山中と約束した日がやってきた。
彼の仕事の都合で、映画は平日の夜に行くことになったが、その日みなみは少しだけ残業が必要となった。
仕事を終えてパソコンの電源を落とし、山中の席に目をやった。ホワイトボードに書かれた帰社予定時刻はとっくに過ぎているが、彼の姿はまだない。
待ち合せの時間までいくらか余裕はあるが、もしも彼の都合がつかないようなら、予定の変更も考えた方が良さそうだ。後で山中に確認の連絡を入れてみようと思いながら、みなみは机の上を片づけた。周りに退社の挨拶をし、小走りでロッカールームへと向かう。
その途中、手に持っていた携帯電話が震えた。
急いで開いた画面には、山中からメッセージが入ったことを知らせる通知が入っている。そのメッセージには、会社に戻るのは一時間ほど後になりそうだとあった。
文面の中に、変更しようとの言葉はなかったが、やはり日を改めた方がいいかもしれないとみなみは思った。そうなった場合、自分の気持ちに決着をつけるための機会が先延ばしにはなるが、山中に無理はさせたくない。山中宛に、別の日にしようとメッセージを送り返した。
返信は早かった。
日程変更に賛成する内容だろうと思いながら、みなみは彼のメッセージに目を落として文字を追った。そこにはこうあった。
『時間的に映画は無理だけど、もしも岡野さんさえ良ければ、食事に行きませんか?店は任せるよ』
読んでいる途中から、みなみの頬はじわじわと緩み出した。「決着」をつけるつもりの今夜ではあるが、彼と会えることへの喜びで胸がどきどきし始めた。
『ありがとうございます。お店が決まったら連絡します。帰路お気をつけて。お待ちしています』
メッセージを返信してから、もっと他に可愛らしさのある書き方があっただろうにとみなみは後悔した。まるで業務連絡のような、事務的で淡々とした書き方になってしまった。
山中から了解の返信がすぐに戻って来た。それを見て、みなみはにわかに焦り出す。彼が戻って来るまではおよそ一時間あまり。帰る準備をして、店を探して、移動して、などとやっているうちに、それくらいの時間はあっという間にたってしまいそうだ。手早く帰り支度を済ませて、みなみは慌ただしくロッカールームを出た。
それから一時間ほどがたった今、みなみはとある店にいる。以前から気になっていた所だ。人気店らしく、客で賑わっている。席の予約をお願いしておいて正解だったし、事前の電話にも関わらず予約できたのは幸運だった。
案内された二人掛け用のテーブル席に座り、時折手元に置いた携帯電話を気にしながら、みなみは窓の外をぼんやりと眺めていた。
店を決めたことを山中に知らせてから間もなくして、分かったと返信があった後は、連絡がない。彼は一時間ほどで戻るようなことを言っていたが、そこからすでに時間は三十分以上がたっている。今頃はこちらに向かっているところだろうかと思いながら、みなみは水の入ったグラスに口をつけた。
水を運んできてくれた店員には、連れが来てから料理を注文すると伝えてあるが、テーブルの端に置かれたメニューをちらりと見てみなみは迷う。山中の到着までまだ時間がかかるようなら、自分の飲み物だけでも注文しておいた方がいいだろうか。水だけで席に居続けるのは気が引ける。ひとまず何か頼もうとメニューを手に取った。ページを開いて中を眺めていると、店員の声が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
みなみははっとして、出入口のドアの方に首を伸ばした。山中だった。待っていた人の姿が見えて口元が綻ぶ。
店内を見回していた彼だったが、すぐにみなみに気がついた。店員に何事かを伝えて、みなみの座る席までやってきた。
「お疲れ様でした」
労いの言葉を口にしながら、みなみは席を立とうとした。
山中はそれを制して、すまなさそうに顔をしかめる。
「遅くなってごめん」
