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エージェント67
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ゲンゾウは肩でアパートのドアを押し開けた。鍵は十年も油を差していないかのように軋んだ。ドアは渋々とした抵抗の末に開いた。そしてすぐに匂いが彼を襲った。新しいペンキと古いカーペットの埃が混ざった匂い、そしてどこか金属のような匂い。まるでここに長い間誰も住んでいなかったかのようだった。 狭い玄関は靴が二足分入るのがやっとだった。その先には小さなキッチン兼リビングがあり、テーブルはソファに押し付けられている。テレビは壁に掛かり、唯一「普通の生活」を見ている存在のようだった。 左には両親の寝室のドア。右には薄い引き戸の向こうに彼のスペース。バルコニーはただの窓枠に手すりが付いただけで、半メートル先には隣の建物の無機質な壁があった。空もない、街もない、風もない。ただ灰色のコンクリートがこちらを見返しているだけだった。 彼は靴紐をほどかずにスニーカーを蹴り落とした。鈍い音が床に響いた。リュックも壁に投げ、柔らかい音を立てて落ちた。 静寂が一瞬で降りてきた。まるでこの部屋が彼の入室を待っていて、ようやく完全に沈黙できたかのようだった。 冷蔵庫だけが低く一定の音を立てている。外では車のエンジン音と信号の電子音が遠くにぼんやりと届いていた。 ゲンゾウは裸足でキッチンへ向かった。床は冷たく、最近掃除されたせいでわずかに粘ついている。 下の棚を開けると、母がすでに整然と物を並べていた。インスタントラーメンが兵士のように並び、米の袋、ツナ缶、そして大きなポテトチップスの袋が二つ。塩と酢味、そしてワサビ海苔。 彼はワサビ味を取った。歯で袋を破るとアルミが大きな音を立てて鳴り響いた。 鋭い刺激臭が鼻を刺し、少し焼けるようだった。 彼は古いソファに沈み込んだ。それは大阪から持ってきたもので、真ん中がへこんでいる。そこはいつも父が座っていた場所だった。 布にはまだ古い家の匂いが残っていた。それはもう過去のものだった。 彼はリモコンを取り、テレビをつけた。画面が点滅し、白黒映画が映し出された。ヤクザ、長いコート、雨の路地、裏切りの影。 音声は小さく、字幕だけがゆっくりと流れていた。 彼は内容を追わなかった。ただ背景音が欲しかった。声、音楽、足音。それだけでよかった。沈黙に飲み込まれないために。 彼は背もたれに体を預け、足をローテーブルに乗せた。 ポテトチップスを一掴みして口に入れる。バリバリと音が響く。ワサビが舌を刺すが、それがむしろ心地よかった。 思考がゆっくりと流れ始める。水滴のように。 母からのメッセージ:「面接は3時。8時か9時には戻る。ちゃんと食べなさい、チップスだけで生きないで。」 彼は「OK」と返した。 父は2日前からチャットに現れていない。新しい仕事、新しい人、新しいルールに埋もれているのだろう。 明日は外に出て、コンビニを探すべきだ。飲み物か弁当でも買う。それかただ人を見るだけでもいい。 3日後には学校が始まる。制服は買ってあるが、ここではまだ着ていない。違う襟、違う感覚。 同じだろうか。大阪と同じように、人の弱さを見つけてすぐに突く連中なのか。それとも東京は違うのか。ここなら消えられるのかもしれない。 彼はさらにチップスを食べた。 画面では主人公が雨の中で立ち尽くし、煙草を吸い、虚空を見つめていた。 ゲンゾウは思った。彼にもこんな日があったのだろうか。誰も時間通りに帰ってこない家に帰る日。 その同じ瞬間、東京の別の場所。普通の公立中学校の教室で、15歳の3人が放課後の空き教室にいた。 窓は開いているのに空気は重い。チョークの粉、汗、古い教科書の匂い。 レンジは窓際に座っていた。肘を机に置き、コートのポケットに手を入れている。髪が目にかかり、左目の下の薄いあざを隠している。 誰も見ていない。ただ机の傷を見ていた。そこには昔誰かがナイフで「クソ学校」と刻んでいた。 2列後ろにタクミがいた。椅子にだらしなく座り、長い足を通路に投げ出し、腕を頭の後ろに組んでいる。口元には歪んだ笑み。 その目はレンジを見ていた。距離はあるのに、まるで確実に何が起こるか知っているような目だった。 アヤはレンジの近くに座っていた。背筋はまっすぐで、手は机の上で組まれている。表情は静かだが張り詰めている。 「で、レンジ」 タクミがだるそうに言った。 「また無視?昨日のせいで舌でも失くした?それとも怖くて喋れないのか?」 レンジは答えない。手はポケットの中で強く握られ、爪が手のひらに食い込む。 タクミは鼻で笑い、スマホをいじった。 「まあいい。明日も同じだ。遅れるなよ。別の方法で思い出させることになる」 アヤが鋭く言った。 「やめて、タクミ」 タクミは眉を上げる。 「お、アヤ起きたか。普段は石像みたいなのに。どうした、また庇うのか?」 「やめてって言った」 タクミは肩をすくめて立ち上がる。 「じゃあな、負け犬」 ドアが強く閉まる音が廊下に響いた。 レンジはようやく顔を上げた。 「……ありがとう」 アヤは首を振る。 「いい。もう疲れただけ」 その後、レンジの記憶がフラッシュバックのように浮かぶ。 小学生の頃。 最初は簡単だった。レンジとタクミは遊んでいた。校庭で走り、弁当箱で基地を作り、自販機のお菓子を分け合った。 タクミはいつも明るく、レンジを引っ張った。 アヤが転校してきた。 「一緒に遊んでいい?」 タクミは笑った。 「いいよ!3人だ!」 そこにカオルが現れた。 最初はただ見ているだけだった。 しかしすぐに変わった。 タクミがレンジを押し、冗談でお菓子を奪った。 カオルは走ってきて叫んだ。 「返して!それレンジのだよ!弱いからって取るな!」 その声には子供らしさの中に、すでに冷たい毒があった。 それが始まりだった。 カオルはレンジを「泣き虫」「弱虫」と呼び始めた。 タクミもそれに乗った。 アヤは止めようとしたが、止まらなかった。 記憶が消える。 レンジは机を見る。 アヤが袖を軽くつかむ。 「帰る?」 彼はうなずく。 二人は立ち上がり、教室を出る。 一方ゲンゾウはチップスを食べ終えた。 袋を丸めて捨てる。 テレビを消す。画面に一瞬だけ自分の顔が映る。 ソファに倒れ、天井を見る。 静寂。 完全な静寂。 彼はまだ知らない。 レンジ、タクミ、アヤ、そしてカオルのことも。 ただそこに横たわっている。 この停滞がいつか壊れ、 何かが始まるのを待ちながら。
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