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リアムが特別な存在と言った友人達との飲み会を明日に控えた日の午後、慶一朗は付き合い始めて間もない恋人−何とも甘酸っぱい響きのする存在−にある事を忠告するかどうかで悩んでいた。
先日、ランチを一緒に食べている時に慶一朗が裏庭のベンチに向かった時、随分と砕けた口調で電話をしているリアムがいたのだが、その時、どうやら己と付き合っていることを話していたらしく、耳にした途端言葉では言えないもやもやしたものが胸の中に芽生えたのだ。
その後、通話を終えたリアムがいつもの笑顔を向けた為、モヤモヤを言語化出来ずに溜息で紛らわせたのだが、以前、自分達の関係をあまりオープンにしないで欲しいとの言葉が脳裏に浮かび、それがモヤモヤの原因かと自己分析をする。
今まで女性とだけ付き合ってきたリアムが、男である己と付き合っている、その事実を知った時、今まで普通に話をしていた人達の掌がくるりとひっくり返ることもあるのだ。
そのリスクを考えたことがあるのかと疑問に感じるが、同性と付き合うことが初めての彼にそこまで考えが及ぶとは思えなかった。
それに、医師としての腕も悪くないリアムのこの先の事を思えば、己と付き合っている事を明言しない方がいいとの思いが強くあり、その思いの衣を一枚剥げば、自分は彼に相応しくないという常に抱え込んでいる思いが顔を出すのだ。
前途有能な彼の足を引っ張ってしまうのではないか、他にもっと相応しい女性がいるのではないか。
付き合って欲しいと何度も告白された時に浮かんでは打ち消していた疑問がまた芽生え、重苦しい溜息を廊下に落とした時、背後から肩を叩かれて思わず飛び上がってしまう。
「!?」
「次の手術のことでも考えているのかな、ドクター・ユズ?」
「・・・・・・テイラー部長、人を飛び上がらせておいてその顔ですか」
振り返った慶一朗が長い長い溜息を吐いた後、ニヤリと笑いつつ同じ高さにある、年上とは思えない童顔に苦言を呈すると、君を驚かせることが何よりの楽しみだと朗らかに言い放たれてもう一度溜息を零すと、時間があるのならお茶にしないかと誘われ、一瞬目を丸くした後、美味いコーヒーを飲ませてくれるんでしょうねと返しながら一足先に己のオフィスへと向かう部長の後を追いかける。
「君のコーヒー好きは有名だからねぇ」
「部長の人を食ったような態度ほど有名じゃありませんよ」
廊下の先にあるオフィスのドアを開けて慶一朗が入るのを待ってくれている部長に憎まれ口を叩きながら中に入ると、部長の部屋だからと怖気付くこともないいつもと変わらない様子で応接セットのソファに腰を下ろし、テイラーがデスクの内線電話で何件かの仕事の指示を与え、慶一朗の向かいに腰を下ろす。
「この前の手術、理事長が随分と喜んでいたよ」
「・・・・・・患者が助かったのならそれで良いです」
理事長が喜ぼうが嘆こうが実際あまり興味はないと肩を竦め、コーヒーテーブルに並んでいる雑誌を手に取ると、興味のなさそうな顔でペラペラと捲っていく。
「ところで、小児科に新しく入ったフーバー医師と仲が良いそうだね?」
「そうですね、仲良くしてますね」
何度か彼も担当している患者の手術をしたことがあり、それから仲良くなったと雑誌から顔を上げることなく答えた慶一朗だが、その後続く言葉が聞こえてこない為、それがどうしたと言葉に出さずに問いかけるように部長の顔をみる。
「・・・仲が良いと、聞いたよ」
その言葉に潜む善悪の感情に気付いて雑誌を閉じた慶一郎は、足を組んでソファの背もたれに腕を回して尊大な態度で正面に座るテイラーの顔を見つめる。
「────言いたいことがあればはっきり言えばどうだ、ジャック?」
その態度は部長とその部下の医師というものとは思えないもので、声に冷えたものを含ませた慶一朗が、歯に物が挟まっていて気持ち悪いのなら優秀な歯科医を紹介してやろうかとも笑うと、テイラーも似たような表情で背もたれに寄りかかってふふふと笑みを零す。
「必要ないなぁ、歯医者なら間に合っているよ」
