アトリエのキャンバスに、あの色が戻ってきた。
みことの瞳の色。
静かな色。
冬の朝の光のように、やさしくて、やわらかくて――すちの心にいちばん近い色。
「ねぇ、すち」
「ん?」
「僕、もう十分幸せだなって、思っちゃった」
「……何言ってんの」
すちは筆を止めた。
みことはふわりと浮かんで、窓辺に座る。いつもと変わらない笑顔。だけど――その身体は、前よりも淡く、細く見えた。
「すちが俺のこと、忘れてないでいてくれて、絵にしてくれて、
それだけで……もう十分、報われたなって」
「バカか、お前」
「え?」
「十分なんて、あるか。……俺が、そう思ってないのに」
声が震えた。
すちの目が、真っ直ぐにみことを見据える。
「俺だって……お前が好きだった。お前がいなくなって、それでもずっと……描き続けたかった。けど描けなかった」
「……」
「だから今は……こうしてお前がそばにいることが、奇跡だって思ってる。
誰が何て言おうが、俺にとっては“今”が現実なんだよ」
みことの目に、淡い涙の光がにじむ。
すちに言ってもらいたかった言葉。
もう二度と届かないと思ってた、あたたかい愛のかたち。
そのとき。
アトリエのドアがノックされた。
「よぉ、すちくん。アトリエ、まだ使ってた?」
ひょこっと顔を出したのは、オカルトサークルの“ひまなつ”だった。
「……あんたか」
「まぁまぁ、そんな警戒しないで。話だけ。あ、君もいるでしょ? みことくん」
「――見えてるの?」
「うん。見えるよ。俺だけじゃなくて、らんも、いるまも、こさめも。みんな、最近やけに感じてる。
君の“存在の揺れ”を」
「……」
ひまなつは、ゆっくりとアトリエの椅子に腰を下ろし、カバンから分厚い本を取り出した。
「これ、“魂の不在と定着”っていう資料。マニアックだけど、マジもん。
読めばわかる。――もう長くないんだよ、みことくん」
「……っ!」
すちは立ち上がった。
「やめろよ……そんなこと、勝手に決めんな」
「勝手じゃない。みことくん自身、気づいてるだろ? もう、こっちの空気が薄くなってきてる」
みことの姿が、ふっと揺らいだ。
その瞬間だけ、彼の表情から笑顔が抜け落ちる。
「俺は――」
「まだ、消えたくない」
ぽつりと、みことが呟いた。
「でも、このままじゃ……君の“魂”ごと消えてしまう可能性もある」
「それでもいい! 俺はすちのそばに……」
「違うよ、みことくん。君の魂には、まだ“想い”が残ってる。
それが強すぎるからこそ、未練のままこの世界に留まってる。
でも、“想い”が成仏できないと、やがて苦しみになる」
ひまなつの声は、やさしくも冷静だった。
「俺たちができることは、ひとつ。――君の魂を、あるべき場所へ導く方法を探すこと」
すちは拳を握りしめた。
「……じゃあ、それって、“みことを消す”ってことだろ?」
「違う。“みことを生かす”んだよ。たとえ形はなくても、お前の中で生きていける方法が、きっとある」
静まり返ったアトリエの中。
誰も、すぐに答えを出せなかった。
ただ――沈黙の中で、すちとみことは、互いの目を見つめていた。
触れられない手と手。
けれど、確かに感じられる温もりが、そこにはあった。
あのとき伝えられなかった言葉が、今ようやく届いたのに。
どうして、神様はこんなにも意地悪なんだろう。
すち。
君といられる未来があるなら、俺は――どんな形でも、生きていたい。
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