それからすぐに慌てた様子の医師と看護師が病室に飛びこみ、緊急の診察が始まる。
診察が終わるまで外に出ているようにと言われた朝陽と光太は、病室が並ぶ廊下の壁に背を預けながら、お互い掛ける言葉が見つからない時間を過ごした。
その間、朝陽は先程の隼士の顔を脳裏に過らせながら、一人、胸の内で状況を纏める。
『君は一体誰だ?』
もしもあの言葉が冗談でないのなら、隼士は朝陽のことを忘れたことになる。
十二年前に高校で出会ったことも、卒業の時に告白してくれたことも、昨夜プロポーズしてくれたことも全て。
「っ……」
信じたくない現実に、得も知れぬ恐怖が胃の奥から込み上げてきた。まるで自分の存在そのものが消えてしまったような感覚に、息の仕方さえ忘れそうになる。
ただ――――。
不思議なことに、こんな状況下にも関わらず朝陽の心は別のことを考えていた。
もしも隼士の記憶喪失が確定で、このまま記憶が戻らないとなれば、自分達は今後新たな関係を築いていくことになる。勿論、その場合、隼士に二人の関係を告げて、再び恋人として歩んでいくのが普通だろう。
だが今の二人には、もう一つの選択肢がある。それは――――これを機に友人同士に戻る、という選択だ。
正直、自分でもバカげた考えだと思う。わざわざ愛している人間を手放すなんて愚行、通常なら絶対に考えない。それでもこんなことを考えてしまうのは、朝陽がこの十年、ずっと『将来、弁護士を経て裁判官になりたいと言う隼士の人生を、自分が独占していいのか』という不安を抱き続けてきたからだ。
隼士は昔から優秀な男だった。テストでは毎回学年で三本の指に入り、大学も国内最難関大学の法学部に現役合格した。言うまでもなく、司法試験も一発合格だ。彼が望む裁判官への道は一般的に厳しいものだが、隼士なら不可能ではないだろう。
果たして、そんな有能すぎる男の恋人が、男の自分でいいのだろうか。その悩みはずっと心に住み着き、度々顔を出しては朝陽を苦しめた。勿論、昨晩、いつになく緊張を顔に浮かべた彼から指輪を差し出された時も、だ。
隼士と誓いを交わせば、ずっと共に過ごせるようになる。自分にとってはこれ以上の幸せはないと思ったからプロポーズを承諾したが、隼士の方は本当にこれで幸せになれるのだろうか。
パートナーの存在を誰にも明かせず、優秀な遺伝子を残すこともできない。他にも問題は山とある。こんな人生、他の人間が聞いたら、絶対に反対するはずだ。
「ふぅ……」
一つ大きな呼吸をして、左の薬指に嵌まったエンゲージリングを指ごとギュッと掴む。
そういえば昨日、隼士はプロポーズの場で「お互い、今年の誕生日で三十歳になる。その節目に身を固めるのが一番の機会だと思った」と言っていた。
その言葉が今は別の意味に思えてならない。
三十歳直前、プロポーズ、消えない不安。そして記憶喪失。それらが導き出す答えと言えば、もう――――。
「オイ、朝陽」
「え、あ……はい?」
唐突に呼ばれ、驚いて顔を上げると共に待っていた光太が、何も言わずに小さく顎を動かして病室を差した。
「担当医出ていったぞ。もう入っていいって言ってたけど……お前、大丈夫か?」
恐らく隼士の状況は変わっていない。それでも顔を合わせる勇気はあるかと、聞きたいのだろう。
「大丈夫です、一緒に行きます」
光太の優しさに感謝しつつ、壁から背を離す。そして、そのまま先に病室へと入っていく友人の背を追いかけながら、朝陽はそっと自分の指に嵌まる銀色を抜き取った。
これが自分勝手な決断だということは重々承知だ。けれど隼士の人生を軌道修正させるなら、今しかない。
朝陽は新たな人生を歩む決意を固めて、病室内へと入った。
「この、クソはーやーとぉぉぉ!」
その瞬間、自分でもよくこんな空元気を演じられたと思った。病室に入った途端に目に入った隼士の困惑を見るや否や、朝陽はその両頬を指で思いきり掴んで左右に引っ張り、盛大な文句を吐き散らせたのだから。
「お前、十二年来の大親友様を忘れるとは、いい度胸だなぁ?」
この子犬のように愛嬌のある可愛い顔と、特徴的なアヒル口、そしてと職場の女性から褒められる綺麗なアーモンド型の瞳をよく見てみろ、とついでに髪をサラリと揺らしながら言い寄る。
