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僅かな松明の明かりの向こうで朧に見えるその影は、塔にも劣らぬ巨躯の大蛇のようだった。
焚書官たちの鬨の声に応答するように、鬣《たてがみ》のような体毛を振り回し、塔に巻き付いて落ちてくるよりも素早く降りてきたかと思うと、焚書官を五人、一度に丸呑みにする。
しかしそうではない、とすぐに分かる。丸呑みではない。肉を潰し、骨を砕く惨い音が聞こえる。蛇のような姿にもかかわらず咀嚼している。それもそのはずだ。その大蛇の頭は人間の頭のようだった。年老いた老翁。長く伸びた白髪白髭。皴にまみれた鷲鼻、薄くひび割れた唇。皮膚のたるんだ老爺の頭だ。瞳も間違いなく人間のもので、その虹彩には思慮を思わせる輝きがあり、それ故に底なしに不気味だった。
まるで次の獲物を吟味するように老翁の大蛇の視線が左に右にと揺れる。それが出来るのか出来ないのかユカリには分からないが、話し合うつもりはないようだ。
弓を携えた者は射かけ、剣を構えた者は斬りかかる。それは鱗に刺さり、鱗を剥がし、汚れた血を噴き出させる。しかし老翁の大蛇は何ほどでもないという風に大木の如き尻尾を振り、人間という小さな獲物を軽々と吹き飛ばした。
「グリュエー!」と呼びかけ、ユカリは落ちていた兜を拾い上げて投げつける。「目を狙って!」
豪風と共に兜は飛ぶが、老翁の瞼に遮られる。次々に拾い上げ、投げつけてはグリュエーに目を狙わせる。
大蛇が暴れ、長い体を縦横に伸ばす。鱗の壁が立ちはだかり、そうして広場に散らばっていた戦士たちは分断される。松明の明かりもまた分断される。薄暗闇の中に大蛇の血の雨が降る。
「大丈夫? ユカリ、濡れてない?」とグリュエーが言った。
「大丈夫。雨の日もそうしてくれたらいいのに」
狙っているのか偶然かは分からないが、血の雨のために松明の明かりが減っていることにユカリは気づいた。炎、もしくは光を嫌がっているのだろうか。ベルニージュもまたそれに気づいたようだった。
一転、勢力を広げていた暗闇が広場の外へと追いやられる。一際明るくなり、それがリトルバルムの街で見たような炎の巨人をベルニージュが顕現させたからだとユカリにも分かる。かつてのそれは老翁の大蛇にも劣らない大きさだった。しかし前に見た天文台にも引けを取らない姿に比べれば、目の前の炎の巨人は随分と小さい。だが、あの時とは違い、今ユカリたちの目の前にいる炎の巨人は、大きさに反比例するように暴力的な熱を辺りに振り撒いている。
立ち上がった象のような炎の巨体が燃焼音で威嚇し、大蛇に躍りかかる。大蛇は炎を嫌がるように暴れ狂いながらも、次々に戦士たちを貪っていく。まるでそうすることが、炎への対抗策かのように。しかしその怯えに反して、その鱗には炎が通じていないようだった。
ユカリは申し訳なく思いつつも、主を失ったばかりの剣を見つけると、両手で拾い上げて全身で投げつける。錆びついた剣は美しい弧を描き、切っ先が老翁の瞼を貫いて右目に突き刺さる。耳を劈く叫びが魔女の牢獄にこだまする。
しかし大蛇はまるで意に介さぬように変わりなく暴れ狂う。犠牲は増える一方で、悲鳴も鯨波も松明の明かりも夜明け前の蛍火のように消えていく。
ユカリが再び遠くにベルニージュの姿を捉えた時、老翁の顔もまた赤い髪の娘の姿を捉え、鋭い牙を並べた口を大きく開いて迫っていた。ユカリは声を出す暇もなかったが、回り込まれたことにベルニージュが気付くと同時に、サクリフが飛び込んで斬りかかり、大蛇の狙いは逸れた。牙に引っかかったのか、サクリフの鎧われた体は嵐に舞う木の葉のように吹き飛ばされる。ベルニージュが命の恩人に走り寄り、ユカリもまた駆けつけようとするが、再び老翁が間を通り、鱗の壁に阻まれる。
その時、悲鳴とは違う勇ましい声が遠くから降ってくることにユカリは気づいた。見上げて気づく。塔の上、青空に縁どられた小さな人影がが何事かを叫んでいる。その声はグラタードだ。どうやら狙いがあって大蛇を挑発しているらしいが、大蛇は少しも関心を見せずに地上で暴れている。
呆れている暇はない。ユカリは再び錆びついた剣を取り、塔の方へと走る。風に乗って跳躍し、鱗の壁を乗り越え、ベルニージュの姿を探す。炎の巨人の明かりを見つけ、一跳びにベルニージュと合流する。サクリフの姿はない。
「塔に火を!」
「連れてって!」
グリュエーの力を駆使して、二人は塔のふもとへと近づく。ベルニージュは塔の壁に触れ、呪文を唱え始める。
太陽に阿る言葉。山火事を寿ぐ忌まわしき呪い。最初の焚刑の歌。
ユカリは塔を見上げるが、グラタードの姿が見えない。どこで狙いを定めているのか分からない。
「ベルニージュさん。ぐるりと一周、火をつけてください」
「初めからそのつもり。エイカ、離れて」
ユカリが離れ、ベルニージュが何かを塔に投げつけるふりをすると、輝かしく燃え盛る炎の環が塔を取り囲む。辺りは昼間のように明るくなり、それ故に、惨事が明るみになる。屈強な男たちが血に塗れ、地に伏している。立っている者は半減し、まだ生き残っている者も気勢が削がれている。