何しろ僕の妻は優秀な歯科医だからと笑う上司の軽口に付き合うつもりはないと言いたげに目を細めると、流石に一つ咳払いをしたテイラーが足を組んで慶一朗を真正面から見つめる。
「友人として忠告するよ、ケイ」
「・・・何だ」
「彼はまだこの病院では新入りだ。────お前のように何があっても庇う必要があるのかどうか、見極められていないからね」
テイラーの言葉に一瞬で肝が冷えたのか、慶一朗の顔が僅かに青くなるが、動揺を限界まで押し隠すようにソファの背もたれの後ろで拳を握り、確かにお前の言う通りだとだけ答えれば、お前の友人なら庇いたいがと続けられて素っ気ない顔でサンクスと返す。
この病院で優秀なことで名の通っている慶一朗と新入りでまだどれほどの実力があるのかを品定め中のリアムを天秤にかければ、優秀な小児科はまだ他にもいると判断を下されることは火を見るよりも明らかだった。
そこまで考えた慶一朗の脳裏に、屈託なく笑うリアムの顔が浮かび、もう一度テイラーに見えない場所で拳を握る。
「・・・ランチを一緒に食べているそうじゃないか」
「ああ。リアムは料理が得意だからな」
俺が食いたいと思うものを作ってくれる、だからその言葉に甘えていたと、その言葉で己の甘えに気付かされた慶一朗が苛立たしげに舌打ちし、誰に見られても構わなかったが、誰かが誰かにご注進したのだろうと思案した時、副部長のスミス氏が面白おかしく吹聴していたから釘を刺しておいたとテイラーに何でもない事のように教えられて思わず感情を顔に出してしまう。
「・・・スミス、か」
「彼の腰巾着も横にいたから一緒にバーベキューの串を刺しておいた」
「・・・・・・どうせならそのまま火炙りにすれば良かったのに」
珍しく苛立たしげな顔で親指の爪を噛む慶一朗にテイラーが爪の形が悪くなるから止めなさいと苦笑し、ああとだけ答えて手を口元から離す。
「この病院は働くスタッフのプライベートにはうるさくない。だから自由だけど、彼の専門が小児科だからな」
何を勘繰るか分からない目と耳を塞ぎ口だけを大きく開けた大人達が多すぎるとテイラーがノックの音に気付いて立ち上がると、二人分のコーヒーを運んできたスタッフに笑顔で礼を言い、トレイを受け取るとテーブルにそっと置く。
「────本当の所はどうなんだ、ケイ」
お前のセクシュアリティやプライベートに僕が口を挟んだことはないだろう、信頼して欲しいと前置きをするテイラーに慶一朗が一瞬躊躇ったように目を泳がせるが、付き合い出したばかりだと答えると、口元を手で覆い隠す。
「そうか。・・・なら、お前自身の為にも彼の為にも、お前が何をするべきかはわかっているだろう?」
お前は公私の区別がつけられない子供ではないだろうと諭され、確かにそうだと頷いた慶一朗は、カップを手にコーヒーの湯気を顎に当てるが、浮かれていたと反省の言葉を口にする。
「・・・それにしても、僕でさえなかなか一緒に食事は出来ないのに、彼とは毎日のように食べているんだからな」
正直な話、羨ましくて彼を追い出したくなると同じようにコーヒーを飲みながら呟くテイラーに慶一朗が冷めた視線を投げかけ、コーヒーがまずくなるようなことを言うなと言い放つ。
「小児科はドクター・マーティンだったな」
彼には貸しがいくつもあるから今回の事を黙って見守っておくように釘を刺しておこうと肩を竦める上司には流石に素直に頷いた慶一朗は、不味くはないが美味くもないコーヒーを飲み干して立ち上がる。
「・・・俺は別にどうでもいいけど・・・」
彼には極力迷惑がかからないよう、彼のキャリアに傷を付けないように気をつけてやって欲しいと、上司であり仕事を外れれば友人であるテイラーに頼むと告げた慶一朗に驚いたような視線が投げかけられるが、頼むとだけもう一度告げてテイラーのオフィスを出て行く。
「・・・ケイがあんな顔で頼む、か」
これはもし何かあった時には本気で動かないと駄目だなと、年下の友人の言葉と表情から本気さを読み取ったテイラーは、その為にできることはしておこうと、先ほどコーヒーを運んでくれたスタッフを内線で呼び出し、小児科のトップであるマーティンに短い手紙を書くと姿を見せたスタッフに笑顔で手紙の配達を依頼するのだった。
