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#Vanity
ゆ♨️
1,878
#azure
ゆ♨️
134
薄暗いカルト宿舎の一角。
そこには、誰がいつ持ち込んだのかも分からない、錆びついた古い姿見が置かれていた。
鏡の端には細かな傷。
ところどころ曇ったガラス。
決して綺麗とは言えない。
それでも。
その前に立つ男にとっては、今夜だけは最高の舞台だった。
「…………」
ツータイムは鏡の前に立っていた。
新しく支給された灰色のコート。
肩から裾へと流れる布地。
少し皺の寄った質感。
そして裏地には、連続した三角形が織り込まれた二層パターン。
普段の灰色のローブとはまた違う。
少し重く。
少し長く。
そして。
何より。
本人が気に入っていた。
ツータイムは鏡の中の自分をじっと見つめる。
そして。
ゆっくりと。
襟を立てた。
「…………」
右。
左。
少し顎を引く。
そして。
斜め四十五度。
「…………」
決め顔。
「ふっ……」
満足そうに鼻を鳴らした。
「完璧だな」
少し離れた場所では、アズールがその様子を眺めていた。
「…………」
最初から見ていた。
全部。
襟を立てたところも。
角度を調整したところも。
決め顔をしたところも。
全部。
「……ねえ」
アズールが声をかける。
「ん?」
「さっきから何してるの?」
ツータイムは振り返らない。
鏡を見たまま答える。
「己の完成された姿を確認している」
「そっか」
「この新たなる装束……」
ツータイムはコートの裾を軽く払った。
「実に素晴らしい」
「うん」
「聞いてくれ、アズール」
「はいはい」
「これは単なる防寒具ではない」
「はいはい」
ツータイムは鏡へ向かって手を広げた。
「この灰色の皺……」
「うん」
「この重厚な生地……」
「うん」
「そして、この裏地に刻まれし二層の三角形……」
「うんうん」
「すべてが一つとなることで……」
ツータイムはコートの裾を翻した。
「闇の深淵を歩む者に相応しい威厳を生み出している」
「…………」
「まるで漆黒のウィング」
「灰色だけどね」
「…………」
「あと、鳥じゃないし」
「そういう問題ではない」
「はいはい」
ツータイムは気にせず続ける。
「この絶妙な裾の長さ」
「うん」
「この計算され尽くした重み」
「うん」
「歩くたびに揺れるこの布地が、僕の存在そのものを――」
「魔王っぽく見せてくれる?」
「そうだ」
即答だった。
アズールが吹き出す。
「ふふっ」
「笑うな」
「いや、ごめん」
アズールは口元を押さえる。
「だって……」
「何だ」
「本当に気に入ったんだなって」
「…………」
ツータイムは少しだけ視線を逸らした。
「……当然だ」
「嬉しそう」
「嬉しくなど……」
一瞬。
鏡を見る。
「…………」
そして。
「……まあ」
小さく。
「悪くはない」
「ふふ」
アズールは微笑む。
「似合ってるよ」
「…………」
ツータイムの耳が。
ほんの少し赤くなった。
「……そうか」
「うん」
「……ふっ」
そして。
完全に調子に乗った。
「ならば――」
ツータイムは勢いよく振り返った。
「我が歩みに、貴様はついてこられるか!」
「え?」
コートの裾が。
ぶわっ。
と大きく翻る。
「僕の行く先には――」
一歩。
踏み出す。
「闇があり――」
二歩。
「深淵があり――」
そして。
三歩目。
「世界の理すらも――」
シュッ。
「…………」
パシッ。
「…………」
ツータイムのブーツの踵が。
自分で翻したコートの裾を。
踏んだ。
「…………」
一瞬。
時が止まった。
「…………あ」
身体が。
前へ。
「わっ」
ぐらっ。
「ちょっ――」
さらに前へ。
「闇の……!」
両腕が空を切る。
「結界が……!」
身体が完全に傾く。
「乱れた――っ!?」
その瞬間。
ガシッ!
