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今日を最後に実家を出て、一人暮らしを始める。荷物は昨日のうちに新居に送る手配を済ませてあって、今日の夕方に受け入れる予定だ。鍵は新居に行く前に不動産屋に立ち寄ることになっている。そして明日には、今夜のうちに自宅に戻って来るはずの母親と善が、荷ほどきを手伝うためにS市まで来てくれる。
「いよいよか」
一人つぶやき、これまでずっと過ごしてきた自分の部屋を、少し寂しい思いで見回す。
ドアをノックする音がして、外から善の声がした。
「姉ちゃん、そろそろ行くんだろ。俺、車出しとくから」
「うん。分かった」
この後、乗換駅まで善に車で送ってもらうのだ。階段を降りる弟の足音を聞きながら、私は足下に置いていたリュックをのろのろと手に取った。そこに入っているのは、一泊分程度の荷物だ。それを肩にかけ、最後にもう一度だけ部屋の中をぐるりと見回す。
「よし、行くか」
鼓舞するように自分自身に向かって声をかけて部屋を出る。
外では善が車の中で待っていた。
「お待たせ」
「おう。じゃ、行くよ」
「うん、よろしく」
短い会話を交わした後、善は車を発進させた。
乗り換え駅が見えてきて、弟は付近の駐車場に車の鼻先を向けた。
「その辺で下ろしてくれていいよ?」
「ここまで来たんだから、駅の中まで行くよ」
善は車から降りると、後部座席に置いておいた私の荷物をさっさと持って歩き出した。私の前を歩いて改札に向かい、その手前で足を止める。荷物を私に返しながら言う。
「少し早かったみたいだな」
「ぎりぎりになって着くよりはいいから」
「そうだな。んじゃ、明日、母さんと一緒に行くから」
「うん。よろしくね」
「おう。気を付けて行けよ」
「ありがとね」
私は弟に礼を言って、改札に向かった。そこを抜けて何気なく振り返る。私の視線の先にいた善は、普段私に対してはあまり見せないような寂しげな顔をしていた。
善なりに心配してくれているのだろうと思ったら、私の胸の内にも寂しさがじわりと広がり出した。しかし面には出さず、弟を安心させるために笑顔で大きく手を振る。
彼は照れを隠すかのようにわざと無表情で手を振り返す。
そんな弟の姿を微笑ましく思いながら、私はくるりと背を向けた。S市行きの電車の線路は改札から最も遠い。てくてくと歩き、階段を使ってホームに降りる。そこで電車を待つ人の姿はまばらだった。
電車が入って来るまで、時間はまだ余裕がある。飲み物でも買って待合室にでもいようかと、自動販売機に足を向けた。何を買おうか迷っていると、近くで誰かが私の名前を呼ぶ。聞き覚えある声にどきりとした。まさか、と思いながら恐る恐る振り返り、私は目を見張った。
「理玖君……」
かすれそうになる声で重ねて訊ねる。
「どうして、ここに……?」
昨夜電話で話した時には、見送りに来るようなことは一言も言っていなかった。
彼はゆっくりと近づいてくると、私の目の前に立ち、微笑んだ。
「やっぱり、来ちゃった。……迷惑だった?」
不安そうな目をする理玖に、私はぶんぶんと勢いよく否定した。
「そんなことないわ。すごく嬉しい。びっくりしたけど」
「良かった」
彼はほっとしたように笑い、私の手を取った。
「あのさ。俺たち、少しの間離れるけど、俺の気持ちはいつだってまど香さんの所にあるからね」
言いながら理玖は私の手を、自分の手の中に包み込む。
その温かさに胸がきゅうっと締まる。家を出る時も、善に見送られて改札に向かいそこを通る時も、特に感じなかった切なさだと思った途端に、目元が濡れてひんやりした。
それに気がついて、理玖は私の目尻を指先でそっと拭う。私を近くの柱の傍まで促し、辺りには誰もいないのをいいことに、その陰で彼は私を腕の中に閉じ込めた。
「会いに行くから待っててね。ゴールデンウイークもあるし、五月にはT大のオープンキャンパスもある。夏休みだってすぐだ」
「ふふ、ありがとう。私もこっちに帰ってくるわ。その時には必ず連絡する。だけど理玖君の受験勉強が優先だからね」
「分かってるよ」
理玖は嬉しそうに私を抱き締め、頭の上で囁くように言う。
「そっちに遊びに行ったら、まど香さんの部屋に入れてくれる?」
「もちろんよ」
「そしたら二人でいちゃいちゃしようね」
「い、いちゃいちゃはしませんっ」
「えぇ、どうしてさ」
理玖は腕を解いて私の顔をのぞき込んだ。
艶のある瞳に見つめられてどきどきする。
「俺はいちゃいちゃしたいよ。一緒にいる時は、こうやってくっついて、たくさんキスしたい」
「キス」の一言に、これまでの彼とのキスが思い出されて全身がかあっと熱くなった。
理玖はくすっと笑って私の唇にそっと口づける。
「この以上のキスは、次に会った時にたっぷりしようね」
「もうっ……」
嬉しいやら恥ずかしいやら、私はため息をつきながら理玖を見上げる。
その時、遠くからガタンゴトンと電車の音が近づいてきた。
「あぁ、そろそろか……」
理玖のつぶやきに、しばし忘れていた寂しさが戻って来る。次に会う時までその温もりと感触を覚えていたいと、私は彼の手を握る。
「行ってきます」
そう言って離そうとした手は理玖につかまる。
「行ってらっしゃい。俺が近くにいないからって、他の男の人に気を取られちゃだめだからね」
冗談めかして言っていたが、その目は真剣だった。
だから私も真面目な顔で頷き、こう続けた。
「理玖君もだからね」
「俺にそんな心配はいらないよ」
理玖は信じてとでも言うように、繋いだ手にぎゅっと力を込めた。
離れ難い気持ちを抑えて繋いでいた手を彼から手を離し、私は電車が止まるはずの位置まで移動した。
銀色の車体が徐々に大きく見えてきた。ホームに入ってきた電車が止まりドアが開く。
急に寂しさがこみ上げてきたが、自分に言い聞かせる。これは別れではないのだから、と。だから私は理玖に笑顔を見せる。
「じゃあ、またね!」
あえて明るい声で言って私は電車のステップに足をかけた。
(了)