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連絡すると言っていた北川から携帯にメッセージが入ったのは、週明け、日曜の夜だった。部屋に来ていた太田がすでに帰った後だったから、ほっとした。
さすがに携帯を見せろとまでは言わないが、一緒にいる時の太田は、私への電話やメッセージに敏感に反応する。そして私の様子を伺い見ながら、根ほり葉ほりとその内容を聞いてくるのだ。
それが嫌で、電源を落としておいたことがあった。しかしそれはむしろ逆効果で、何か知られたくないことでもあるのかと執拗に追及される羽目になった。それ以降は、太田と一緒にいる時に入った電話やメッセージなどには、彼の質問攻めがついてくるものと諦めている。下手に隠すよりはまだましだ。どうせそんなにも頻繁に、知人や家族から連絡が入るわけでもない。
私はどきどきしながら北川のメッセージの文字を拾い始めた。しかし、読み終えて困惑した。
時間は午後七時半。それはいい。けれど、待ち合わせの場所がとある老舗ホテルのロビーとなっている。しかも、そこのレストランを予約したと書かれてあった。
私は慌てて立ち上がった。ちょうどいい服はあっただろうかと、クローゼットの中を覗き込んだ。あれこれ悩んだ末、最近買ったばかりだった紺色のワンピースを着ていくことに決める。これならレストランに着て行っても恥ずかしくないだろうし、落ち着いた色合いだからオフィス用としても問題ない。職場にいる時は、汚れ対策に薄手のカーディガンでも羽織っておけばいい。
予想される話題からして、その約束の時間が楽しいものになるとは思えなかった。しかし、北川と会うその日をどこか心待ちにしている自分がいた。
そしてやってきた当日。私は緊張と期待と少しの怯えを胸の中に抱えながら、その日一日を過ごした。
久しぶりにスムーズに仕事が終わり、さて北川はどうかと目をやれば、斉藤と一緒になってパソコンの画面を睨んでいる。
もう少しかかるのかしら――。
気にはなったが、斉藤がいるのなら私が心配する必要はないと思い直す。
とにかく会社を出ようと思い、私はデスク周りを片づけた。約束の時間まではだいぶ余裕があるが、アパートに一度戻れるほどでもないから、どこかで時間を潰そうと考える。私は席を立ち、課のメンバーに帰りの挨拶をした。
「お先に失礼します」
「お疲れ様。……そうだ、言い忘れてた」
急に何を思い出したのか、田中に引き留められた。
「急で大変申し訳ないんだけど、今週の木、金、支社に行ってきてほしいんだ。予定しておいてもらえるかな?」
確かに急な話だとは思ったが、どうせ断るという選択肢などない。
「私一人でですか?」
「いや、今回は都合が合えば北川さんも一緒にって、部長から言われてる」
「北川さんも、ですか……」
どうしてわざわざと怪訝に思ったが、無表情で通す。
「あそこの総務担当してる人、最近採用した人でしょ?どうも引継ぎがうまく行っていなかったらしいんだ。電話とかメールで教えたりしてたと思うけど、直接行って事務指導してきてもらいたいと思ってさ。実はこれ、なかなか不備が改善されないっていうんで、向こうの支社長から先週末の夜、部長に連絡があったんだって。ぜひ本社から誰か来て、教えてやってくれないかって。それでさ、北川さんにも一緒に行ってもらって、この機会に支社の業務の様子を見てもらうといいんじゃないかって、部長が言うんだ」
「はぁ……」
田中の説明を聞いた後も、北川の同行については腑に落ちない気分だったが、それはさて置き、出向いての指導は今後のためにいい機会だ。
「確かに直接話した方が教えやすいですし、相手も分かりやすいですよね。私でお役に立てるのなら喜んで」
「こっちは今月の締めが終わってるし、直接一緒に仕事しながら教えて来てもらえれば、その分来月からは不備が減るだろうしね」
「ある意味、私、責任重大ですね。でも分かりました。予定しておきます」
「……というわけで、北川さんも、予定しておいてくれる?明日三人で簡単に打ち合わせしよう」
突然話を振られた格好になった北川は軽く目を見開いたが、すぐに真顔になって頷いた。
「はい、分かりました」
北川は席についたまま私に視線を当てて微笑んだ。