遅くなるようだし酒臭いお前の隣では眠れないから今夜は自宅で寝る、気を付けて帰って来い、チャオという、恋人に送るにしては温度の低いメッセージを送り、今日は久しぶりに一人で自宅のベッドで眠るかと伸びをした慶一朗は、ベッドルーム内にあるシャワーを使う為にリビングのソファで着ていた服を全て脱いで素っ裸になると、ベッドルームのドアを開け、スマホをベッドに投げ出すとバスルームのドアを開ける。
上のフロアにはバスタブ付きのメインのバスルームがあるのだが、バスタブに湯を張ると掃除が面倒だし、今から湯が溜まるのを待つのは億劫で、シャワーで済ませようとシャワーブースに入って少し熱めの湯を出して頭から被る。
シャワーを浴びながらも慶一朗の脳裏に浮かんでいるのは今日の午後部長であるテイラーに言われた言葉だった。
特定の医師と仲良くなるなとは言わないだろうが、その関係を利用してお前や彼を貶める人が出てくる、それに気をつけろと友人としての忠告の言葉だったのだろうが、その言葉を思いとして受け取った慶一朗の心に重くのし掛かるものだった。
極力職場の人達とは深入りしない関係を心がけていたのに、リアムという恐ろしいぐらいの素直さで人と人との距離を詰めてくる存在に惹かれ、付き合えたことに浮かれていたのだ。
その結果がテイラーの言葉だと気付いた慶一朗は、ランチを一緒に食べるのを止めないといけないなと溜息をシャワーに混ぜ込むと、胸や胃の辺りに不快感が芽生え、なんだろうと薄い腹に掌を宛てがうが、不快感の由来が分からずに苦笑し、適当に髪を洗って身体も洗うと壁に吊るしてある濃いグレーのバスローブを手に取り、サイズの大きなそれに腕を通す。
そのバスローブはリアムのもので、初めて隣の部屋でそれを着た時、着心地と肌触りの良さにリアムの部屋で寝る時にはベッドに入る直前までそれを着ていることが多かった。
そんなに気に入ったのなら家に置いておけばどうだと、予備のバスローブを渡されたのだが、予備ではなく今お前が使っているものがいいと笑ってリアムが着ていたものを剥ぎ取って持って帰って来たのだ。
俺のバスローブの何にそこまで執着するんだと不思議がるリアムにキスをし、うるさいの一言でその追求を中止させた慶一朗は、それ以降自宅で風呂上がりには必ずこのバスローブを着て寝るまでの時間を過ごしていたのだ。
それを着込んで袖をくるりと折り曲げた慶一朗は、ベッドルームからキッチンに向かうと、冷蔵庫からビールを取り出してごく自然な様子でそれを飲み干す。
酒臭いと決めつけたが、自制できるリアムが羽目を外すほど飲むとも思えず、明日、楽しかった報告を聞けるだろうかと思いつつ戸締りを再確認してベッドルームに入ろうとした時、バスローブのポケットに突っ込んだスマホが着信を告げる。
こんな時間に誰だとスマホを手に取ると、そこに表示されているのはリアムの名前で、溜息一つを零しつつ耳に当てる。
「帰って来たのか?」
『帰って来たから、開けてくれ!』
一人で寝ろなんて冷たい事を言うなと捲し立てられ、思わず顔を顰めた慶一朗は、リビングの向こう、玄関横の窓に大きな身体が見えたことに気付き、玄関先で大声を出すなと声を潜めつつ玄関のドアを開けるためにスマホをソファに投げ出す。
「────もう夜も遅い、大声を出すな」
今何時か分からないのかと、溜息を零しながら苦言を呈した慶一朗にリアムが一瞬目を丸くするが、さっきのメッセージもそうだったけれど、本当は俺と付き合うことが嬉しくないのかとポツリと呟いたかと思うと、慶一朗の腕を掴んでベッドルームへと引っ張っていく。
「リアム、痛いから手を離せ」
自分よりも体格が遥かによく力も強いリアムに腕を引っ張られてしまえば逆らえるはずもなく、引きずられながらも慶一朗ができる限りの抵抗を声と表情でするが、ちらりと振り返ったリアムのヘイゼルの双眸にはアルコールの靄が掛かっていて、これはまずいと本能が危機を察する。
「リアム、離せ!」
己の腕を掴む太い手を押しのけようとしても無理で、ベッドに投げ出されてしまい、咄嗟に距離を取ろうとするものの、ベッドの上では何処にも逃げようもなく、膝をついて目を据わらせたリアムが近寄るのを見守るしか出来なかった。