背中を掴まれた。
ツータイムの身体が。
ぴたり。
と止まる。
「…………」
「…………」
アズールだった。
ツータイムより少し高い位置から、アズールが彼の背中をしっかり支えている。
数秒。
沈黙。
「…………」
ツータイムは固まった。
「…………」
アズールも。
固まった。
そして。
「…………ぷ」
「…………」
「ぷっ」
「アズール」
「ご、ごめん……」
「笑うな」
「だって……」
「笑うなと言っている」
「…………」
アズールの肩が震える。
「……っ」
「…………」
「……あはっ」
「…………」
「はははははっ!!」
完全に耐えられなかった。
「ごめん、無理!!」
「…………」
「危なっ!!」
「…………」
「何してるのさ!!」
「…………」
「自分のコートに足取られてるじゃん!!」
「…………」
「さっきまであんなにカッコつけてたのに!!」
「…………」
「『我が歩みに貴様はついてこられるか』って言った直後に!!」
「…………」
ツータイムは顔を真っ赤にした。
「…………」
「しかも」
アズールは涙を拭う。
「『闇の結界が乱れた』って……!」
「…………」
「ふふっ……!」
「……もういい」
「ごめんごめん」
「離してくれ」
「はいはい」
アズールが手を離す。
ツータイムは姿勢を整えた。
そして。
何事もなかったかのようにコートの襟を直す。
「…………」
アズールが見ている。
「…………」
ツータイムは鏡を見る。
「…………」
「ツータイム」
「何だ」
「顔、真っ赤だよ」
「これは照明のせいだ」
「照明ないけど」
「…………」
完全に負けていた。
アズールは笑いながらツータイムの頭へ手を伸ばす。
ぽん。
「よしよし」
「…………」
ツータイムが固まった。
「……何をしている」
「頭撫でてる」
「それは分かる」
「偉かったね」
「…………」
「転ぶ前にちゃんと助けてもらえて」
「…………」
「危なかったねー」
「…………」
ツータイムの耳が赤くなる。
「やめろ」
「嫌?」
「……そういう問題ではない」
「じゃあいい?」
「……」
アズールの手が。
もう一度。
ぽん。
そのまま。
優しく撫でる。
「…………」
ツータイムは抵抗しようとする。
「僕は……」
「うん」
「僕は闇の支配者……」
「うん」
「世界の理を司る……」
「うん」
「偉大なる……」
「うん」
「…………」
手が止まらない。
「…………」
ツータイムの声がどんどん小さくなる。
「…………」
やがて。
「……もういい」
「ん?」
「好きにしろ……」
アズールが微笑む。
「ふふっ」
「ただし」
「何?」
「これは……」
ツータイムは目を逸らした。
「……その」
「うん」
「別に……」
「うん」
「嫌ではない」
「…………」
アズールがにやりと笑う。
「へえ?」
「…………」
「もう一回撫でようか?」
「…………」
「嫌ならやめるけど」
「…………」
しばらく沈黙。
そして。
「……一回だけなら」
「ふふっ」
アズールはもう一度。
優しく。
ぽんぽん。
ツータイムの頭を撫でた。
「……よしよし」
「…………」
ツータイムは完全に俯いている。
耳は真っ赤。
顔も真っ赤。
だが。
逃げない。
「……まったく」
小さく呟く。
「……君は本当に、僕を子供扱いするな」
「だって可愛いから」
「…………」
「新しいコートも似合ってるよ」
「…………」
「すごくカッコいい」
「……」
ツータイムが少しだけ顔を上げた。
「……本当に?」
「うん」
「……そうか」
今度の声は。
厨二病の魔王ではなく。
ただ素直に嬉しそうだった。
「じゃあ」
ツータイムはもう一度鏡を見る。
襟を直す。
コートの裾を整える。
そして。
今度こそ慎重に。
一歩。
踏み出す。
「…………」
アズールが後ろから見ている。
「…………」
二歩目。
問題なし。
三歩目。
問題なし。
ツータイムは振り返る。
「……どうだ」
「うん」
アズールは笑う。
「今度は転ばなかったね」
「…………」
「さすが魔王様」
「……もうその呼び方には慣れた」
「ふふっ」
「だが」
ツータイムはコートの裾を軽く翻した。
「次は貴様もこの歩みに――」
「その前に裾踏まないように気をつけてね」
「…………」
「魔王様」
「…………」
「ふふっ」
「……君は本当に……」
ツータイムは呆れたように息を吐く。
それでも。
口元には、小さな笑みが浮かんでいた。
薄暗い宿舎。
錆びた姿見。
新しい灰色のコート。
そして。
それを眺めながら笑う二人。
世界の深淵も。
暗黒の運命も。
この場所では少しだけ遠い。
今夜のツータイムにとって一番重要だったのは。
新しいコートが「魔王らしく見えるか」でも。
闇の力がどうこうでもない。
ただ。
「似合ってるよ」
そう言ってくれるアズールが。
すぐ隣にいることだった。