「笹本さん、よろしくお願いします」
私はその視線から逃げるようにして、慌てて頭を下げる。
「こちらこそお願いします」
「悪かったね。帰り際にする話じゃなかったな。じゃあ、また明日。お疲れ様」
「お先に失礼します」
もう一度田中や同僚たちに会釈して顔を上げた時、北川と目が合った。
後で――。
彼の唇が言葉を小さく刻んだように見えて、どきりとする。太田がいなくて良かったと安堵しつつオフィスを出た。ロッカールームで身支度を整えながら、昨夜の太田とのメッセージのやり取りを思い出す。
太田とは先週からプライベートで会っていない代わりに、メッセージのやり取りをしていた。この土日は私が実家に行く用があったから会わなかった。また、経理課は今、上半期の決算が絡んだ上での繁忙期のため、毎日残業が続いているようで、太田曰く「平日に会う余力が残っていない」らしい。それは私には好都合でしかなかったが。
そして今日太田は予定通り、経理課長と一緒に他県にある支社に出張している。
戻るのは遅い時間になるだろうからやっぱり今夜は会えないと、昨夜遅くメッセージが入った。 それに対して、私は彼を気遣う彼女として返信した。
―― 大変ですね。頑張ってくださいね。早く仕事が落ち着けばいいですね。
太田からの返信はいつものように早かった。
―― ありがとう。明後日の夜にでもどこかで晩飯を食べよう。
私は太田の「明後日」という言葉に緊張した。彼がそう言うからには、きっと会うことになるはずだった。その時が別れを告げる一つのタイミングになるかもしれないと思いながら、私は短く返した。
―― はい。おやすみなさい。
もう一度くらい返信があるかもしれないと思っていたが、その時点ですでに真夜中過ぎ。その後携帯から通知音が聞こえることはなかった。
私の気持ちはすでに太田から離れている。しかし別れ話を切り出した時、きっと彼は簡単には頷かないだろうと思っている。だからと言って、今の状況に囚われ続けていたくはない。北川が前に進もうとしているように、私も早く太田に別れを告げて前進したい。北川への想いは想いとして、太田に対峙するための勇気を今夜、北川からもらえたらと思う。
北川への想いを消せることを期待して、太田と付き合い出したはずだった。それなのに、再び北川を想うことになり、今は太田の束縛から逃げたいと思っている。まさかこんなことになるとは思ってもいなかった、と自嘲しながらも、私は一つの決心を固めるような思いで、ロッカーの中の鏡の中の自分を見つめた。
会社を出てからの私は、ホテル近くのカフェに入って少し時間を潰した。その後、北川から指定されたホテルに向かった。
ホテルに到着し、少々戸惑った。こんな高そうなホテルとは今まで縁がなかったから、どきどきしながら自動ドアの内側に足を踏み入れた。入ってすぐ左手にあるロビーに足を向け、ひとまず端の方のソファに腰を下ろす。約束の時間まではあと十五分ほど。少し早く着いてしまったかと思いながら携帯を取り出して、彼からの連絡が特に入ってはいないことを確かめた。
今夜北川と会う目的は、数年前の出来事に互いに向き合うことにあった。彼は私のことを怒っていないと言ってくれたけれど、話したらやっぱり腹を立てるのではないか。そう思うとますます緊張して、気分も重くなってくる。
第一声はどうしようかと考えながら足元のカーペットに目を落としていたら、そこに男物の靴先が入り込んできた。はっとして顔を上げたそこには北川が立っていた。
彼は嬉しそうに口元に笑みを刻んでいた。
「来てくれたんだね。ありがとう」
北川につられたように、ぎこちなかったけれど私も笑みを浮かべる。
「約束ですから。お仕事、お疲れ様でした。無事に終わったんですね」
「あぁ。約束の時間に遅れるんじゃないかとはらはらしたけど、斉藤さんがパパッとやっつけてくれてね。総務の仕事もなかなか大変だね」
おどけた口調の北川に私はつい笑い声をもらした。
「ふふっ。仕事はなんでも大変でしょ」
北川の目元が和らぐ。
「それもそうだ。さて、行こうか、レストラン。予約の時間に間に合って良かったよ」
北川の手が差し出される。
「あの……」
その手に戸惑っていると、北川は軽く身をかがめ、重ねて私を促した。
「行くよ」
「はい……」
私はおずおずと彼の手を取り、ソファから立ち上がった。
