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今夜はついに山中補佐との約束の日。それなのに残業になってしまった。
今日の仕事を終えた私はパソコンの電源を落としながら、ため息をついた。
平日の夜に約束を取り付けることになってしまったのは、仕方がなかった。お互いの都合が合ったのが、チケットの期限ぎりぎりの今夜しかなかったのだ。週末の休みという頭は最初から私にはなかった。なぜなら、それはいかにもデートへの誘いのようで気恥ずかしいと思ったからだ。
オフィス全体を見回しながら、私は補佐の席を確かめる。まだ戻ってきていないようだ。スケジュール表に書かれた帰社予定時刻は大幅に過ぎていたが、訪問先はそれほど遠い所ではなさそうだ。会社に連絡は入っていないようだから、何か問題があって遅れているわけではなさそうだ。
今夜のことをどうするかは、後で連絡を入れてみることにしよう――。
そう考えて、私は自分の机の上を片づけた。上司たちに挨拶をして、小走りでロッカールームへと向かった。
途中で他部署の人とすれ違い、挨拶を交わす。
「お先に失礼します」
そう言ってロッカールームへ足を向けようとした時、手にしていた携帯が震えた。画面を開いて見ると、補佐からメッセージが届いていた。そこには、会社に着くまではあと一時間ほどかかりそうだと書かれていた。
私ならそれくらい待てると思ったけれど、補佐は疲れているかもしれない。早く帰りたいと思っているかもしれない。残念だけれど、今夜の約束は取りやめにした方がいいのではないかと思い、私はこう返信した。
今日はやめましょうか――?
そう打ってから、私は苦笑する。自分の気持ちに決着をつけるための機会を、また先に延ばすことになりそうだと思った。
補佐からの返信は早かった。そうしようという返事に違いないと、諦めながらメッセージを開き文字を拾い始めた。しかしすぐに私の目の動きは止まる。
『映画は無理だけど、もし岡野さんさえ良ければ食事には行きましょう。店は任せるよ』
声には出さず、私はその文面をゆっくりと読み返した。
会えるんだ――。
ほっとした。一方で、みぞおちの辺りから緊張感がじわじわと広がり出すのを感じた。
『ありがとうございます。お店が決まったら連絡します。帰路お気をつけて。お待ちしています』
メッセージを送信してから、少し後悔した。まるで業務連絡のような、事務的で淡々とした書き方になってしまったからだ。もう少し可愛げのある書き方をすればよかったと思っていたら、補佐から短く返信があった。
『了解』
補佐が戻ってくるまでは約一時間。帰る準備をして、お店を探して……などとやっているうちに、それくらいの時間、すぐにたってしまいそうだ。
決着をつけるという目的がある今夜、再び勇気を振り絞ることになるはずだ。そう考えると、補佐に会えるとばかり喜んでもいられない。けれど私の頬も口元も、引き締めるのが難しいほど緩んでしまっている。
私は他の人に気づかれないようにうつむき加減で、慌ただしくロッカールームへと急いだ。
補佐とメッセージのやり取りをしてから、およそ一時間後。
私は、以前から気になっていたお店にいた。席くらいは予約した方がいいだろうと考えて電話を入れてみたところ、すんなりと予約が取れたのだった。
二人掛け用のテーブルにぽつんと一人で座った私は、大きく切られた窓の外をぼんやりと眺めながら補佐のことを考えていた。
私は手元の携帯に目を落とした。このお店に決めたことを知らせてから間もなく、分かったと返信があってからは特に連絡はない。今頃はこちらに向かっているところなのかもしれない。
私は水の入ったグラスに手を伸ばした。連れが来てから注文すると伝えたのに、わざわざ置いて行ってくれたのだ。テーブルの端に置かれたメニューをちらりと見た。補佐が来るまでもう少し時間がかかりそうなら、せめて自分の分の飲み物だけでも注文してしまおうか。ずっと水だけで席に居るのはさすがに気が引ける。
何を頼もうか――。
私はメニューを開いた。悩みながら眺めていたら、店員の声が耳に入った。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
はっとして私は出入口の方に首を伸ばした。やはり補佐だった。
彼は私を探すように店内を見回していたが、すぐに気がついたらしい。店員に何事かを伝えると、私のいる席までやってきた。
労いの言葉を伝えようと立ち上がりかける私を止めて、補佐は申し訳なさそうな顔をした。
「待たせてしまって申し訳ない」
私は首を振る。
「いいえ、実は私も残業していたので、そんなに待ったわけではありませんので」
「残業?」
「はい、少しトラブルがあって。あ、でもこちらは無事に解決しましたので。それよりも補佐は、朝から遠方に行かれていたんですよね。本当にお疲れ様でした」
「移動が長かっただけだけどね。岡野さんもお疲れ様」
補佐の笑顔に、私はどぎまぎと目を伏せた。
「ところで、まだ何も頼んでいなかったの?」
席に着こうとしていた補佐が、驚いたように目を見開いた。
そう言われて私は少し後悔した。補佐がすぐに何かつまめるように、何品か注文しておいた方が良かっただろうか。
「補佐がいらしてから一緒に、と思っていたので……。すみません、気が利かなくて」
「いや、俺こそごめん」
と言いながら、補佐は椅子に座った。
「先に食べててって、言っておけばよかったよね。岡野さんなら、気を遣って待っているだろうってことは予想がついたのに……。気がつかなくて悪かったね」