「ぬぅわっ、痛っ、ちょっ、お前、何す……」
「こんなもん俺の心の痛みに比べりゃ、どうってことねぇだろ、ああん?」
悪魔のような笑みを浮かべながら、問答無用で引っ張り続ける。すると、その様子がよほど鬼気迫ったものだったのか、朝陽の隣では光太が頬を引きつらせながら「これから朝陽を怒らせんのは、やめよ」と呟いた。
が、やはり相手が一応怪我人ということ、早々に隼士から引き剥がされてしまう。
「……んで? 医者は何て?」
羽交い締めにされた状態で、やや緊張を浮かべながら状況を尋ねる。
「今のところ記憶の欠落が見られるのが一部分だけということで、恐らく事故で頭を打ったことによる記憶障害だろうと」
赤くなった頬を押さえながら、隼士が医者の見解を語った。
「それは治るもんなのか?」
「分からない。一時的なものかもしれないし、長期的なものになるかもしれないと……」
「何だよそれ、面倒くせーな。で、忘れたのは朝陽のことだけか?」
即時解決の見込みがない状態に、今度は光太が文句を散らす。
「現時点ではそれだけだが、もしかすると他にも忘れていることがあるかもしれないと言われました」
けれども今、それを突き詰めていくのは得策ではないから、今後は検査をしながら追って探っていくということで話がついたらしい。
「まぁ、確かに一つ一つを挙げて確かめるより、普通に生活をして忘れていることを見つけてくほうが効率いいだろうけど……よりによって忘れたのが朝陽のこととは、ついてねぇな」
忘れるならもっと別のことにしろよ、と光太が怪我人相手に辛辣な言葉と溜息を吐く。
すると、隼士が不思議そうな顔をこちらに向けた。
「俺がこの大親友……とやらを忘れたら、何かまずいことでもあるのか?」
朝陽との関係が本当だったとしても、別に男の友人なら忘れたところで大きな問題にはならないだろうと、隼士はごく一般的な考えを述べる。
当然、朝陽と隼士が普通の友人同士なら問題はなかったし、白紙に戻った友情だってこれから再び築き上げればいい。
しかし、隼士にそれだけでは済まない重大な欠点があった。
「ほぉ……お前、その言葉は忘れんなよ? オイ朝陽」
「はい、何ですぅ?」
本来なら親友として怒ってもいい立場のところ、代わりに光太が切れてくれていたので黙っていた朝陽がアヒル口で笑う。
笑ったのは、光太が次に何を言うか分かったからだ。
「今後、もし隼士が泣きついてきても、土下座するまで許してやるなよ?」
「ええ、そうすることにします」
目の前でニヤニヤと笑う二人を、隼士が不安そうな顔で見つめてくる。それを見て少々心が痛んだが、これから友人としてやっていくのならこれぐらいの距離がちょうどいいと、朝陽は心を鬼にして見て見ぬ振りをした。
「二人して一体何なんだ。俺は怪我人だぞ? もう少し優しくするとかいう気にはならないのか?」
「ハハッ、ごめんごめん。ま、その話はすぐに分かると思うからまた今度ということにして。それで隼士、先生はいつ退院できるって?」
「……怪我自体はそんなに酷くないが、記憶障害が出ているということで、一週間ほど検査入院になった」
二人の会話に疎外感を覚えたのか、隼士はふて腐れた素振りを見せながら説明する。
「まぁ、事故の怪我って後から出てくるものもあるしな。今後、高次脳機能障害とかが出てきても厄介だから、この機会に全部見てもらえよ」
少なくとも人一人分の記憶が抜け落ちてしまっているのだからと、光太は検査を強く進める。
「さて、入院が長引くとなれば着替えとか必要になってくると思うけど、それはどうする? 親御さんに連絡して持ってきて貰うか?」
「あ、それなら俺が隼士の部屋に行って持ってきます!」
話合う二人の間に、朝陽が挙手をしながら割って入る。
「お前……いや、朝陽が、か?」
「何だよ、俺じゃ不服か? 俺、結構な頻度で隼士の部屋に遊びに行ってるから、多分家族より部屋に詳しいと思うぜ」
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