その後は手を離すのだと思っていたら、彼はそのままエレベーターに向かおうとする。
「北川さん、待って。手を離して」
彼は肩越しに振り返り、軽く私をにらんだ。しかしよく見ればその目は笑っている。
「違うでしょ」
「え……」
北川は口元に笑みを含み、戸惑っている私の顔をのぞき込んだ。
「この前、給湯室では名前で呼んでくれたのに。二人の時は昔みたいに呼ぶって約束、忘れた?」
「約束って……」
じっと見つめられて、私は目を逸らした。心の奥までのぞかれてしまいそうで怖かった。
「あ……あの。拓真君、手を離してくれない?恥ずかしいから」
「エレベーターに乗ったら離してあげる」
北川――拓真は意地悪な笑みを浮かべて、私の手をキュッと握った。
「行こうか」
それ以上は逆らえず、私はどきどきしながら彼の後に従った。
結局エレベーターに乗っていた間中も、彼は私の手を離さなかった。ようやく私の手を解放したのは、目的の階に着いてからだった。
レストランに入って行き拓真が名を告げると、早速席まで案内された。
真向かいに拓真がいることで、いっそう緊張する。これから話すことになるだろう当時のことが頭にあって、正直言って食事を楽しめる気分ではなかった。
拓真は私の気持ちを察したのだろう。無口になっている私を気遣うように、最近見た映画の話や、どこそこに昔はなかった店ができている、その反対にあの店がなくなったのは寂しいだとか、他愛のないことをあれこれ話題に乗せた。とは言え言葉が途切れがちだったのは、本当は彼も緊張していたからかもしれない。
遅ればせながら、私はそのことに思い至る。拓真にばかり気を遣わせ、話をさせているのが申し訳なくなってきて、私もぼそぼそと彼に言葉を返した。
盛り上がりに欠ける私たちの前に、デザートが運ばれてきた。それを食べ終えてから、私はいよいよ思い切って口を開いた。
「それで拓真君、あの、今日は……」
彼は食後のコーヒーを口に運んでいたが、言葉尻を濁す私を見てカップを置くと、おもむろに口を開いた。
「……まずは、今日は俺のわがままのために時間を作ってくれてありがとう」
にこりと微笑みかけられて、私はテーブルの上に目を落とした。いよいよ本題だと思ったら、途轍もない緊張でみぞおちの辺りが苦しくなってくる。
拓真は静かな声で話し出した。
「もう何年も前のことをいまだに気にしてるなんて、自分でもどうかと思ってる。だけどこうやって再会したからには、この前も言った通り、あの時どうして君が俺から離れて行ったのか、何も聞かないままでは全然前に進めないと思ったんだ。そして俺は怒っていないし、責めるつもりだってない。それはこの前も言った通りだから安心してほしい」
うつむいたままの私に、彼は優しい声で続ける。
「あの日を境に、連絡が全然取れなくなったよね。バイトにも来なくなって、部屋まで会いに行っても会ってもらえなかった。嫌われたんだと思ったけど、俺、何がいけなかったのかが分からなくてさ。碧ちゃんが嫌だと思ったことがあるんなら、それを全部直して、直すように努力して、どうにかもう一度君とやり直せないかって思った。それが無理だというなら、言葉にしてはっきりと俺のことを振ってほしいと思った。だけど結局それは叶わないまま、就職でこっちを離れることになった。その時に、君との思い出をきれいさっぱり捨てようと思ったんだけど、そんなの簡単に消えるわけがない。せめて少しでも早く君を忘れられるように、君とのつながりを完全に断ち切るために、連絡先だけでも消してしまおうと考えた。だけど結局消すことができなくて、今に至るってわけだ。未練がましいと笑ってくれて構わないよ」
拓真は自嘲気味に笑い、ひと呼吸ほど置いてから私に問う。
「……あの時、どうして俺の前からいなくなってしまったの?」
私は脚の上で両手を組んだ。力が入ったために、指の関節の色がなくなる。
「それは……」
言わなければ。今夜はそのためにここに来たのだから――。
そうは思うがなかなか言葉が出てこない。
「思ったこと、本当のことを言ってくれて構わない。あぁ、それよりもまずは先に場所を変えようか。こんな風に明るい場所よりも、少し暗い場所の方が話しやすいかもしれないからね」
拓真はそう言って、私を促し席を立った。