「いいえ、そんなことは全然。そんなに待ったわけではないですし、一人で先に食べ始めているというのも落ち着きませんから」
「そう言ってもらえると、待たせてしまった罪悪感が多少は薄れるかな」
補佐は苦笑を浮かべながら、私に向き直った。
目の前に座る補佐との距離が思いの外近かったことに、どきどきした。補佐にメニューを見せようとして手が滑り、床に落としてしまう。
「すみません!」
「大丈夫だよ」
補佐は腕を伸ばしてメニューを拾い上げる。
「ありがとうございます……」
もっとスマートに行動できたらいいのに――。
「さて、何にする?今日は俺がご馳走するから遠慮なくどうぞ」
「いえ、そんなわけには……」
「ありがとう、って笑ってもらった方が嬉しいんだけど?」
「はい……では、ありがとうございます」
私はぎこちなく笑みを浮かべて礼を言った。
それを見て補佐は満足そうに笑い、改めてメニューを開く。
「とにかく、早く注文しよう。さすがに腹が減ったよ」
私が持っていた彼のイメージにはなかったその言い方は新鮮だった。
「補佐もそういう風におっしゃったりするんですね」
メニューから目を上げて補佐は私を見た。
「言い方?」
「腹が減った、っていう言い方です。なんていうか、補佐のイメージじゃなかったので」
「イメージ、ねぇ」
そうつぶやいて、補佐は苦笑を浮かべた。
失礼な物言いだったろうかと、私は焦って話題を変えた。
「えぇと、ここは何がおすすめなんでしょうね」
「確か、昔来た時に食べたピザは美味しかったな」
「このお店、ご存知だったんですか」
「うん、まぁね。……あ、いや――」
補佐がはっとしたように口をつぐんだ。
「補佐?」
「何でもないよ」
そう言って補佐は笑って見せたが、私は彼がその先を話すことをやめた理由がひどく気になった。
「ところで、お酒は飲む?」
いつも通りの口調に戻って、補佐はメニューに目を落とす。
私は少し迷ってから言った。
「頂いてもいいでしょうか」
お酒を飲んだところで、今夜は酔えないだろうと思った。けれどまったくの素面状態で、この後に待っている今日最大の課題に立ち向かう自信はなかった。
「何がいい?」
補佐はそう言って、私の方に文字が向くようにメニューをテーブルに置いた。
メニューを見ながらも、私は頭の中で別のことを考えていた。補佐が見せた苦笑の意味と、その先を話さずに口をつぐんだ理由だ。特に彼がこの店を知っていたのがなぜなのかが気になった。
いったい誰と来たんだろうと思う。それが必ずしも女性だったとは限らない。大人数で来たのかもしれないし、男の友人や上司、後輩とだったのかもしれない。しかし補佐の様子から、それは女性だったと思っている。例えば、そう、元カノとか。
その単語が思い浮かんで、遼子さん以前にも補佐が心を許した女性がいたはずだということに今さらながら思い至った。その途端、胸の奥がちくりと痛む。
しかしせっかくの補佐の時間だ。いったんそのことは忘れて、私は適度な量のお酒と美味しい料理を堪能した。
デザートが運ばれて来てから、補佐が思い出したように言い出した。
「この前出張に行ったんだけど」
私は舐めるように飲んでいた白ワインのグラスを置いた。
「確か仙台の方へ行かれたんですよね。取引先でトラブルがあったとかで、補佐が対応のために行かれたと聞いています」
補佐は笑って頷いた。
「一時はどうなることかと思ったけど、なんとか丸く収まったから良かったよ。……それでね」
と、カバンの中から小さな紙袋を取り出して、私の前に置いた。
「これは?」
首を傾げる私に補佐は答えた。
「お土産。たいしたものじゃないんだけどね」
私は驚いて目を瞬かせた。
「こういったものを一人一人に買ってこられたんですか?」
「まさか」
補佐は笑った。
「それは岡野さんに、と思って買ったんだよ」
「えっ……」
私にだけですか?
戸惑う私に補佐は言った。
「お礼だから、気にしないで」
「お礼、ですか?」
「ほら、この前の……」
補佐は気まずそうな顔をした。
「飲みすぎてしまって、岡野さんに迷惑をかけただろう?あの後、まともにお礼をしていなかったなと思ってさ」
「あの時ですか……」
あの後から私の気持ちが揺れ出したことを思い出す。
「ですが、もう謝罪して頂きましたから。あの後も色々と頂いたり、ご飯もご馳走になったりして。もう気になさらないでください」
「それでもさ」
と補佐は私の言葉にかぶせるように言う。
「岡野さんには何かしたいと思ったから」
「ですが……」
私がなかなか手を出さないでいると、補佐は自分の手を私の前に差し出した。
「手、出して」
「え」
「いいから、手」
補佐の口調には有無を言わせぬような響きがあって、私はおずおずと右手を出した。
彼はにっこり笑うと、私の手を取ってその上にお土産の入った袋を乗せた。
「どうぞ」
「あ…」
すぐにお礼の言葉が出てこない。そして、ここの照明が白熱灯でよかったと思った。蛍光灯が煌々と照らす明るい店内だったら、恥ずかしすぎて顔を上げられなかったと思う。補佐の手が触れたせいで、今私の顔は火照っている。
「受け取って」
微笑みながら私を見る補佐の目に、私は負けた。
「……ありがとうございます。開けてみても?」
「もちろん」
私はお皿やグラスをテーブルの端に避けると、注意深く中身を袋から取り出した。
「これは、かんざしですか?」
軸の長いイチョウの葉のような形が美しい細工物だった。葉に当たる部分には、丸い月の下ではねるウサギが描かれている。いかにも日本的なしっとりとした赤色がとても艶やかな小物だ。
思わずため息がこぼれた。
「初めて見ました。きれい……」