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太宰の五感が消えてくやつです。
「……おかしいね。このワイン、水のような味しかしないよ」
中也の隠れ家。最高級のヴィンテージを開けたというのに、太宰はグラスを揺らしながら、ひどく退屈そうに呟いた。
「あァ? テメェ、俺の秘蔵っ子を捕まえて何抜かしてやがる。舌が腐ったか」
中也は苛立ち紛れに太宰のグラスを奪い、自ら口をつける。芳醇な果実味と、熟成された深い渋み。間違いなく最高の一品だ。だが、太宰の瞳は、まるで虚無を覗き込んでいるかのように凪いでいた。
太宰の脳裏には、数日前の戦闘で浴びた、あの不気味な光が焼き付いている。 『愛する者の記憶を、肉体の感覚と引き換えに消し去る』という、執念深い異能。 本来なら無効化できるはずのそれが、太宰の「死にたい」という深層心理と、「中也の隣にいたい」という矛盾した執念に隙を突き、呪いとして定着してしまったのだ。
太宰が中也を「大切な相棒」だと認識し続ける限り、彼の肉体からは世界を感じるための機能が、順番に、永遠に失われていく。
(……味覚、か。まぁ、一番いらないものから消えてくれたのは、幸運だね)
太宰は、中也が丹精込めて作った料理も、中也が選んだ酒も、すべて「無」として飲み込む。中也が自分のために費やしてくれた「時間」の味が、もう分からない。
「中也、おかわり。もっと、喉が焼けるような強い酒がいいな。……何も、感じないんだ」
「……お前、さっきから様子が変だぞ」
中也が鋭い視線を向ける。太宰は笑った。味のしない世界で、愛する男の顔だけが、まだ鮮明にそこにあることに、残酷な安堵を覚えながら。
数日後。味覚に続き、太宰の鼻が「機能」を停止しようとしていた。
中也の部屋に漂う、独特の煙草の匂い。 雨上がりのアスファルトの匂い。 そして、中也が至近距離に来た時にだけ香る、あの強引な重力の主の体温。
それらが、薄い膜を隔てたように遠のいていく。
「……おい、太宰。何ボサッとしてんだ。……焦げてんだろ、その包帯」
「おや、本当だ。……気づかなかったよ」
太宰は、自分の腕に押し付けられたままの煙草の火を、他人事のように眺めていた。煙の臭いさえ、もう彼の鼻には届かない。
嗅覚が消えるということは、思い出のフックを失うということだ。 中也と肩を並べて歩いた夜の匂いも、流した血の鉄臭さも、すべてが過去の記録へと変わっていく。
太宰はふいに、中也の首筋に顔を埋めた。
「……っ!? テメェ、急に何しやがる!」
中也が驚いて太宰を突き放そうとする。だが、太宰は縋り付くようにして、必死に鼻を動かした。 (消えないでくれ。……君の匂いだけは、まだ……) かすかに、本当に微かに、中也の肌の匂いがした。……それも、まるで幻のように、指の間からこぼれ落ちていく。
「中也。……君、香水を変えたのかい? 何も、匂わなくなってしまった」
太宰の声に、初めて隠しきれない震えが混じる。 中也は、太宰の強張った肩を感じ、何かが決定的に壊れ始めていることに、ようやく気づき始めた。
その朝、太宰が目覚めると、世界は巨大な真綿に包まれたような、不自然な静寂に支配されていた。 窓の外を走る車の走行音も、ヨコハマの海を渡る汽笛も、自室の古びた時計が刻む秒針の音も、すべてが「向こう側」へ消え去っていた。
「……あァ、次はこれか」
自分の声さえ、頭蓋の内側で反響する微かな振動としてしか認識できない。 嗅覚を失った時までは、まだ「外の世界」との繋がりを感じることができた。だが、音を失うということは、思考が自分だけの箱庭に閉じ込められることを意味していた。
そこに、部屋のドアを乱暴に蹴破って中也が入ってくる。口の動きからして、いつものように「いつまで寝てやがるクソ鯖!」とでも怒鳴っているのだろう。だが、太宰の鼓膜を震わせる音はゼロだった。
