「だって、雑草カフェで、呪いもかかってる社員寮なんでしょう?」
まあ、その特徴では、僕は住みませんけどね、と北村は、もれなく言ってきた。
「うーん。
でもインパクト弱くないですか?」
「……充分だと思いますよ」
と言う北村たちの言葉をのどかは聞いていない。
「そういえば、温泉施設とか人気ですよね」
……また、こいつは、なにを思いつこうとしてるんだ、と貴弘は半ば怯えるようにして、のどかを見ていた。
「温泉とか湧くといいんですけどね」
「誰が掘るんだ、それ……。
お前、今もすでにお前自身が抵当に入ってるくらい俺に借金があるだろうが。
いやまあ、夫婦なんだから、借金とかいう問題じゃないが」
とさりげなく『夫婦』のところを強調してみたのだが、やはり、のどかは聞いていない。
「そういえば、よく『神の湯』とかって温泉あるじゃないですか。
ああいう名前とかつけるの、いいですよね。
すごく効きそうだし、ご利益がありそうだし」
ともう温泉を掘り当てた感じで、のどかは言ってくる。
「うちなら、神の湯じゃなくて、あやかしの湯だろ」
と貴弘が言うと、北村が横から、
「……入るとあやかしになるんですか?」
と訊いてきた。
「いや、神の湯入ると、神様になるわけじゃないだろう」
と貴弘が言い終わらないうちに、
「神の湯に対抗して、仏の湯とかいうのもいいですね」
とのどかが笑って言い出した。
「……それ、入ると、仏様になりそうなんですけど」
と青ざめて北村が言う。
死ぬ気か……。
そんなくだらぬ話をしているうちに、のどかは帰ってしまった。
いきなり好きだと言うのは難しいな、とのどかの残り香の中で仕事をしながら、貴弘は思っていた。
いや、ソースとかつおぶしと青のりの香りなんだが……。
俺があいつを好きかどうか自信がないのも、なにも言えない原因のひとつかもしれない。
今度の休みに、飯塚の事務所に一緒に行くことになっているから、ちょっとふたりでドライブしたり、食事したり。
たまにはデートらしいことでもしてみるか。
そう貴弘は思っていた。
飯塚の事務所に打ち合わせに行く日、のどかはちょっぴり驚いていた。
「社長、車持ってたんですか」
あばら屋の前にとまっている、よく手入れされたピカピカの黒いSUV車を見てのどかは言う。
「むしろ、何故、持ってないと思った……?」
と貴弘に言われてしまったが。
いやいや。
だって、いつも乗ってないじゃないですか、と思いながら、のどかは、はは、と笑って誤魔化そうとした。
まあ、会社から此処までも歩いて移動できる距離だし。
たぶん、会社から自宅までも……
自宅っ!?
そのとき、初めて気がついた。
妻なのに、この夫の自宅を知らないことに。
実は家に、本妻さんとか、二号さんとか居たらどうしよう、と一瞬思ってしまったが。
そういえば、仮に結婚してるだけだったな、と思い出し、気を落ち着ける。
「し、失礼致しますっ」
と乗り込んだその車はまだ新車の匂いがした。
社長と二人で車に乗るのってなんだか緊張しそうだなと思ってたんだが。
新車の匂いと、フロントグラスから差し込む光が、いかにもな五月の陽気で、なんかうきうきしてきたな、とのどかは思う。
「10時に飯塚と約束してるから。
少し話して、何処かで昼でも食べるか」
「あ、いいですね。
今日こそ、奢りますよ。
もうすぐ給料日だから、有り金、パアッと使っちゃても大丈夫ですし」
とのどかは言って、
「……そういう金銭感覚だから、今、こういう困った事態になってるんじゃないのか?」
と言われてしまう。
はあ、ごもっともですよ、と思っていると、貴弘は、
「そのあと、何処か行きたいところがあったら、連れて行ってやるぞ。
今日は車だし」
と言ってきた。
「ほんとですか?
ありがとうございます」
ちょっと本屋さんとか行きたかったんだけど、いいかなー?
社長、本屋さんとか好きだろうか、
と少し浮かれて思ったあとで気がついた。
待ち合わせして、車で出かけて、食事して、お買い物――。
なんかこれって……。
「デートみたいですね」
と貴弘を振り向き笑ったが、貴弘は、何故か難しい顔をして、
「……デートか。
そうだな。
気づかなかったな」
と不自然な口調で言ってくる。
「あっ、そういえば、私、デートってしたことないです」
とのどかが言うと、
「本当か……?」
と貴弘は赤信号を見つめたまま訊いてきた。
「はい。
なので、スケジュール帳用のイベントシール。
デートのとこだけ、産まれて今まで使ったことないので、溜まっちゃって」
「そうか。
じゃあ……今日のところに貼っておけ」
と淡々と貴弘が言ってくるので、
「あ、そうですね。
貼っちゃいますっ」
と言いながら、のどかは、すぐにカバンに持っていたスケジュール帳を出す。
やったっ。
初めて、デートのシールが使えたぞっ。
なにか大人になった感じだ、と綾太などが聞いていたら、
「お前、今、いくつだっ?」
と訊いてきそうなことを思う。
だが、そこで、
「あ」
とのどかは声を上げた。
すると、何故か、すごい勢いで貴弘が振り向き、訊いてくる。
「どうしたっ?」
……なにか非常事態が起こったと言わねばならない感じだが、別にない。
「いやいや。
こういうシールって、早くから貼ってあって、この日、デートかあって、スケジュール帳見ながら、にやにやするものなんだろうなって思って」
くだらぬ話ですみません、と思いながら言うと、
「……にやにやは知らないが。
まあ、そういうのが楽しいのかもな」
と貴弘も言う。
そうか。
そうだよねーと思っていると、
「じゃあ、次の打ち合わせの日が決まったら、そこに貼ればいいじゃないか」
と貴弘が言ってきた。
「あ、そうですね。
でも、デートのシール、飯塚さんとの打ち合わせの日にばかり使っていると、飯塚さんとデートしてるみたいですよね。
ね? 社長。
……社長、青です」
いつの間にか、信号は青に変わっていた。
あ、ああ、と貴弘は急いでアクセルを踏み込む。
「そうだ。社長にもあげましょうか?
デートのシール、いっぱいあるんで」
「……ありがとう」
と笑っているのか、眉をひそめているのか、よくわからない複雑な顔で貴弘は言ってきた。
今日の社長の表情、一段と読みにくいな~。
……いらなかったのだろうかな、シール。
そう思いながら、
「あ、もしかして、アプリとかですか?
スケジュール帳」
と訊いてみたが、
「いや、消えると困るから、紙のを使ってる」
と貴弘は言う。
……そうですか、とか言っている間に、飯塚の事務所に着いていた。
すぐ近くだからだ。
それこそ、徒歩の方が小道を通れるから近かったような。
社長、なんで今日は車で来たんだろうな、と思いながら、のどかは車を降りる。
ガラス張りの事務所から飯塚がこちらに気づいて、手を振っていた。
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