「いえ。実は私も残業していたので、そんなに待ったわけではありませんから」
「残業?」
「はい、少しトラブルがあって。あ、でもこちらは無事に解決しました。それよりも補佐、今日は遠出されていたんですよね。本当にお疲れ様でした」
「移動が長かっただけだよ。岡野さんもお疲れ様」
山中の笑顔にどぎまぎして、みなみは目を伏せた。
「あぁ、まだ何も頼んでいなかったんだね」
「はい、補佐がいらしてから、と思っていたので」
答えながらみなみは後悔していた。山中がすぐに何かつまめるように、何品か注文しておいた方が良かったかもしれない。
「すみません、気が利かなくて」
「いや、俺こそごめん。先に食べてていいよって言っておけばよかったな」
「いいえ、全然。そんなに待ったわけではないですし、一人で先に食べ始めているというのも、なんだか落ち着きませんから」
「そう言ってもらえると、待たせてしまった罪悪感が多少は薄れるかな」
山中は苦笑を浮かべながら、メニューを手に取った。
彼との距離は思っていた以上に近く、みなみの胸はどきどきしている。
「今日は俺のおごりだ。食べたい物を遠慮なくどうぞ」
「いえ、自分の分は自分で……」
山中はくすっと笑う。
「『ありがとう』って言ってもらった方が嬉しいな」
「え、えぇと、では、ありがとうございます……」
山中は満足そうに笑う。
「うん、それでいい。さ、早く注文しよう。さすがに腹が減ったよ」
「ここは何がおすすめなんでしょうね」
「昔食べたピザは美味しかった」
「ここのお店、ご存知だったんですか」
「一度だけ来たことがある。あ……」
言ってしまったことを後悔したかのように、山中の表情が僅かに歪む。しかしすぐに話題を変えるかのように、みなみに訊ねる。
「ところで、お酒はどうする?」
彼は動揺しているようにも見えた。この話にはあまり触れられたくないのだろうとみなみは理解し、過去に遼子と来たことでもあったのだろうと推測した。二人の過去についてすでに納得している今、わざわざその詳細を聞き出そうとは思わない。
「グラスワイン、頼もうか」
少しだけ迷った。今日は酔うつもりはない。かと言って、全くの素面で、この後に控えている今夜最大の課題に対峙する自信はない。結局、一杯だけと心に決めてみなみは山中に頷いた。せめて食事の間だけはと、重たい課題のことを頭の片隅に追いやって、彼との時間を幸せな気分で過ごす。
最後に運ばれて来たデザートを口に運んでいる時、山中が思い出したように口を開いた。
「この間出張に行ったんだけどね」
「確か仙台の方へ行かれたんですよね。取引先でトラブルがあって、その対応のために補佐が現地に行かれたと聞きましたが」
「一時はどうなることかと思ったけど、なんとか丸く収まったから良かったよ。……それでね」
彼はごそごそと足元の荷物用のかごの中を探る。そこに置いていたカバンの中から小さな紙袋を取り出した。
「お土産を買って来たんだ。岡野さんに」
「私に?」
「あぁ」
どうしてわざわざと、みなみは困惑した。
山中はにこりと笑い、軽く身を乗り出す。
「手を出して」
「え?」
「いいから、手」
みなみはおずおずと右手を出した。
「どうぞ」
山中はみなみの手の平に、その紙袋を乗せた。
その時のほんの一瞬、彼の指先が微かに触れた。まるで電流でも走ったかのような感覚があって、みなみはどきりとした。そのせいで、礼を言うタイミングが遅れてしまう。
「……あ、ありがとうございます。あの、開けてみてもいいですか?」
「もちろん」
皿やグラスなどの食器をテーブルの端の方に少しずらし、自分の前に場所を作ってから、みなみは注意深い手つきで袋を開け、中身をそっと取り出した。
それは、軸の部分が長くデザインされた、イチョウの葉と思われる形の美しい細工物だった。いかにも日本的なしっとりとした赤色が艶やかに目に映る品だ。葉の部分には、丸い月の下ではねる一羽のウサギが金色で描かれていた。