「…………」
中也は、太宰の反応が鈍いことに即座に気づいた。 太宰はベッドに座り込んだまま、向けられた怒声に驚くことも、軽口を叩き返すこともしない。ただ、中也の唇の動きを必死に追い、その表情から言葉を読み取ろうとしている。
「おい、太宰。……聞こえてねぇのか?」
中也が太宰の耳元で叫び、枕元にあった硝子のコップを床に叩きつけた。 ガシャン、という鋭い破砕音が響いたはずだ。飛び散った破片が太宰の足元にまで届く。 それでも、太宰は眉一つ動かさない。ただ、足元に散った無色の輝きを見て、「あぁ、割れたんだね」と、音のない事実だけを確認するように呟いた。
「……中也、君、今なんて言ったんだい?」
太宰の声は、自分の聴覚によるフィードバックがないため、どこか不安定で、高低の定まらない不気味な響きを帯びていた。 中也の顔から血の気が引いていく。 あの傲慢なほどに冴え渡っていた太宰の五感が、砂時計の砂が落ちるように、確実に失われている。
中也は太宰の肩を掴み、視線を強制的に合わせさせた。 太宰の瞳は、底なしの恐怖と、それを覆い隠そうとする空虚な笑みで濁っている。
「……呪いだね、中也。君を思う心が、私の世界を一つずつ塗り潰していくんだ」
太宰は、聞こえない自分の声で、中也に呪いの正体を告げた。 中也を愛している代償として、世界が消えていく。 その事実は、中也にとってどんな肉体的拷問よりも残酷な宣告だった。中也は太宰の耳を覆うように手を当てるが、その手の温もりさえ、太宰にとってはもう「音」を運んではくれない。
「……中也、もっと、口を大きく動かしてくれないか。……君が何を言っているのか、……何となくしか、分からないんだ」
太宰の手が、中也の喉仏に触れる。 声の振動。それだけが、太宰がこの静寂の世界で、中也の存在を確認できる唯一の細い糸だった。
中也は太宰の手を握りしめ、叫びたい衝動を堪えて、ゆっくりと、一文字ずつ唇を動かした。 『俺は、ここにいる』 太宰はそれを読み取り、泣きそうな顔で笑った。
(……あぁ、怖いな。君の声が思い出せなくなるのが、何よりも恐ろしい)
静寂は、容赦なく二人の間に壁を築いていく。 会話が困難になるほどに、二人の執着は言葉以外の、もっと原始的で醜い手段へと変質せざるを得なくなっていた。
光が、溶けるように消えていった。
最初は視界の端が煤けたように翳り、やがて中心にいた中也の姿が、水に濡れた絵画のように滲んでいく。太宰は必死に目を見開き、中也を焼き付けようとした。だが、無慈悲な呪いは、最後に残った中也の「青い瞳」さえも、濁った灰色の闇へと塗り潰した。
「……あ。……あ、あぁ……!!」
音がなく、匂いがなく、そしてついに「光」を失った。 太宰は、自分が今どこにいるのか、どこが上でどこが下なのかさえ分からなくなるほどの、圧倒的な虚無に突き落とされた。
「……っ、中也!? 中也、どこにいるんだい!? 返事をしてくれ、聞こえないんだ、見えないんだ!!」
太宰は狂ったように両腕を振り回した。自分の指先がどこにあるかも、何に触れているかも不確かなまま、闇を掻き毟る。
ガシャ、という何かが壊れる振動が床から伝わる。だが、音は聞こえない。 太宰の脳内では、過去の恐怖や死のイメージが、光を失ったことで爆発的に膨れ上がっていた。まるで底なしの深い海に、一人きりで沈められたような感覚。酸素はあっても、世界がない。
「ひ、っ……はぁ、……っ!! 中也、お願いだ、私を一人にしないで……! 何か、何でもいいから私に触れてくれ!!」
太宰は過呼吸を起こし、喉を詰まらせながら、床をのたうち回った。 見えない闇の中で、自分が消えてしまうのではないかという恐怖。 中也が、もう自分を捨ててどこかへ行ってしまったのではないかという疑念。 太宰の知性はパニックに塗り潰され、ただの「震える生き物」へと成り果てていた。
