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色褪せた空の下、北風が通り抜けた後の枯れた野原を、馬と馬の引く荷車が行く。年季を重ねた車輪は車軸につかまって回り、軋みながら轍をたどる。
都市国家川床の国へと向かう行商人の荷馬車列の最後尾にベルニージュとユカリは乗せてもらっていた。車輪のごとごとという音と幾人かの傭兵が跨る馬の蹄の音が乾いた空気に響いている。
ベルニージュは衣の隙間から忍び入って来る冷たい空気に震えながら、荷台の片隅で茜色の円套、魔導書の衣を太腿の上に広げ、読めない文字を読んでいた。二十三の禁忌文字の羅列と魔導書文字の詩。ユカリに教わった詩の内容を心の中で諳んじる。
文字形作る二十と三人。燃え立つ鎖に縛られる。
日は乙女の衣を祝福し、月の妬みが黄金を飾る。
砂は玉座の上にあり、影は獣の腹を覆う。
墓石を削り、轍に惑う。
血の滴りは泉に落ちて、妖精の輪に囲まれる。
嬰児の母は剣を帯びて、緑髪を結いて、矢に示す。
歪んだ偶像は瞳を開き、髑髏と真珠が釣り合いて、賢しき者は果実を食む。
雷雲はかしずき、嘴と共に断崖を刻む。
星座を共にすくいあげ、雨降る泥で、開かずの箱にしたためる。
蛇は眠る、穴の底で、二十と三人の目覚めを待つ。
ベルニージュにもユカリにも詩の意味は分からなかった。これといって韻文でもなければ韻律もない。物語も抒情も風刺もない。一見して、ただ意味ありげな言葉が並んでいるだけだ。禁忌文字との関連性から推し量るしかない、というのがベルニージュの今のところの方針だった。
反対側ではユカリが禁忌文字の教本を読んで唸っている。読んでいる風に見せているが、荷車に山積みにされた芋の方がまだ興味深い、というような表情をしていた。
ベルニージュは気晴らしにユカリに声をかける。「随分苦戦しているみたいだね、ユカリ君」
「先生。これ本当に覚えないと駄目なんですか?」とユカリは不満げにぼやく。
「覚えなくてもいいよ」ベルニージュは慈悲深い眼差しを伴って言う。「ユカリがこれから先ずっと魔法に関して、ワタシにおんぶにだっこであり続けるつもりならね」
嫌味な言い方だったことに気づいて反省するが、ユカリは特に何とも思っていないようだった。
「私こう見えて、優秀な魔法使いである義母に、実母より魔法の才能があるって言われたんだけどなあ」ユカリは紫の瞳に幼い頃の自分を映して呟く。
それは実母に魔法使いとしての才が全くなかっただけではないだろうか、とベルニージュは思ったが口には出さない。
ユカリの義母が魔法使いというのは初めて聞いた気がする。
「禁忌文字を魔法使いのお義母さんから教わっていないのなら、お義母さんはユカリを魔法使いとして教育するつもりはなかったんだと思う。狩人として生きていくことを願っていたんじゃないかな」
じゃあ、ユカリって誰が何のためにどんな意味を込めて名付けたの? そう問いかけても良かったが、はぐらかされるような予感がベルニージュにはあった。
ユカリは何かを思い出すように冬の空を見上げてぽつりぽつりと話す。「狩人として生きていくつもりではあったけど。魔法は時々教えてくれたよ。禁忌文字は重要ではない、って考えたんじゃない?」
ベルニージュは首を横に振り、断固として否定する。
「まさか。魔法使いなら母語より先に修めるべしとまで言われる呪文の基礎だって」
ユカリは唇を尖らせて小さく唸り、悔しがる様子を見せる。しかし、魔導書の文字を読めない悔しさに比べれば何ほどでもないはずだ、とベルニージュは思っていた。
「何か禁忌文字に関する面白い話はない?」とユカリは眠たそうな瞼に抗うように瞬かせて呟く。「そういう話を聞いた方が覚えやすいと思うんだけど。ほら、子供の頃に聞いた寝物語って妙に覚えているものじゃない? あ、いや、寝ないけどね」
ベルニージュは何かなかったかとなけなしの記憶を探った。禁忌文字の記憶は記憶を失った後も保っていたので、多くを語れる。
