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第10話:イネくん、建てない
「……イネくんが、“何も描かない”って、初めてじゃないか?」
魔央建設・設計本部で最も長くイネくんと現場を共にしてきた、デザイナーのハリマ・ロックが眉をひそめた。
がっしりとした中肉体型に、灰青のつなぎ服。頭頂部がやや禿げ上がっており、額には長年のスコープ跡がくっきり残っている。
今、仮設設計室には、いつものように水色の球体──イネくんが浮かんでいた。
しかしその身体はぴたりと動かず、色の揺らぎも、光の軌跡も、まったく現れていない。
それは、いつもなら空気に花びらのような線を舞わせるイネくんが、“完全に沈黙している”という異常だった。
この日の依頼主は、“誰でもない”。
本社への直接依頼でも、王からの命令でもなかった。
魔央建設の古記録部門に保管されていた未達成の建築計画No.0──
その土地に、突如として“建設の承認サイン”が入っていたのだ。
場所は、《デ・ミルノ断崖》。
北方の砂風と磁気風が交錯する、不毛の高地。
どんな建築も“浮き上がっては崩壊する”と言われ、長年“立地不可能”と判断されていたエリアである。
建設会議の席で、ハリマと共にいたのは、都市魔法調整官のメネ・ツィナ。
年齢は20代後半。浅黒い肌に灰のドレッドロング。
両耳には風圧感知ピアスを装着しており、全身から「情報で動く人間」という雰囲気を漂わせている。
「浮力も重力も不安定、地盤は揺れる、方向磁場は乱れてる……
こんな場所に“何を建てたい”って言うの?」
「でも、正式に“魔央建設への受注サイン”が届いたんだよ。しかも“誰の名前もない契約”でね」
ハリマが顔をしかめる。
「名前のない依頼……。イネくんが反応しないのも、それが原因か?」
その時、イネくんがかすかに動いた。
だが、描いたのは“設計”ではなかった。
浮かび上がったのは──
バツ印。ひとつだけの、静かな拒否。
メネが息を呑む。
「……建てたくない、ってこと?」
ハリマが頷く。
「たぶん、“建てる意味がない”って、判断したんだろう。
イネくんにとって、都市は“依頼に応えるための形”だ。
誰かの感情も、言葉も、希望もない場所に──彼は、“形”を持たせる理由がない」
メネは黙ったまま、手元の端末を操作した。
画面には、契約サインの記録が残っている。
だが、署名の欄にはただ──**「null」**という文字だけが刻まれていた。
「……意思がない。けれど、署名だけがある。
それって、“誰でもない誰かが、形だけ依頼した”ってことじゃない?」
ハリマは深くため息をつき、イネくんに目を向けた。
「……イネ。
お前が“描かない”って判断したなら、それが最適解なんだろうな」
イネくんはゆっくり、ひとまわり回ったあと、淡く光る**“空白の円”**を描いた。
それは、何も描かれていない──けれど、**確かに“ここに描かないという設計”**だった。
工事は中止された。
報告にはこう記された。
「この地に“建てない”という設計を提出。
それは、“空白の構造”として、最も完成された形である」
イネくんは静かに帰還した。
その日、魔央建設は初めて──“建てないこと”を選んだ。