その時、太宰の肩を、暴力的なまでの強さで掴む「何か」があった。
「――っ!!」
太宰はビクリと身体を跳ねさせた。 それが誰なのか、目では確認できない。耳でも聞こえない。 だが、その手の圧倒的な熱量と、自分を支配するような「重みの感覚」――。
太宰は、しがみつくようにその手に触れた。 骨張った、節くれだった、自分よりも少し小さな手。 その瞬間に、太宰のパニックは、激しい嗚咽へと変わった。
(……中也。……あぁ、中也。君だね、君なんだね)
太宰は中也の服(であろう布地)を掴み、顔を押し当てた。 見えない瞳から、とめどなく涙が溢れ、中也のシャツを汚していく。 中也は、過呼吸でガタガタと震える太宰を、壊れ物を扱うように、けれど逃げられない力強さで抱きしめた。
太宰は中也の胸板に耳を押し当てる。聴覚はない。だが、その胸を伝って「ドクン、ドクン」という命の振動が、太宰の頬に届いた。
「……っ、……、……」
太宰は中也の首筋に顔を埋め、言葉にならない叫びを漏らし続ける。 視界も、音も、匂いも、味もない。 残されたのは、この「触覚」という最後の一本の、細い蜘蛛の糸。
中也は、太宰の背中を何度も、何度も、痛いくらいに叩いた。 「ここにいる。俺がここにいる」 中也はそう叫び続けていた。太宰には届かないと分かっていても。 太宰はその振動を全身で享受しながら、中也というたった一つの「実在」に、すべてを明け渡すように縋り付いた。
(……怖い。中也、怖いよ。……次が来たら、私は……君を感じることさえ、できなくなる……)
暗闇の中で、二人は獣のように抱き合い、ただ互いの存在を「感触」だけで確かめ合っていた。 呪いは着実に、最後の一片を奪いに来ようとしていた。
その瞬間は、残酷なまでに静かに、そして完璧に訪れた。
太宰は中也の腕の中にいた。視覚も聴覚も失った暗闇の中で、中也の胸の鼓動と、自分を抱きしめる腕の強固な熱だけが、太宰をこの世に繋ぎ止める唯一の錨だった。
だが、じわじわと指先から、腕から、そして中也の鼓動を感じていた頬から、「感覚」が剥がれ落ちていく。
それはまるで、温かい湯船に浸かっていた身体が、一瞬にして極寒の宇宙へと放り出されたような感覚。中也の指が自分の髪を撫でているはずなのに、何も感じない。中也が自分の名前を叫び、肩を揺さぶっているはずなのに、自分の肉体がどこにあるのかさえ、もう分からない。
「…………っ、……!?」
太宰の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。 触覚の消失 それは「自分」という器が消滅することを意味していた。
今、太宰の意識は、無限の暗黒の中にただ一点、「思考」だけが浮遊している状態だ。 中也に抱きしめられているはずなのに、感覚は「虚無」を抱いている。 自分の腕を動かしているつもりでも、それがどこにあるのか、何かに触れているのかも分からない。
(……中也? 中也、どこ……!? どこにいるんだい!?)
脳内だけで叫ぶ。だが、返ってくる感覚は、絶対的な「無」。 太宰は、自分がまだ生きているのか、それともとっくに死んで幽霊になったのかさえ判別できなくなった。
中也は、腕の中で完全に脱力し、虚空を見つめて震えすら止まった太宰を見て、狂わんばかりにその身体を揺さぶっていた。 「太宰!! おい、太宰!! 触ってるだろ、俺が抱いてるだろ!!」 中也の声は慟哭となり、太宰の頬を叩き、その手を自分の心臓に押し当てる。だが、太宰の指先は、中也の命の鼓動をもう一欠片も拾い上げない。
太宰の精神は、あまりの恐怖に瓦解し始めていた。 五感すべてを失い、外部からの情報が完全に遮断された脳は、自身の「存在」を維持できず、狂乱の渦に呑み込まれていく。
(ああ……嫌だ、嫌だ!! 中也、中也!! どこ!? 私を、私を誰か見つけて!! 私はここにいるんだ!! 私は、まだ、死んでない……!!)