今まで何人もの人達と関係を持ち、中には暴力的な行為が好きな傾向の人もいたが、それが発覚する度に付き合いをやめて関係を絶って来たが、リアムもそうなのだろうか。
酒を飲んで性格が豹変するタイプとは思わなかったのにと、己の人を見る目のなさに呆れそうになった慶一朗は、無意識に体が逃げを打ってベッドヘッドに背中がぶつかった事に気付くが、リアムの手が足首を掴んで引き寄せた為、思わず身体が竦んでしまう。
だが、瞬間的に感じた恐怖を感情として出せる訳もなく、拳を握り歯を食いしばった慶一朗は、己の体を跨ぐように見下ろしてくる、いつもならば愛嬌があると思えるが、今は恐怖すら感じる顔をじっと見上げる。
「・・・ケイ、俺と付き合うのは、本当は嫌だったのか?」
「・・・は?」
慶一朗にとっては文字通り降って湧いて来た言葉で、恐怖を感じつつも目を丸くしてしまうと、嫌だから今夜は一人で寝ると言ったんだろうと、首筋に顔を寄せられながら呟かれ、何をどう考えればそこに辿り着くんだと叫びながらリアムのシャツの襟元を引っ張るが、当然ながら力では勝てる筈もなく、更に顔を押し付けられて顔を背けてしまう。
「逃げるなよ」
酒臭い息とアルコールに理性を奪われていることがありありと分かる目で睨まれ、逃げているのは酒臭いからだと言い返すと、望み通りヘイゼルの双眸を睨みつける。
「どこからそんな考えが出てくるんだ!」
どさくさに紛れてバスローブを脱がそうとするな、足を割り込ませてくるなと、頭を持ち上げて小さく叫んだ慶一朗は、ニヤリと笑みを浮かべるリアムに目を見張り、手首をシーツに押し付けられて身動きを封じられてしまう。
「離せ!」
酔っ払い、手を離せと叫ぶ慶一朗を抑える手にリアムが力を込めたようで、手首を押さえつけられる痛みに慶一朗の端正な顔が歪み、再度首筋に顔を寄せられて酒臭さと痛みに顔を背けてしまう。
それをいい事に、更に顔を押し付けられるだけではなく、足の間にリアムが体を割り込ませて来た為、バスローブの裾がはだけてしまい、白い脚が晒される。
「・・・なんだ、準備してたんじゃねぇか」
「・・・・・・」
耳元で聞こえる声が聞いたことが無いような淫靡さを秘めている砕けたもので、そんな言葉は聞きたくないと思う気持ちと、風呂上がりはいつもこのバスローブを着て寝る直前まで過ごし、ベッドに入る時には裸である事を知っている筈なのに、裸でいることからこちらが誘っていると思われるのは心外だった。
そう考えた瞬間、慶一朗の中で何かのスイッチが入り、抵抗するのを止めて全身から力を抜く。
「────リアム、止めろ」
このまま抑え込まれるのも好きじゃないし、今日はそもそもそんな気分になれないと、通じるかどうかが分からないが通じて欲しいと願いつつ冷静さを保ってリアムを呼ぶと、首筋を舐めていたリアムが顔をあげて視線を合わせて来た為、目に力を込める。
「止めろと言っている」
聞こえないか、それとも聞く気がないのかどちらだと、見下ろしてくる恋人の目を睨みつけた慶一朗だったが、リアムの双眸にかかったアルコールの靄が晴れた事に気付くと、ぐっと腹に力を込めてリアムの頭に頭突きをする。
「い・・・っ・・・!?」
「止めろと言っているのが聞こえないのか」
頭を押さえて蹲るリアムの下から抜け出してベッドから降り立った慶一朗は、前髪をかき上げながら涙を滲ませた目で見上げてくる恋人を見下ろす。
「まさかお前がこんなバカだとは思わなかったな」
「え・・・?」
慶一朗の冷たい声にリアムが顔だけではなく身体ごと起き上がると、どういう事だと小さく呟く。
「バスローブだったのは風呂上がりだ。裸なのは寝る前はいつもそうだ。何も酔っ払って帰宅するお前を待っている為じゃない」
「・・・あ」
思い出したかと小さく呟きつつ溜息を吐いた慶一朗は、奇跡的に酔いから覚めたらしいリアムの前で腰を屈めて顔を寄せると、今夜はそんな気になれないし準備なんか何もしていない、分かったらさっさと出て行って自分の家で大人しく寝ろと言い放つ。
「・・・・・・」
「・・・俺は、俺の意思を無視して無理矢理やろうとする相手を恋人とは認めない」
パートナーの意思を無視したセックスは、例え恋人同士であろうとも単なる暴力だと己の持論を淡々と口にする慶一朗の言葉からリアムが己の言動を振り返ったのか、アルコールで赤かった顔が徐々に白くなっていく。
