テラーノベル
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―side真希―
台所から漂うふろふき大根の優しい香りが、リビングにまで流れ込んでくる、俊太の母、静江の包丁がまな板を叩くリズミカルな音が台所に響
「ふんふん♪ ・・・今日はおいしい大根料理よぉ~♪ でもねぇ~真希ちゃんが母乳をあげないのが気になるわぁ~、あんなに大きなお胸してるのにぃ~!」
静江は明るい独り言を言い、鍋の火を止めてソファーに腰を下ろした、テーブルに置かれたお煎餅をパリンッと噛み砕き、その音が妙に耳に刺ささった、 最近静江が母乳の話を振る度に真希の心に冷たい壁が築かれるのを感じていた
彼女の笑顔はどこか硬く目が笑っていない・・・静江は少し寂しさを感じていた、自分の子育て論は古いのだろうか、しかし人生の先輩として、若い二人に少しはアドバイスしてあげたい・・・そんな気持ちで、彼女は煎餅を口に運びながら、ふとテレビに目をやった
テレビからは夕方のけたたましい報道番組が流れていた
『緊急速報! 容疑者の伊藤真希(27歳)は沢村晴馬ちゃん(生後2か月)を誘拐し、現在も逃亡中です!!伊藤容疑者は被害者の母親・沢村晴美さんがシャワーを浴びている隙に赤ん坊を連れ去り、偽装した妊娠を装って近隣住民に溶け込んでいたと見られています!!当番組は視聴者の皆様からの情報提供を――』
「え?」
静江の声が凍りついたように小さく震えた、その場に固まり、煎餅が手から滑り落ちた、静江の目はテレビ画面に釘付けになり、顔から血の気が引いていく
画面には、真希の顔写真と小さな晴馬の顔写真が全国に晒されていた
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あたしは哺乳瓶を見つめていた・・・ミルクのメモリは朝からほとんど減っていない、晴馬は哺乳瓶を口に含むものの、すぐに顔を背け、ぐずぐずと泣き続ける。一日中機嫌が悪く、小さな手足をバタつかせている
「ほら・・・おいしいよ? どうしたの? お腹減ってないの?」
あたしは今朝から優しく何度も同じことを晴馬に囁く・・・心の中では焦りが渦巻いている、育児書には、この時期に体重が減るのは危険だと書いてあった、数日前までは順調に増えていた晴馬の体重が、ここにきて停滞している
静江の言葉が頭を過る・・・やっぱり母乳がいいのだろうか? でも、私には――そんなものない、どうすればいいのだろう、 計画は完璧だったはずだ、この小さな命が私の計算を狂わせ始めている
義母に相談しようと思って、晴馬を抱いてリビングへ降りていった、階段を下りた瞬間、テレビの大音量があたしの耳を突き刺した
『――容疑者の(伊藤真希)は異常な執着心から赤ん坊を誘拐した可能性が高いと見られています!彼女は被害者のSNSを長期間監視し、綿密な計画のもと、妊婦を装って接近し合成写真を使って出産を偽装し――』
あたしは心臓が止まりそうになった、テレビ画面にあたしの顔が冷酷な光に晒されている、息が詰まり、晴馬を抱く腕が微かに震えた。
リビングの真ん中に静江が仁王立ちに成り、まるでオットセイのようにはちきれんばかりに目を剥いてあたしを見ている、その眼差しは可愛い息子嫁ではなく、まるで怪物を見る様な目で見つめていた
「真希ちゃん・・・その子・・・本当に俊太の・・・子?」
―バレた!―
あたしの頭の中で警報が鳴り響く、晴馬を抱く腕が震えて哺乳瓶が床にカランと落ちる、あたしはさっと踵を返し、晴馬を胸に抱いたまま玄関へ駆け出した
「待ってぇーーー! 誰かぁーーーー! 誰か来てぇーーー! あの子が逃げるわ!」
静江の叫び声が背中に突き刺さる、あたしはキッチンへ走って行って、そこに置いてあった包丁をさっと取り上げて義母に見せた
「ひぃ!!!」
そして包丁を持ったままリビングの隅に置かれたマザーズバッグをさっと肩にかけ、晴馬を抱いたまま玄関のドアを乱暴に開ける、夕暮れの冷たい風が顔を叩き、坂の下に停めたレンタカーが目に入る
あたしは晴馬を膝に抱えたまま運転席に飛び乗り、震える手でキーを捻った、エンジンが唸りを上げ、車が坂を滑り出す。
「誰かきてぇーーーー!! 誰かぁーーーー!」
静江は腰が抜けたように柱にしがみつき、力の限り叫び続けた
広島の呉の山の上・・・夕日が茜色に染まる坂道を、俊太は背中に夕陽を背負い登っていた、家へと続く石段を一歩一歩踏みしめ、潮風が頬を撫でていく
その時静江の叫び声が夕暮れの静けさを引き裂き、俊太の心臓を締め付けた、慌てて石段を駆け上がり、家の門をくぐる
「母さん! どうした!」
玄関先で静江が柱にしがみつき顔を真っ青にして叫んでいた
「あの子が・・・真希ちゃんが逃げたのよぉーーー!!」
「真希がどうしたって?」
「つかまえてぇーーーーー!あの子は包丁を持っているのよぉーーー!」
静江が指差す先を見ると坂の下で真希のレンタカーのテールライトが赤く光り、猛スピードで遠ざかっていく
俊太の視線がリビングのテレビに引き寄せられる、画面には真希の顔写真がデカデカと映り、冷たく無機質なニュースキャスターの声に重ねられていた
『――沢村晴馬ちゃん誘拐事件!容疑者の伊藤真希は、沢村晴美さん宅から赤ん坊を連れ去り、小池俊太という男性の恋人を装って広島県呉市に潜伏、彼女は妊娠を偽装し、赤ん坊を自分の子として育てる計画を――』
俊太の信じられないと言う声で小さく呟いた
「真希が?・・・誘拐犯?」
サイレンを鳴らしたパトカーが遠くからこっちへやってくる気配がした
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