守護者には申し訳なく思っていたが、ユカリの胸の裡では勝利と栄光の喇叭が高らかに鳴り響いていた。物語の英雄のように見事に巨人を倒してみせたのだ、と自分を自分で褒める。
これがどこかの国の王女の所業だったならば、王国は祝いと幸いに満ち満ちることだろう。都市では気難しい彫刻家によって凱旋門が築かれ、王女と幸福を愛する民草は笑いさんざめき、雲の向こうの神々は栄えある姫の活躍を嘉し給い、邪な者どもでさえ涙を流して影の中で額づくのだ。そして盛大な輿に担がれた王女と共に祝賀の長い行列は浮かれだった街を練り歩き、巨人殺しという異名と共に……。
そんな異名はいらないなと思いつつも、ユカリは巨人の様子を確かめた。石像が死ぬはずもないが、結局、巨人は倒れたきり動かなくなった。念のためにユカリは巨人像の両の膝も壊しておいた。その度に守護者が何も言わずに現れては、恨めしそうな眼差しを残して消えた。
勝者に目配せを送る星々を頼りに、おおよそ村のある方向へとユカリは歩く。今日はもう、少なくとも鳥には変身したくなかった。両肩の負担が思いのほか大きい。腕ごと引っこ抜けるのではと不安な気持ちになるほどだ。
デルムの向かった洞窟へ行くべきかとユカリは悩んだが、正確な位置が分からない。いったん村に戻り、デルムが戻らなければケトラと共に探しに行こうと決めた。
新たな異変にユカリが気が付いたのは苦労して森を抜けた辺りだった。目の前にはさざ波を立てる湖があり、ずっと向こうに寂しげな村がある。レマの家だろうか、明かりが灯っているのも見える。どうにも湖が大きくなっているように感じられた。心当たりそのものと、ユカリは今まさに戦ってきたところだ。振り返り、杉の森の巨大さに圧倒される。疲れているとはいえ、今の今まで気づかなかったことが馬鹿らしい。
今度はユカリ自身の体が小さくなっている。辺りには誰もいない。巨人が追ってくる気配もない。ここにたどり着くまでに妙に時間がかかった気もした。
「グリュエー。聞こえる?」
「うん。聞こえる。でも少し声が小さくなっちゃったね」
「体が小さくなっちゃったからね。グリュエーは小さくなってないの?」
グリュエーはくすくすと笑って答える。「風に大きいも小さいもある?」
「えーっと、……あるんじゃない?」
「あるの? でもグリュエーは小さくなってない、と思う」
立ち止まっていても仕方ない、とユカリは村へと向かう。村へ近づくほど体が縮んでいるらしい。巨人が伸び縮みしたことも同様の理由だろうか、と思い出す。あの時の巨人と村の位置関係を思い出す。
洞窟から離れて小さくなったのではなく、村に近づいて小さくなった。洞窟に近づいて大きくなったのではなく、村から離れて大きくなった。そうであれば全て説明がつく。
来た時の何倍もの距離を歩き、小さな石さえ大きく回り込み、レマの家にたどり着いた時には鼠のような大きさになっていた。ユカリは村の中を縦横に歩き回り、些細な変化を見極める。より正確にはレマの家に近づくほど小さくなっているのだと分かった。
「扉さん!」とユカリは大きめに声をかける。「ちょっと開いてもらえますか?」
「いいよ」と扉が扉に相応しくない素直さで言う。
扉は開かれた。部屋は揺らめく蝋燭の灯と暖炉の明かりに照らされている。
レマが寝台の上で縮こまっている。ケトラがいて、なぜか襤褸ではなく、白波模様の紺の布地の長衣を身につけている。レマの肩巾やデルムの服と同じ生地だ。焚書官の鉄仮面はつけていない。
「ユカリ? どうしたの? その姿は一体」とケトラが目敏くユカリを見つけて言った。
ユカリは寝台の上でレマが握りしめているものに目を奪われていた。羊皮紙だ。すぐさま小型犬のような巨大狼に変身し、飛び掛かり、レマから羊皮紙を奪おうとするが、立ちはだかったケトラに蹴飛ばされる。
「何のつもり? ユカリ」とケトラは部屋の端で呻くユカリに冷たく言い放つ。
正確なばかりか躊躇いのない蹴りを貰って、ユカリは痛みに呻き、咳き込む。
「その魔導書が全ての原因。そうでしょう? レマさん」とユカリはケトラの背に隠れたレマに言い、人間の姿に戻る。
レマはそれに答えず、目を伏せた。
