テラーノベル
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午前一時を過ぎても、玄関の鍵が回る音はしなかった。
みことはリビングのソファに座ったまま、スマートフォンの画面を見つめていた。
画面に表示されているのは、最後にすちから届いたメッセージ。
『今日も会社泊まりになりそう。ごめんね』
その一文が送られてきたのは、三日前だった。
「……今日も、かぁ」
小さく呟いて、みことはスマートフォンを伏せる。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の低い駆動音。
壁時計の秒針。
窓の外を走る車の音。
それだけ。
本来なら、もう一人分の生活音があるはずだった。
「ただいまー」
仕事から帰ってきたみことが玄関を開ければ、
「おかえり。今日もお疲れさま」
少し疲れた声で迎えてくれるすちがいる。
みことが鞄を置けば、すちが「今日どうだった?」と聞いてくれる。
みことが「疲れたぁ」と言えば、すちは笑って頭を撫でてくれる。
夕飯を一緒に食べて。
今日あったことを話して。
お風呂に入って。
寝る前には、いつものように並んだ布団の中で、
「おやすみ、みこと」
「おやすみ、すち」
そう言い合う。
それが、二人の毎日だった。
ほんの一週間前までは。
「……一週間」
みことはぽつりと呟いた。
すちが家に帰ってこなくなって、今日で七日目。
最初は、仕方ないと思っていた。
すちは仕事ができる。
会社でも重要な仕事を任されていて、忙しい時期には帰宅が遅くなることも珍しくなかった。
日付が変わってから帰ってくることだってある。
だから、最初の二日間は何も思わなかった。
『無理しないでね』
『ちゃんと寝てね』
『ご飯食べた?』
そんなメッセージを送るだけ。
返信が遅くても、気にしなかった。
『今終わった』
『これから寝る』
『ありがとう』
短い返信が来れば、それだけで安心できた。
すちが頑張っているのだから、自分も頑張ろう。
そう思えた。
三日目。
みことは、すちが帰ってきたときのために夕飯を作った。
すちが好きなものをいくつか並べて。
帰ってきたらすぐ食べられるように、ラップをして冷蔵庫に入れた。
けれど、その日もすちは帰ってこなかった。
四日目。
作った料理を温め直して、一人で食べた。
「……おいしい」
自分で作った料理に向かって呟いてみる。
けれど、味がよく分からなかった。
五日目。
みことは、すちの使っていたマグカップを洗った。
もう十分綺麗なのに、念入りに洗った。
さきいか
194
るななっち
106
13,898
何度も何度も。
まるで、そうしていればすちが帰ってくるような気がして。
六日目。
みことは仕事から帰ってきて、玄関を開けた。
「……ただいま」
返事はない。
「……すち?」
もちろん、誰もいない。
分かっていた。
分かっていたのに。
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
それでもみことは笑った。
「……忙しいもんね」
誰もいない部屋に向かって言い聞かせる。
「仕方ない、仕方ない」
すちに迷惑をかけてはいけない。
仕事で大変なのに、自分まで負担になったら駄目だ。
寂しいなんて言ってはいけない。
帰ってきてほしいなんて、わがままを言ってはいけない。
だから。
みことは我慢した。
ずっと。
そして七日目。
とうとう、何もする気が起きなくなった。
「……」
朝、目を覚ましても、布団から出られない。
隣は空っぽだった。
すちが使っている枕。
すちが掛けていた布団。
そこに残っている、ほんの少しの匂い。
みことは布団を握った。
「……すち」
呼んでも、返事はない。
それが当たり前なのに。
今日は、どうしても耐えられなかった。
「……会いたい」
声にした瞬間、胸が苦しくなる。
「……顔、見たい」
ぽろり、と涙が落ちた。
「声、聞きたい……」
みことは慌てて目元を擦った。
「……駄目」
自分に言い聞かせる。
「泣いたら駄目。すち、頑張ってるから……」
スマートフォンを手に取る。
すちの名前を開く。
通話ボタンに指を伸ばす。
けれど。
「……忙しいよね」
止まる。
「今電話したら、迷惑かな」
指を引っ込める。
代わりにメッセージを開いた。
『いつ帰ってくる?』
そこまで打って、消した。
