸い瞳。その色が…ガーネットであることに。
弾かれたように後退り、その勢いのまま思わず尻もちをついた。痛い。が、そんなことも気にならない程に今の状況が洒落にならない。
ガーネットはこの国の者ならば誰もが知っている色。グラナートゥム王国を象徴する尊き色。そして、絶対に目立ちたくない俺にとっては何より厄介な色。……即ち。
「お前…っ、王族じゃねーか!」
「えっ…?あ、はい!」
一瞬キョトンとした後に元気よく返事をする男に、責任転嫁も甚だしい怒りが燃え上がる。
「そういうことは早く言えよ!逆さ吊りのまま放置とか普通に罪に問われるだろうが!」
テキパキと縄を解き、男を丁寧に、かつ迅速に地面に下ろす。全く、俺の首と胴体がさよならしたらどうしてくれるんだ。7対3くらいで俺が悪いが、だからといってだんまりは良くない。…何だよ。
突然の俺の変わり身に驚き、男は下ろされたままの姿勢でぼんやりと地面に座り込んでいた。しかし俺が縄を解き終わってよいしょと立ち上がると、はっとした顔で立ち上がり礼を告げた。いや、告げようとした。
「ありがとうございま…」
「…っ!危ねぇ!!」
言葉の途中でぐらりと傾いた男の体を咄嗟に抱きとめる。思いの外ほっそりとした体に、まん丸に広がった瞳。ふわりと広がる甘栗色の髪から仄かに花が香りがした。妙にゆっくりと過ぎる時間の中に散りばめられた要素から、今更ながら自分が男を抱締めているという事実が俺を襲う。
「ひっ!」
「痛っ」
真っ青な顔で立ったまま固まる俺と、真っ赤な顔で地面に転がる男。男の真っ赤な顔は逆さ吊りで頭に血が登りすぎた結果のものなのだが、俺の真っ青な顔は完全に男への拒否反応を示した生理現象によるものだった。
聞くところによると、俺は男性恐怖症というものを患っているらしい。何と言うか、体が完全に拒否しているのだ。だから俺が男を地面に落としてしまったのも致し方ない…はずだ。
深呼吸をして少し心を落ち着けてからちらりと男を見て、仰天した。
「よいしょ…」
なんと男は赤い顔のままふらふらと再び立ち上がろうとしていたのだった。王族相手に言っていいのか分からんが、馬鹿か。馬鹿なのか。慌ててローブの裾を引っ張って手を隠し、そのまま頭を押さえつける。
「この馬鹿…っ!立ち上がってもまた倒れるだけだろうが!」
「う…力強…」
当たり前だ。山育ち舐めんなよ。
「えぇい、座れ!そんで待て!」
叫んだ後急いで家に戻り、使っていなかったテーブルクロスを引っ張り出す。ババアはしょっちゅう取り替えていたが、俺はそう何枚も使わない。2枚もありゃ十分回る。そんなことを思いつつ再び外へ出て、どこかぼんやりしている男にぐるぐると巻きつける。…よし。
「じっとしてろよ!」
「え…うわぁっ!」
男の体の下に手を滑り込ませて持ち上げ、勢いよく走り出す。いわゆるお姫様抱っこ…いや、違う違う。断じて違う。運搬、これはれっきとした運搬だ。
というかこの男、ちょっと軽すぎないか。王族って皆こうなのか。やっぱり貴族社会にはお近づきになりたくねぇな…等と考えて気を逸らしつつ家の中に飛び込む。ささっと椅子の上に座らせ、テーブルクロスを巻き取り、かたかたと震える手でお茶を注いだカップを男に押し付ける。
「飲め」
「え?……あ…ありがとうございま…す?」
混乱した表情の男が心身共に落ち着くのを、俺自身の動悸をお茶で押さえつけながら待つ。どちらもまともに話が出来るくらい冷静になるまでには、まぁまぁな時間がかかったのだった。