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「お、戻ってきた」
リビングの扉が静かに開いた瞬間
ソファにいたソーレンが
半身を起こしながら声をかけた。
時也がゆるやかな歩調で戻ってくる。
着物の裾はきちんと整えられていたが
額にはわずかな汗の跡が残っていた。
それでも、その表情は安堵に満ちている。
「⋯⋯とりあえず
レイチェルさんのご無事な様子に
ひと安心いたしましたが⋯⋯
異常に感情が昂っておいででしたね」
時也は静かに腰を下ろし
息を整えるように
胸元の襟を整えながら呟いた。
「やはり、ソーレンさんの言うとおり
〝嬉ション〟だったのですね、時也様!」
隣のソファで背筋を正し
両手で紅茶のカップを丁寧に
包むように持ったライエルが
ひどく真面目な顔で頷いた。
その横顔には確信と尊敬が混ざった
どこか感心しきった表情が浮かんでいる。
「⋯⋯はい?うれ⋯⋯しょん⋯⋯??」
時也の鳶色の瞳が
不思議そうに瞬きを繰り返す。
まるで頭の中で何度もその言葉を
咀嚼しているような、柔らかな困惑。
眉根がゆるやかに寄り
睫毛の奥で眼差しが思考の渦に沈んでいく。
「それは⋯⋯
どういう〝概念〟なのでしょうか?」
純粋な問いかけだった。
混じりけのない疑問、悪意も疑いもない
ただの〝知りたい〟という好奇心。
それを受けて──
ソーレンは、音もなく頭を抱えた。
「⋯⋯⋯⋯」
彼は眉間を押さえ
指先でこめかみをぐりぐりと揉みながら
静かに深く息を吐いた。
そのため息には
重さと共に諦めが滲んでいる。
「⋯⋯ライエル」
「はい?」
「それはな⋯⋯人間には使わねぇって」
「え?」
「〝嬉ション〟ってのはな──⋯⋯
あー、もう。
ほら、犬が嬉しすぎてやっちまうやつだって
さっき言っただろ?
人間で例えるのは、間違ってるって意味だ」
ソーレンは紅茶のカップを手に取り直し
肩を軽く竦めた。
「そ、そうだったのですね⋯⋯!
てっきり、心の表現方法として
一般的なものかと⋯⋯」
ライエルが
あくまで真面目な顔で首を傾げた。
まるで、自らの語彙の失敗を
図書館で訂正された学者のような反応である
「⋯⋯しかし
誤った知識ではなかったと思います。
むしろ、あの叫びの温度と波長は
それに近かったと⋯⋯!」
「……ライエルさん。
もうそれ以上は⋯⋯やめておきましょう?」
時也は苦笑を浮かべながら
手元の冷茶をひとくち口に運んだ。
その静けさの中に
どこかほっとした空気が流れる。
ティアナの尻尾が
ソファの下でぱたん、と一つ揺れた。
リビングの灯りが
黒薔薇の余香を残したまま
優しく全員の間を照らしていた。
「それにしても
そんな叫びもあるんですね⋯⋯
私は初めて聞きました」
ライエルは紅茶を両手に包み込んだまま
ほんのりと眉を寄せた。
その声音には
困惑よりもむしろ純粋な驚きと
未知の感情への興味が滲んでいる。
「そうですね、僕も──」
時也が穏やかに相槌を打ちかけた
そのときだった。
「⋯⋯初めて──?」
そう口にしかけ
彼の手がぴたりと止まった。
冷茶のグラスを持つ指先が
わずかに震えている。
脳裏に、今日の出来事がよみがえる。
昼の喧騒の中──
喫茶桜に訪れた孤児院の子どもたち。
ソーレンのパフォーマンスに笑顔が溢れ
楽しい声、食事と歓声。
だがその裏で、彼の頭に響いた
あの〝心の叫び〟──
あまりにも強く、あまりにも激しく。
それが彼を昏倒させるほどの
衝撃だったことを、今やっと思い出す。
──あれも、もしかして。
「⋯⋯だから、お加減の悪い方が
見つからなかったのですね⋯⋯」
ぽつりと、時也が呟く。
それは誰に向けたというよりも
自らの中でひとつの〝ピース〟が
嵌り込んだ確信の響きだった。
「──あ!
時也様が倒れられてすぐに
私も加護の気配を感じました!」
ライエルの瞳が鋭く見開かれ
同じ結論へと至ったことを言葉にする。
「では、もしかしたら⋯⋯
その〝心の叫び〟の主が
〝信仰の魔女〟の転生者かもしれませんね」
「ええ。
その可能性は、十分にあると考えられます」
時也は深く頷きながら
グラスを静かにテーブルへ戻した。
その所作には
今後に向けた決意が滲んでいる。
「では、早速明日──
孤児院にお邪魔させていただきます。
そうですね⋯⋯
また〝お菓子作り教室〟と銘打って
お伺いさせていただきましょうか」
「それは、一人一人と顔を合わせられますし
子どもたちも喜びます。
名案でございますね!」
ライエルは嬉しそうに笑みを浮かべると
カップをソーサーに戻し
深々と頭を下げた。
「では、明日お待ちしております。
夜分遅くまでお邪魔してしまい
申し訳ありませんでした。
⋯⋯失礼いたします」
優雅な所作で立ち上がり
ライエルは足音も静かに部屋を後にした。
──扉が閉まり
再びリビングに静けさが戻る。
「さて⋯⋯そうと決まれば
〝お菓子作り教室〟の準備を
しなくてはなりませんね!」
時也は袖を正し
ぱん、と軽く手を打ち鳴らした。
「ソーレンさん
明日も〝荷物係〟をお願いできますか?」
「はぁ!?青龍に行かせろよ!
俺はまたガキどもに〝浮かせて〜〟って
集まって来られるのはごめんだ!!
俺はジャングルジムじゃねぇんだぞ!!」
ソーレンが顔を顰めて頭をガシガシと掻いた
「ですが⋯⋯
あの〝心の叫び〟を
また聞くことになるかもしれませんし
僕が倒れてしまったら⋯⋯
ソーレンさんに頼るしかありませんから⋯」
時也は申し訳なさそうに目を伏せ
声を低くした。
その様子に
ソーレンの手の動きが一瞬止まる。
「⋯⋯くそっ⋯⋯別途料金な!!」
「ふふっ。
頼もしいお返事、心から感謝いたします」
時也の笑みは、どこまでも穏やかで
それでいて
未来へと着実に進める者の気配があった。
夜は更ける。
だが、喫茶桜の灯はまだ消えず──
静かな期待と、騒がしさの余韻が
じわりと空間に滲んでいた。