「敵を小さくする、そういうたぐいの魔法が記された魔導書なんですよね? 巨人が大きくなったり小さくなったりするのはそれが原因。それに、この村の住人が忽然と姿を消したのも」
ユカリの問いかけにレマは羊皮紙を強く握りしめるだけだった。しかしユカリはほぼ確信している。
つまりレマが信用している、敵と認識していないのはデルムとケトラだけということだ。あるいは今の巨人との戦いがきっかけで恐れているのかもしれない。魔法少女などという可愛らしいものではなく、それこそ巨人殺しを前にしていると考えているのかもしれない。ユカリは小さな体で少し寂しい気持ちになる。
ケトラが小さなユカリとレマを交互に見た後、レマの前から離れる。レマは絶望的な表情でケトラを窺った。
「レマ。私は貴女の味方よ。でもその話が本当なら、貴女は変わらなくてはいけないわ」
ユカリもレマに説き聞かせる「魔導書を渡してください、レマさん。デルムさんにも色々聞きました。境遇には同情しますが、もっといい方法を探しましょう」
「でも、これは」とレマが呟く。「父と母の形見で、いつも私を守ってくれて。私、他には何も」
ユカリの心が圧し潰される。この村に限らず、レマには他に身内がいないらしい。魔導書の所有者がいつも悪党だったら良いのに、と馬鹿なことを思う。
ユカリは再び小さな巨大狼に変身して、その跳躍力で寝台の上に飛び乗る。レマの方は微動だにしなかった。ユカリはレマを怯えさせないように少しずつ近づく。
その時、扉が勢いよく開け放たれ、鬼のような形相で山刀を掲げたデルムが飛び込んできた。
「レマから離れんか! 化け物め!」というデルムの怒声はレマの悲鳴で掻き消される。
「デルムさん! 近づいちゃ駄目!」と【人間の言葉での制止】も空しく、デルムは小さな人間の姿に戻ったユカリに飛び掛かる。そして瞬きをする間もなくデルムの体は萎み、その姿は床に消えた。
「いや! 義父さん!」とレマが叫ぶ。
立ち上がり、デルムに駆け寄ろうとしたレマの体までもが小さくなっていく。
「動かないで。ケトラさんも。踏み潰してしまう」
ユカリの制止も空しく、気付いた時には、レマが頭にかぶっていた肩巾と魔導書だけが寝台の上に残っていた。ユカリは小さな手で魔導書を引っ掴み、両腕を目一杯広げて中身を読む。
恐怖を感じながら呻くことで対象を自在に大きく、あるいは小さくできる魔法。だそうだ。面倒極まりない。
ユカリは怖いものを思い浮かべる。蜘蛛? 孤独? 行方の分からない義父の安否? 自分を置いて何をしているのか分からない母? 転生なんてした自分? そうしてすすり泣くように【呻く】。
レマを大きくしようと試みる。しかし対象そのものを認識できないせいだろうか、何も起きない。
今度は逆を試す。ユカリの体が縮み始める。天井が遠ざかっていき、寝台が広がっていく。レマのいた辺りへと走る。地平線の彼方まで白い布に覆われてなお、レマの姿はどこにも見えない。さらに、さらに縮み、巨大なダニから身を隠し、布地の隙間、糸が縦横に伸びる谷へと落下し、とうとう埃の森の中にうずくまるレマを見つけた。それでもなお縮んでいくレマを追うようにユカリも縮む。
「レマさん。もう大丈夫ですから」
「いやだ。怖い。怖い。怖い」
「怖くないですよ。レマさんは怖くありません。本当に怖いのは魔導書なんです。でも魔導書は大きな力だから、力加減が難しいだけ」
レマは顔を覆い、何もかもから逃げていく。
「義父さんが、義父さんまで」
「大丈夫です。レマさんがかけた魔法はレマさんが解除できます。それもとても簡単に。それは魔導書の良いところかもしれませんね。怯える必要なんて何もありません。貴女の為に戦ってくれる人、信じてくれる人がいるのですから」
レマが縮むのをやめた。同じ大きさまで縮んだユカリはその小さな肩を抱く。一体どこまで小さくなれるのだろう、とおぞましい想像を思い浮かべ、追い払う。今ならいくらでも恐怖を感じれそうだ。今度はレマと共に大きくなる。埃を払い、ダニを退け、真っ白な大地の上でぐんぐんと天へ伸びる。
元の大きさに戻った時、そこにはケトラがいて、デルムがいた。デルムもまた元の大きさに戻ろうとしているところだ。
ケトラは、口元に微笑みを浮かべているが、それだけだった。その表情が読めない。鉄仮面をつけている訳ではない。眼窩から角が生えている。