『寂しい』
打って、消した。
『会いたい』
それも消した。
最後に残ったのは、
『無理しないでね』
だった。
送信。
すぐに既読はつかなかった。
「……」
みことはスマートフォンを胸元に抱えた。
返事が来ない。
分かっている。
忙しいのだ。
仕事をしているのだ。
自分なんかより、ずっと大変なのだ。
だから。
我慢しなくちゃ。
「……大丈夫」
誰もいない部屋で、みことは笑った。
「俺、大丈夫だから」
けれど、その笑顔はひどく歪んでいた。
その日の夜。
みことは夕飯を作らなかった。
作る気力がなかった。
冷蔵庫を開けても、何を食べたいのか分からない。
適当に何かを口に入れようとしても、食欲が湧かなかった。
結局、ソファに座ったまま、すちとの写真を眺めていた。
旅行に行ったときの写真。
二人で外食したときの写真。
みことが寝落ちしてしまったとき、すちがこっそり撮った写真。
『かわいすぎ』
写真には、すちがそう書き込んでいた。
「……なんで」
みことの目から、また涙が落ちた。
「なんで帰ってこないの……」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
「俺、何かした……?」
もちろん、すちが悪いわけではない。
仕事なのだ。
忙しいだけ。
分かっている。
頭では、何度も理解している。
それなのに。
「……寂しいよ」
ぽつり。
「すち……」
スマートフォンを握りしめる。
「俺、ずっと待ってるよ」
返事はない。
「ご飯も作ってるよ」
もちろん、誰も聞いていない。
「家も綺麗にしてる」
少しずつ声が震えていく。
「仕事から帰ってきたら、ちゃんと『おかえり』って言えるようにしてる」
涙が止まらなくなった。
「だから……」
みことは膝を抱えた。
「帰ってきてよ……」
その瞬間。
スマートフォンが震えた。
「……!」
みことは勢いよく画面を見た。
すちからだった。
『今週いっぱい会社泊まりになるかも。ほんとにごめん』
「…………」
一瞬、期待した。
もしかしたら帰ってくるのかもしれない。
もしかしたら。
けれど。
違った。
「……そっか」
みことは小さく笑った。
「まだ、帰ってこないんだ」
涙がまた落ちる。
でも、返信を打った。
『分かった。仕事頑張ってね』
送信。
それからスマートフォンを伏せる。
その日、みことは一人で眠った。
いつもすちがいる側の布団を見ないようにして。
何度も寝返りを打って。
眠れないまま、朝を迎えた。
そして翌日。
みことは仕事中も、ぼんやりしていた。
「みことくん、大丈夫?」
「え?」
同僚に声を掛けられて、みことは顔を上げる。
「なんか今日、ぼーっとしてない?」
「あ……ごめん」
「疲れてる?」
「ううん。大丈夫」
いつもの言葉。
大丈夫。
その言葉を、みことは何度繰り返しただろう。
仕事が終われば家に帰る。
帰れば、一人。
テレビをつける。
音楽を流す。
部屋の電気を全部つける。
それでも静かだった。
すちの声がない。
すちの笑い声がない。
「……ただいま」
玄関で呟く。
もちろん返事はない。
「……おかえりって、言ってよ」
自分で言ってしまって、みことは口元を押さえた。
「……俺、何してんだろ」
寂しい。
ただ、それだけだった。
なのに。
その「ただ」が、あまりにも重かった。
八日目の夜。
午前二時。
みことはリビングの床に座っていた。
電気もつけずに。
スマートフォンだけが、手の中で淡く光っている。
すちとのトーク画面。
最後のメッセージ。
『頑張ってね』
その文字を、何度も何度も眺めていた。
そして。
みことは初めて、自分からメッセージを打った。
『すち』
送信。
『まだ帰ってこない?』
送信。
少し迷ってから。
『寂しい』
送信。
さらに。
『会いたい』
送信。
そこで指が止まった。
削除しようと思った。
でも、できなかった。
そして最後に。
『俺、もうちょっとだけ頑張るから』
送信。
既読はつかない。
「……」
みことは画面を見つめる。
一分。
三分。
十分。
それでも、既読はつかない。
「……そっか」
スマートフォンを胸に抱える。
「忙しいもんね」
涙が頬を伝った。
「ごめんね」
誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。
「こんなことで寂しがって……」
みことは小さく丸くなる。