暗闇の檻の中で、太宰の魂が暴れ狂う。 知性も、プライドも、何もかもが剥ぎ取られ、ただ「中也に触れたい」という根源的な飢餓だけが、出口のない迷宮で叫び続けている。
太宰の目から、最後の涙がこぼれ落ちた。 だが、太宰本人は、その涙が頬を伝う冷たささえ、もう二度と感じることはできなかった。
完全に、世界から切り離された。 中也の隣にいながら、太宰は宇宙で独りきりになった。
太宰の意識は、真っ暗な宇宙の底にいた。 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、そして最後の「触覚」までもが奪われた今、彼は自分の肉体の境界線すら失っていた。
(……あぁ、これだ。これこそが、私がずっと求めていた『死』によく似た虚無だ)
皮肉なものだ。あれほど渇望した完全な静寂と闇が、ここにある。 中也への執着を捨てれば、この呪いは解ける。かつてのように世界の色を、音を、中也の声を、再び手に入れることができるだろう。
だが、太宰は暗闇の中で、静かに、そして狂おしく笑った。
(……捨てないよ、中也。絶対に)
五感を取り戻すために中也への想いを捨てる? そんなことは、太宰にとって「中也のいない世界で生きる」という、この世で最も残酷な刑罰に等しい。 世界の色なんて、もういらない。中也の声が聞こえなくても、あいつの体温を感じられなくても、「自分は中也に執着して、すべてを失った」という事実さえあれば、太宰はそれで満たされていた。
(私は、君のせいで壊れた。君を想うがゆえに、世界を捨てた。……これ以上の『愛の証明』が、他にあるかい?)
一方、現実の世界では。 中也は、腕の中でピクリとも動かなくなった太宰を抱きしめ、その無機質な瞳を見つめていた。 太宰の視線はどこも追わず、呼びかけても反応はない。ただ、微かに呼吸をしているだけの「肉の塊」。
中也は、呪いの解除方法を理解していた。 「太宰、お前……俺のことを諦めろよ」 中也の声が、誰もいない地下室に虚しく響く。 「俺を想うのを辞めりゃ、お前は元に戻れるんだ。……もういいだろ。こんなボロボロになってまで、俺に縋るんじゃねぇ……ッ!」
中也の叫びは、太宰の閉ざされた脳内には届かない。 太宰は暗闇の中で、中也への執着をさらに深く、深く、魂の核に刻み込んでいた。呪いは解けるどころか、太宰が執着を強めるたびに、その「無」の檻はより強固なものへと変質していく。
「……はは、そうかよ。……お前、地獄まで俺を道連れにする気だな」
中也は、絶望の果てに、ひどく美しく、歪んだ笑みを浮かべた。 五感を失い、中也の存在を感知することさえできなくなった太宰。 だが、そんな太宰を「生かし、世話し、愛でる」ことができるのは、世界でたった一人、中原中也だけだ。
中也は、太宰の反応のない唇に、静かに口づけを落とした。 太宰はそれを感じない。けれど、中也は知っている。この空っぽの器の奥底で、太宰が自分への執着という猛毒に、悦びを感じながら浸っていることを。
「……いいぜ。お前が世界を捨てるなら、俺がお前の『世界』になってやる。……お前が何も感じねぇなら、俺がお前の代わりに全部感じて、全部教えてやるよ」
中也は、反応のない太宰を抱き上げ、光の射さない奥座敷へと運んでいった。 そこは、五感を失った太宰という名の「宝石」を飾るための、密室の標本箱。
太宰は暗闇の中で。 中也は現実の中で。 互いに、二度と手放せない「執着」という名の鎖を首に巻きつけ、静かに、そして幸福に、心中という名の永劫を歩み始めた。
呪いは解けない。 けれど、二人はそれで「完成」していた。
・・・・なんか、よくわからないラストだね。
お菓子箱に残った食べカスを集めて繋ぎ合わせただけだから満足感は少ないよね。
やっぱ外から新しいお菓子を調達せねば!誰か!リクエストを私に恵んでください(最低)
コメント
4件
長い割に♡が少ないっていうね笑

ぅぇぇぇん(泣 すきぃ、やっぱ太宰さんが苦しんでるのたまりませんなぁ、(((( あと最近コメントできてなくてごめん