死闘は続く。魔女の牢獄の怪物、老翁の大蛇はここに至ってなお少しの疲労も見せずに暴れていた。しかしベルニージュの炎の環が灯るとともに、その激しいうねりをやめて、血に濡れた鱗で炎を消さんと塔へとぶつかる。狙い通りだ。
「行くぞ!」というグラタードの叫びがはっきりと降ってくる。
次の瞬間、轟音と共に老翁の首に巨大な柱が突き刺さる。よくよく見ると切っ先のある矛だと分かる。まるで大伽藍の柱の如き矛の切っ先は、大蛇を貫き、しっかりと地面に食い込み、老翁の頭の動きを止めた。しかし相変わらず長大な胴体は暴れ狂い、塔を叩き、戦士を跳ね除け、黒松を薙ぎ倒す。
ベルニージュが苦痛に歪む老翁の頭へと駆け寄り、同時に炎の巨人を三体生み出すと、次々に老翁の口の中へと飛び込ませた。凶暴な炎は大蛇の体内を焼き尽くし、とうとう怪物は鎮められた。体内を焼かれた老翁の大蛇は大きく開かれた口から白煙を立ち昇らせる。
戦いを終えたばかりだが、動ける者は被害状況を調べる。すると平和の使者の一団を除いて、死者は一人も見つからなかった。全てが大蛇の腹の中で、弔うことすらできなかった。
百を超えていた集団が、生き残った者は四分の一もいない。皆疲労困憊で、ある者は血に塗れ、ある者は骨を砕かれ、ずたぼろになっている。
「サクリフ。結局ありがとうって言えなかったよ」とベルニージュは呟く。
悲し気なベルニージュの横顔にユカリは言う。「言えばいいじゃないですか」
「それはもちろん伝えたいけど、感傷に浸っている暇なんてないよ。早く街を探さないと」
「今ささっと感謝の言葉を述べてくれていいんだよ」と銀の兜を覗き込ませてサクリフは言った。
銀の兜は無事だったようだが、銀の鎧の留め具が裂けたらしく、胸当は失われている。
「サクリフ、あなた女だったの?」
ベルニージュは露わになったサクリフの豊かな胸を凝視して驚いた。
サクリフは拍子抜けして苦笑する。「なんだよ。生きてたことを驚くんじゃないのか」
「ベルニージュさん、気づいてなかったんですか?」とユカリは驚いた。
ベルニージュはユカリを見、サクリフを見る。
「まあ、気づいてたけどね。確認というか、確証はなかったわけだし。そもそも何で隠してたわけ?」
「いや、別に隠してたつもりはないんだけど。積極的に言ってないだけで、それは君たちも同じだろう? 私は女ですって表明したかい?」
「要するにベルニージュさんが勝手に勘違いしていたってだけですね」
ユカリは意地悪げな笑みを浮かべてベルニージュを小突く。
「勘違いしてない! 可能性の一つとして無視できなかっただけ!」ベルニージュは咳払いする。「ともあれ、ありがとう。サクリフ。お陰で助かった。怪我はなかったんだね」
「ああ、見ての通り、胸当は駄目になってしまったけど、幸い怪我はない」
今になってその胸が血に塗れていることにユカリは気づいて小さな悲鳴をあげる。
「大丈夫なんですか? その血」
「ああ、これは大蛇の血だよ。ぬめぬめして気持ち悪いけど、僕に怪我はない。しかし悔しいなあ。仕留めたのはグラタードで、とどめを刺したのはベルニージュだ」
「サクリフさんの活躍があってこそじゃないですか」とユカリはサクリフを労うが、それでも残念な気持ちは晴れないようだ。
そこへグラタードがやってくる。いつの間にか蛇に突き刺さっていた巨大矛が消え失せていることにユカリは気づいた。
「君たち、無事で何よりだ。それはそうと怪物の血には触れたか? どうやら呪いを貰うらしいぞ」
グラタード以外の視線が大蛇の血に塗れたサクリフの胸に注がれる。
「呪いというのは?」とサクリフは尋ねる。
少なくとも見た目には何も変わらない。サクリフは血で汚れているだけでぴんぴんしている。
グラタードは淡々と答える。「これから詳しく調べるところだ。ベルニージュ、エイカ、君たちは?」
「ワタシは近づかないようにしたから一つも触れてない」とベルニージュ。
「私も大丈夫です」と言い、次にユカリはこそりと囁く。「ありがとうね、グリュエー。グリュエーは大丈夫?」
「もちろん! グリュエーは風なんだから!」
グラタードとベルニージュが血を浴びた者たちを調べたところによると、どうやら体が徐々に石のように硬化しているのだという。
「すぐに石化する心配はなさそうだけど、解呪方法はまだ分からない」とベルニージュはグラタードや血を浴びた者たちにはっきりと告げた。「戻るか、魔女の牢獄にあるという街へ行くしかない。手当たり次第に解呪してみることもできるけど、まだ賭けを試す時ではないと思う」
「すぐに石化しないという根拠は?」とグラタードが尋ねる。
「血に呪いを仕込むのは心中狙いが多い。勝てはしなくても負けはしないってね。一方で石化の呪いは己の魔法の力を誇示したがる者がよく使う。その上であの怪物は積極的に人間を食べようとしていた。ということから古代の魔女シーベラの狙いは強者の選別だと思う」
「怪物を倒せる者だけ石像にしようというわけか。悪趣味なことだ。よし、では急ごう。出発だ。街ならば塔に登った時にこの目でしかと見た」とグラタードは集団を鼓舞するように言った。「ここからまっすぐに西の方角だ。塔から見える限り、町とその周辺を除いて全て森だったのだ。急ごう。呪いが回る前に、我々は街にたどり着かねばならん。平和の使者の一団を弔うのは町で一度落ち着いてからとしよう」