「そうだなあ。一番面白いのは由来が分からないことかな」
「由来が分からない? でも最も古い記述があれば、それが由来の最有力候補じゃない?」
「まさにその最も古い記述が大陸中にあるんだよね。まだ最古の記述が見つかっていないだけ、と考えている者が大半だけど。大陸中で同時に発生したんだ、とか。全人類が神から禁忌文字を授かったんだ、とか。まあ、みんな適当なことを言ってるよ」
「何だってユカリなんだろう」とユカリは教本に目を落としながら呟く。
それが禁忌文字のことを言っているのか、そんな名前を付けた人物に対しての文句なのか、ベルニージュには分からなかった。
「それと」と言ってベルニージュは毛皮を着た御者の背中をちらりと見て、魔導書の衣を指して声を潜める。「魔導書に禁忌文字が記されている例は今までになかったはず。ワタシが知らないだけかもしれないけど」
ユカリはきょとんとした表情でベルニージュを見つめ返す。それの何が面白いのだ、という意味の表情だとベルニージュにはよく分かった。
ありとあらゆる魔法体系の例外に位置するとされてきた魔導書に、一魔法体系が記されていることは魔導書研究を大いに進展させうる大発見なのだが、それをユカリに説明するのは骨が折れそうだ。
しかしアルハトラムの街に着くまではまだ時間がある。ユカリがうんざりするまで語り尽くそうとベルニージュは心に決めた。
都市国家アルハトラムは大河嘆きの大きな中州の一角に築かれた城邑だ。ミディリク川はアルダニ地方の大河モーニアやビトラ川のような見果てぬほどの大きさではないが、サンヴィア地方では有数の名高い河川であり、竜の飛び交う古の頃より人の営みに寄り添い、人の身に余る多くの嘆きと歌を海へと還してきた。
太陽は大きく傾くも未だ赤く色づかない時分、一行は中州へ至る長い橋を渡り、煉瓦畳の舗装路を通り、名にし負うアルハトラムの城壁へとたどり着く。
日干し煉瓦を巧みに積み上げた城壁は長き歴史を眠って過ごしている。それが人々の営みの中で口に上ることは滅多にない。それはあまりにも堅固であり、一度として崩れたことはないので、『壁は其処に在る』という一言で言い表せてしまう。それは堅固であるがゆえに、人の中に攻め落とそうとした者はおらず、打って変わってあらゆる古き王国を滅ぼした《時》はその優れた軍勢の一つである《風化》をけしかけるのだが、未だ城壁の内に踏み入ったことはない。サンヴィアを放浪する多くの詩人が一度はその壁を訪い、その頑健と不変を讃えるべく巧緻を究めた言葉で飾り立てるが、『壁は其処に在る』という言葉よりも上手く言い表せた者はいないという。
ここまで連れ立った行商人たちに二人は沢山の礼を言い、幾許かの礼を渡し、別れの挨拶と共に商いの成功を祈った。
ようやくたどり着いた門の前には訪問者の列が作られており、ベルニージュは何やら手間取りそうな予感を得る。
「所持品検査かな。面倒だね」とベルニージュはつまらなそうに言う。
「その時は」と言ってユカリは纏った魔導書の衣を抑え、振り返って退路を確認した。「逃げるしかないよね」
ベルニージュは安心させるように気楽に言う。「それはさすがに警戒しすぎでしょ。堂々としてれば怪しまれないし、怪しまれたところでばれやしないよ」
「そうかな。そうだと良いんだけど」
ベルニージュたちの順番になって、通行に手間取っている理由が分かる。
門の衛兵は何人かいるが、その一人が二人の前に立ちはだかる。ベルニージュは一歩引く。
身につけた鎧は鋼と毛皮を合わせたもので、かなり使い込まれているが、衛兵自身はまだ若い。好奇心を滲ませた瞳で二人の少女を見て尋ねる。
「君たちは魔法使いかな?」
「ただの旅人ですよ」とベルニージュは不思議そうに言う。
「何で分かったんですか?」とユカリは余計なことを言う。
衛兵は鷹揚に笑って答える。「君たちのような女の子たちだけで旅をしているのは変だからね。変なのは怪物か魔法使いだと相場が決まっているものさ」
「怪物かもしれませんよ」とユカリはさらに余計なことを言う。
