「あれ? 僕、言わなかったっけ? 特別ボーナスだからお金は要らないよ? って」
「ですが――」
「倍相くん、キミほどうちの財務経理課のことを考えてくれている社員はいないと思うんだ。僕はキミが残ってくれるだけで充分それだけの価値があると思ってるんだけどな? ――まぁ、それでもどうしても気になるっていうのなら……」
土井恵介は、そこで一旦言葉を区切って岳斗の手をギュッと握ると、
「仕事で貢献して返して、出世払いして?」
そう言って微笑んだ。
***
「さて、荒木さん。話が宙ぶらりんのまま、待たせたね」
岳斗との話が付いたことでこちらを向き直った土井社長にじっと見詰められて、羽理はキュッと縮こまった。
そんな羽理の手をすぐそばから大葉がふんわり包み込んで落ち着かせてくれる。
「伯父さん、話の内容次第じゃあ俺、母さんに相談しますから」
「ちょっ、たいちゃんそれは穏やかじゃないよ?」
伯父の土井恵介が大葉の母親で、恵介の実妹・屋久蓑果恵に滅法弱いことは知っている。
先日だって妹の逆鱗に触れて彼女の自宅への接近禁止令が出されていて酷く落ち込んでいた。恵介伯父が、果恵にそれを解除してもらうために、甥っ子の大葉と羽理を自宅に招いたのは記憶に新しいところだ。
母のことを持ち出すとか公私混同も甚だしいと自分でも思った大葉だったけれど、羽理のためだと思えばそんな綺麗ごとなんか言っていられない。
ほんの数日前に急遽用意した仮初のペアリングをはめた羽理の左手薬指を意識しながら、大葉は恵介伯父を睨みつけた。
「……さ、さすがに二人にとって悪い話じゃないと思うから……そんなに睨まないで?」
社長としてというより、伯父としての側面を見せながら苦笑した恵介伯父に、大葉はひとまず視線を緩めた。
恵介は屋久蓑家の三姉妹弟の中で一番妹に似た甥っ子の大葉から嫌な顔をされるのを、すごく嫌う。大葉が表情を少し和らげたことでホッと肩の力を抜くと、恵介は改めて居住まいを正した。
「たいちゃんには予定通り副社長になってもらうってさっき話したよね?」
「はい。……まだお受けするとは答えてませんけど……」
「もうたいちゃんは意地悪だなぁ。倍相くんが財務経理課へ残ることになったんだから断る理由はないでしょうに」
「まぁ……それはそう、です、けど……」
まるで羽理を置いてフロアを移動するのがイヤだと言わんばかりの大葉の不満顔を無視して、恵介が続ける。
「たいちゃんが昇格することで空く、総務部長の席には別の支社から引き抜き予定があるんだ」
そこまで言って、恵介はちらりと羽理を見詰めた。
「で、さっき話した通り、財務経理課には美住杏子さんが入る予定だ。彼女はよその会社で経理課に在籍していたようだから、即戦力になってくれるだろうし、問題ないと思う。そこで、だ――」
いよいよ羽理の進退についての話だと察した大葉からじっと見詰められて、恵介はゴホゴホと咳ばらいをすると、
「あ、荒木さんには内助の功っていうのかな。副社長になるたいちゃんのサポートをしてもらいたいって思ってるんだけどね」
そこまで言ってから、「けど……」と言葉を濁した。
「けど?」
大葉の低められた声に苦笑すると恵介が続ける。
「荒木さん自身も分かってるだろうけど……今のままじゃ能力不足で到底たいちゃんのサポート役なんて務まらない。そう思わない?」
土井恵介からじっと見詰められた羽理は、恐る恐るといった具合にコクッとうなずいた。
「そこで――だ。荒木さんには三ヶ月ほど我が社を離れてここへ行ってもらおうと思ってるんだ」
土井社長からの提案に、羽理は瞳を見開いた。
***
「羽理、いなくなっちゃうの?」
倍相課長から呼び出されて、退職はなくなったと聞かされて喜んだのも束の間、今度は仲良くしている同僚の荒木羽理から「財務経理課を去ることになったの」と聞かされて、法忍仁子は上司がいなくなると聞かされたときよりも何倍も悲しくなった。
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