そのことにユカリが気付いた次の瞬間、爆発的な音が天井から響いた。瓦礫が音を立てて山のように降り注ぐ。ユカリはレマを庇うように倒れ込む。気が付けば家の半分を巨人の足が占領していた。しかし石で出来た体ではない。人間の、それも優美な女性の足がそこにある。
見上げる夜空は白み始めており、巨大な角の生えたケトラが見下ろしている。その指先で魔導書を摘まんでいた。今のどさくさで大きさを変える魔導書をケトラに奪い取られてしまった。
「元の大きさに戻してくれてありがとう、ユカリ」と、ケトラの大きな声が降ってくる。「それとユカリ、もう直したけれど踵と膝を壊された落とし前はつけるんだから。きっとよ」
ユカリはケトラを見上げながら自分が何を言うべきなのか考えあぐねていた。村を襲ったこと、みんなを騙したこと、ユーアのこと、魔導書のこと。
「焚書官ではないだろうなって思っていましたけど、巨人だったなんて」とユカリは結局大したことが言えなかった。
一方で巨人ケトラはその言葉にそれなりに驚いている様子だった。
「あら、ばれてしまっていたの。どうして?」
「確証は無かったですけど、色々と不自然でしたよ。襤褸とか」
「うるさいわね。一張羅だったのよ。この体よ? あんな襤褸を作るだけでも一苦労だったんだから。古代の巨人は服をどうしていたのかしらね。裸だったのかしら」
その疑問はユカリも少し気になったが、それ以上に服の中身が気になった。大きさはワーズメーズの巨人像と同じだが、まるで血肉が通っているように見える。
「その姿は屍使いの術? ケトラさんも使えるんですか?」
ユーアが盗賊バダロットから学び取った魔法の一つだ。
「そう、まるで生きた人間のようでしょう?」
そしてようやくユカリは肝心の問いを投げ掛ける。「ユーアはどこですか?」
「教えないわよお。ああ、そうそう、レマ」そういってケトラは華麗に舞うように回転した。「素敵な服をありがとう。私、きっと大切にするわ。約束よ。レマも元気でね。これも約束。じゃあ、二人ともさようなら。ごきげんよう」
そう言って軽やかな足取りで地響きと共にケトラは逃げ去った。ユカリは何とか立ち上がるが、レマはまだ呆然としていた。
家の外から老若男女の悲鳴が聞こえた。歓びの声であり、嘆きの声でもあった。魔導書の魔法で小さくされていても生き延びた人々がいたのだ。
デルムが腰をさすりつつなんとか立ち上がる。レマは泣きながら義父にすがり付く。
「すまんかったな。ユカリ」とデルムが疲れた瞳を向け、悔いに満ちた声音で言った。「化け物などと言って、あの姿を見て気が動転したんだ。それに、私らのせいで迷惑をかけた」
「誰のせいでもありません。全ては魔導書が引き起こしたことで、全ては魔導書が無ければ起きなかったことです」
「そうだとしても、謝らせてくれ。本当にすまなかった」
ユカリは微かな笑みを浮かべるにとどめ、それ以上何も言わず、寝台の上に落ちている紺地に白波模様の肩巾を拾う。綺麗に折り畳み、レマに渡した。レマはまるで我が子のようにそれをぎゅっと握りしめる。
「もう行きますね」とレマに声をかける。
レマは何も言わずにこくりと頷く。
「もう行くのか?」とデルムは心配そうに言った。「もう少し休んでいけばいい」
「いいえ、急ぐ旅路なので。レマさん。一晩泊めてくださってありがとうございます」
ユカリは罪悪感を抱えて、半壊した家を出る。何となく合切袋の中の霊薬瓶に触れる。冷たく硬い感触が指先にあった。そうして巨人ケトラの去って行った方向とは別の方向へ足を向ける。ハルマイトの故郷、クル村はもうすぐだ。
「ユカリ!」と大きな声で呼びかけたのはレマだった。ユカリは振り返る。「一緒に小さくなってくれてありがとう! またいつか会ってくださいです!」
レマは涙に濡れた頬をそのままに、太陽も恥じ入るばかりの晴れやかな笑顔を浮かべていた。それが恐怖に立ち向かった本当のレマの顔ということだ。
ユカリもまた自分にできる最高の笑顔で返し、大きく手を振る。
「またいつか!」
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