「それなら僕は怪物退治の名誉を授かることになるね。それはそうと魔法使いなら話しておきたいことがある。実はこの町ではいま呪文に関するある仕事を募集しているんだ。それに従事するなら通行料は無しになるよ。もちろん仕事に対する報酬も別に支払われる」
ベルニージュは少し興味を引かれて尋ねる。「どんな仕事ですか?」
「城壁の補修だね」と衛兵は言った。
アルハトラム市を囲む城壁の修繕工事、それは三十年に一度の大事業だった。
ベルニージュは他にも契約内容を次々に尋ねる。このような意欲か好奇心のどちらかが溢れる魔法使いの順番になる度に行列が伸びたという訳だ。
ベルニージュは仕事に応募することにした。衛兵に特別な滞在許可証を発行してもらい、初仕事の時間と集合場所を教えてもらう。明日の早朝、街を囲む城壁のある一か所に割り当てられた。
それらの手続きを終えて、ベルニージュとユカリはようやくアルハトラム市へと入り、街を逍遥する。
多くの人が行き交ってはいるが、以前二人の訪れたアルダニ地方との境の街マグラガ市に比べると多様性には劣っている。その代わり、サンヴィア地方のアルハトラム市独特の魔法使いと河の漁師の文化が濃密な気配となって町全体に息づいていた。
毛皮を身につけた人々を見てベルニージュは愚痴をこぼす。「それにしても寒い。まだ耐えられるけど、耐えたくない。忌々しい冬を追い払ってもいい?」
「そんなこと出来るの? 出来たとしても駄目だけど。冬にも良いところがあるんだから」とユカリは言う。「でもみんな温そうな恰好をしてるね。まだそれほどでもないと思うんだけど」
季節もあるが、緯度が高く冬の厳しいサンヴィアの人々は毛皮をふんだんに使った衣を好んでいる。妙に色濃い着物を選ぶのは夜闇の神への信仰を表している。
「それにしてもお腹空いた。大して動いてないのに」ユカリは何かを探すように通りを見渡し、どこかへ急ぐ人々を見送る。「屋台とかないのかな」
「こんな寒空で食事する人なんていないよ。どこかに入らなきゃ。というか宿まで我慢して」
ユカリがあるはずのない食事を探している間、ベルニージュはアルハトラム市の魔法に目を配る。特に物珍しい魔法は建築にあった。城壁には比べるべくもないが、どの建築も頑健さを競い合っているようだ。
日干し煉瓦の類稀な建築やそれを黒か濃紺に塗る風習はサンヴィア全体に見られるが、上質の土と歴史豊かな魔法によって作られたアルハトラム特有の煉瓦は街の重要施設に優先して使用されている。強大な城壁は堂々とした佇まいで街を守り、公共施設のいくつかの塔は高層を成し、サンヴィアの平らな土地を見晴るかしていた。
大橋から門までの道は煉瓦畳で舗装されているのに、城壁の中は土が露わになっている。これだけはベルニージュにも意味が分からなかった。
「うわ」と小さな悲鳴をあげてユカリが一つの建物を見上げる。
そこには巨大な篝火台が設置されており、昼間にもかかわらず大きな炎が赤々と燃えている。やはり日干し煉瓦が使われてはいるが、まぎれもなく救済機構の寺院だ。
「大丈夫だよ」ベルニージュは慰めるように言う。「ユカリと名乗らなければ、ね。あと変身もまずいかな。例によって例の如くよろしく、エイカちゃん」
その日は作業場所の下検分だけすると宿をとり、翌朝に備えて二人は早めに休むことにした。
宿の食堂で、その日二回目の食事を二人は楽しむ。
中州の街で揚げられた川魚は年中食されるが、冬は秋の内に乾物、塩漬け、燻製と様々な保存食に加工されたものを食す。
ベルニージュもユカリも、この土地で『酔っぱらって溺れた魚』と呼ばれる料理、岩魚と茸の天火焼きを食べる。
「お金はまだ十分にあるのに、ベルが積極的に仕事をするなんて珍しいね」
ユカリが薄めた蜂蜜酒を飲みつつ言った。
「ワタシは効率的なだけだよ。それに……」
「それに?」
「ユカリの勉強になるとも思ってね」
「え……?」と呟いたユカリはしらばくして絞り出すように答える。「……ありがとうございます、先生」