「俺、ちゃんと待ってるから」
そう言った。
「だから……」
声が震える。
「忘れないでね」
その言葉だけが、静かな部屋に落ちた。
それから数日後。
深夜二時半。
玄関の鍵が回った。
「……ただいま」
久しぶりに聞いた声だった。
「……!」
リビングで眠っていたみことが、ゆっくり顔を上げる。
夢なのかと思った。
幻聴かもしれない。
けれど。
「みこと?」
聞き慣れた声。
「……すち?」
みことが立ち上がる。
玄関に立っていたのは、疲れ切ったすちだった。
髪は少し乱れていて、目の下には疲労が滲んでいる。
それでも。
「ただいま」
そう言って笑った。
「……っ」
みことの目から、涙が溢れた。
「みこと?」
すちが驚いて近づく。
「どうしたの…?」
「……」
みことは何も言わない。
ただ、すちの服をぎゅっと掴んだ。
「……みこと」
「……遅い」
「…うん」
「遅すぎる……」
「うん。ごめん」
「……ずっと待ってた」
「うん」
「ずっと……」
声が崩れる。
「俺、いっぱい我慢した……」
すちは黙って、みことを抱きしめた。
「……ごめんね」
その腕の中に包まれた瞬間。
みことの中で張り詰めていたものが、全部切れた。
「……寂しかったぁ……」
「うん」
「すちがいないと、家が静かで……」
「うん」
「何しても楽しくなくて……」
「うん」
「ご飯作っても一人で……」
「うん」
「寝るときも……隣、いなくて……」
「うん」
「毎日、帰ってくるかなって……」
「……うん」
「今日こそ帰ってくるかなって……ずっと……」
みことはすちの胸元に顔を埋めた。
「……寂しかった」
すちは何も言わず、ただ強く抱きしめる。
しばらくしてから、みことの頭をゆっくり撫でた。
「……ごめん」
「……うん」
「俺、仕事のことばっかり考えてた」
「……うん」
「みことがこんなに我慢してたの、気づいてなかった」
「……迷惑かけたくなかった」
「迷惑?」
すちが少しだけ身体を離す。
そして、泣き腫らしたみことの顔を見る。
「みことが俺に寂しいって言うことが、迷惑なわけない」
「……でも」
「でも、じゃない」
すちは優しく、みことの頬を撫でた。
「俺が忙しくても、みことは我慢しないで?」
「……」
「寂しかったら寂しいって言って」
「……うん」
「会いたかったら会いたいって言って」
「……うん」
「帰ってきてほしかったら、帰ってきてって言って」
「……帰ってきて」
みことの声は、まだ震えていた。
「……これからは、ちゃんと帰ってきて」
すちは目を細める。
「うん」
「約束?」
「約束」
「……絶対?」
「絶対」
みことは少しだけ安心したように、すちの服を握り直した。
「……すち」
「ん?」
「今日……一緒に寝て」
「もちろん」
「ずっと隣にいて」
「うん」
「朝まで?」
「朝まで」
「……離れない?」
「離れられないなぁ」
その言葉を聞いて、みことはようやく小さく笑った。
「……よかった」
すちはそんなみことを抱きしめながら、心の中で強く思った。
忙しいことを理由にしてはいけなかった。
自分にとっては仕事の一週間でも。
みことにとっては、大切な人が突然いなくなった一週間だったのだ。
そして。
みことがここまで我慢してしまったのは、きっと自分を大切に思っているからこそだった。
「みこと」
「ん……?」
「もう我慢しないでね」
「……うん」
「俺も、みことに寂しい思いさせないようにする」
「……うん」
すちはみことの額にそっと触れるようにして、優しく笑った。
「ただいま」
今度こそ。
ちゃんと帰ってきた。
「……おかえり、すち」
その言葉を聞いたすちは、少しだけ目を細める。
「ただいま」
そして二人は、久しぶりに同じ布団に入った。
すちの腕の中で、みことは安心したように目を閉じる。
しばらくすると、すちの服を握っていた指から、少しずつ力が抜けていった。
「……すち」
「ん?」
「好き……」
「俺も好きだよ」
「……ずっと?」
「ずっと」
その返事を聞いて。
みことはようやく、穏やかな眠りに落ちていった。
今夜だけは。
隣に、大好きな人がいる。
それだけでよかった。
__𝐹𝑖𝑛.
2026年8月14日
コメント
2件
はぁぁぁぁぁぁ😭天才すぎる!寂しいけど迷惑を掛けたくないってのがみこちゃんすぎる😭大切な人が1週間も帰って来なかったらそりゃ心配するよねぇ、天才すぎました!次のお話もまってます!