「今日遅くなる。」
それだけ告げ、手慣れた手つきで私の足首に鉄の足枷を付けるイザナさんをぼんやりと見つめる。だが実際に眺めているのは架空の一点に過ぎない。虚ろで、霞みかかっていて、涙が眼球を覆いもう何も見えない。
イザナくんはそんな私の頭部を、泣きわめく子供をあやすように優しく撫でると息が止まるほど、ギュッと抱きしめてきた。
「逃げンなよ」
逃げられないなんて貴方が一番分かっているでしょ。
脅すような声色で告げられた言葉に対し、皮肉を込めた鋭い眼差しで視界の端に映るイザナくんを見つめながら壊れたロボットの様にゆっくりと頷く。
「…行ってくる」
イザナくんはそんな私の視線に気づかず、頷きだけを聞くと満足そうに顔をほころばせ今度こそ部屋を出て行った。
『…ふぅ』
ガチャリと扉が完全に閉まったのを確認し、体中の力が抜けていくような安心感にそーっと安堵の息を吐く。どうせ数時間ほどで帰って来るのだろうが、少しだけでも自由になれる、と思うと花びらのように心が軽く感じる。
『……これでこの鎖が無かったら1番良いんだけど』
暗く沈んだ声でそう洩らし、自身の足首を囲う鉄の塊をチラリと見ると、私は声にもならない無音のため息を吐いた。
叩いても殴ってもぶつけても、何をしても壊れない…なんてもうこの数ヶ月で嫌なほど学習した。外そうと抵抗すればするほど足首が擦れて赤く腫れあがるだけで一向に壊れない鉄の足枷に毎回、眉の間に失望を陰らせる。
足首にドスンと押しかかる足枷の重さに、心に軽い失望が起こるのを我慢しながら、何となく足枷に手を伸ばす。もう日常の一環と言っても過言ではないその行為に「もしかして外れるかもしれない」なんて淡い期待は少しずつ擦り減っていった。
今日も外れないんだろうな、なんて空っぽになった思考で譫言の様に考えていたその瞬間
─ガチャリ
『………え…?』
突然の金属が外れるような音と、目の前に広がる足枷の状態に、瞼が痛くなるほど両目を見開きあまりの驚きで喉に声が詰まらす。
少し触れただけだった。金具の部分を指先で触れただけ。
『…うそ……外れた…?』
え、え、と掠れておどおどした声で繰り返し言葉を零す。
目の前には足首から離れた足枷。そしてそれまで足首に感じていたあの緩い圧迫感がいきなり消えた。当然、足首にはもう何もついていない。
突然のことに頭が酷く悩乱し、言葉を失ってただただ目の前の鉄の塊に釘付けになる。
どうして、なんで、と頭の中の記憶をぺらぺらとめくり最高速度で思考を回転させる。あまりの衝撃に息をすることすらも忘れ口を真一文字にしてただただ考え込む。
足枷が外れ
イザナくんは今日遅くなるって言ってた。
───ならきっと、もしかしたら。
自分にとって都合のいい情報だけがパズルのように重なり合う。
頭に一つの考えが貫き、それと同時に凶暴な衝動が波のように引いていく。
『………にげ、られる』
ぐらつく焦点を合わせる様にパチパチと瞬きを繰り返し、そう口に出した瞬間、真っ暗だった胸に光が差しヒリヒリと中途半端な痛みを発していた足首の辛さが嘘のように消える。恐怖も、驚きも、全て割れた風船のようにパッとなくなり、“逃げられるかもしれない”という固い希望だけが心臓辺りをワクワクとさせるのを感じる。
『……や、っと』
喉に絡んだ聞こえにくい声が口から零れ落ちる。
安堵の息のように目尻を暖かい涙が濡らす。
やっとこの地獄逃げられるかもしれない。念じる様にそう強く思うと、体は勝手に動いた。
興奮の混じった息を小さく吐き、床を蹴るようにして私は冷たい床から勢いよく立ち上がる。
冷たい床の感触が足の裏を冷やしていく。まるで行かないでと足止めするかのように、私に絡みついてくる冷たいモノに情なんて抱かず、それを踏みつぶすように力強く足を動かす。
そのままこの部屋を仕切っている固い扉を開いて、同じく冷たい廊下を走って、この家から出られる玄関に来て、丈夫なドアノブを握って、
──そこで少し躊躇う。
もしも逃げきれなかったら、そもそもこんなに簡単に足枷が外れるなんてワナなんじゃ…、といくつもの濁った考えがここへ来て一気に押しかかって来る。嫌な妄想は次々と暗いストーリーを作りあげていき、イザナくんに見つかったら、なんて最悪な事態が脳裏を掠りドアノブを握る手が情けなく震える。鼓動が痛いほど鼓動が速くなり、あまりの緊張に胃から喉に酸っぱいものが押し寄せてきそうになる。サァーと全身から血の気が引くのを感じる。
行き場のない恐怖に眉間が歪む。
だけど行動に移さなきゃ何も変わらない。
そんなのこの状況に置かれた身、1番私が分かっている。
そうだ、行動に移さなきゃ
そう答えを見つけた様に決心すると、今まで暗く重かった心が妙に軽くなった気がした。
ゴクリと生唾を飲みこみ、頬を伝う冷や汗を服の袖でぬぐう。
『………よし』
意を決した様に震える拳をぎゅっと握りしめ鍵を開け、私は扉を開いた。
続きます→♡1000
ノベルで書きます💪💕
皆様ご意見ありがとうございました🥺💖
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