「俺はそんな暴力男を恋人にした覚えもないし、・・・・・・好き、になったつもりもない」
お前には立派な理性があり、その理性が俺の過去を知ってもそばにいたいと思ってくれたのではないのかと、淡々とした声に諭されてリアムの顔から血の気が引いていく。
「・・・・・・ケ、イ・・・」
「分かったら出て行け」
身体が熱を持っているのなら自宅のベッドで一人でそれを吐き出せと言い放ち、蒼白な顔で呆然と見上げてくるリアムをジロリと見下ろした慶一朗は、早く出て行けと冷たく告げ、震えながら立ち上がるリアムが出ていくのをじっと見送り、ドアが閉じると同時にベッドに倒れこむ。
そして、今になって額の痛みや押さえつけられていた手首の痛みを感じて身体を丸め、あのまま力尽くで抱かれていたらと考えた瞬間、恐怖に身体が震え始める。
リアムのあの鍛えられた身体に無理矢理抱かれた時、己の身体に初めての時よりも深い傷が残りそうだった。
それよりも、目には見えない心の何処かが深く傷付きそうで、そちらの方が怖いと両腕を抱きしめてきつく目を閉じた慶一朗だったが、脳裏に不意にテイラーの言葉が蘇り、酒に酔った勢いで無理矢理抱こうとする恋人など別れてしまえと囁かれ、頭を一つ振ってベッドに起き上がる。
己が感情を堪えきれずに爆発させた時、ただ心配だからとベランダから駆けつけてくれ、傷を負った手だけではなく、目には見えない心の傷にも手を当ててくれた、本質は優しい人だろう。
その優しさは慶一朗の頑なだった心も柔らかくする程で、そんな彼が酒に酔った勢いで無理矢理抱こうとしたからといって、この一回で彼と別れを選ぶのかと自問し、微かに震える両手を膝の上で組んで遣る瀬無い溜息をこぼす。
部長に今日言われたことはまるで今夜の出来事を予見していたもののように感じ、そんなバカなことはない、単なる偶然だと頭を振るが、リアムと己の付き合いが病院内に知れ渡り、自分達を良くは思っていない人達−例えば副部長のスミスや彼の直属の部下達−に付け入る隙を与えてしまうだろう。
テイラーが自分を見捨てるとは思わないが、本人が言ったようにリアムを庇うだろうかと考えた瞬間、彼から受けた暴力紛いの行為が与えたものよりも強い恐怖を慶一朗の中に芽生えさせ、身体が震えそうになるのを歯を食いしばって堪える。
初対面から不思議な出会いを果たし、気がつけば隣人で同僚という年下の、患者である子供たちからも信頼を得ている心優しいマッチョマン。
同じ病院で働くようになってまだ半年も経過していないが、既にリアムがいない病院の光景を思い出す事が出来なくなってしまった慶一朗は、両手をぐっと握りしめて何かを決意した顔を上げる。
テイラーが言ったようにランチタイムについて何かを言われるのなら、リアムを守るためにはそれを止めるだけだった。
毎日のランチを一緒に食べられなくとも、仕事が終わり帰宅すれば一緒にいられるし、夜はどちらかの部屋で一緒に寝ているのだ。
職場で自分達の関係を疑われるような言動は慎み、ランチの時ぐらい我慢しろと己に言い聞かせた慶一朗は、さっき経験した恐怖をすっかり忘れ去り、自問への回答を無意識に導き出すと、ふと我に帰って微苦笑する。
バスローブの裾は捲れ上がっていて流石にこのまま寝る気持ちになれず、クローゼットから取り出した服に手早く着替えを済ませ、眠れないことからビールを取りにキッチンに行こうとドアノブに手を掛ける。
そういえば、リアムに自宅に帰れと言い放ったが、帰ってしまったのだろうか。
玄関のドアの音や鉄のフェンスの音が聞こえて来なかったように感じ、そっとドアノブを開けた慶一朗の目の前、膝を抱えて大きな身体を小さく丸めるリアムがいて。
帰らなかったのかと呟くと同時に、そんな所で大きな身体を丸めて子供みたいに反省するなと微笑ましい気持ちになる。
さっきまでは激怒していたはずなのに、少し経てば微笑ましいと思える己の思考回路に軽く驚きつつも、さて、このまま声を掛けてリアムを許すのか、それとももう少し厳しい顔を見せておくのかと思案し、ドアを薄く開けつつ壁に肩で寄りかかりながらリアムの様子を見守ってしまうのだった。