想が迎えにきてくれて。
エントランス前に横付けされた彼の車に乗り込んでマンションの敷地を出るまでの間、結葉はずっと『みしょう動物病院』の方をソワソワと気にして気持ちをピンと張り詰めさせていた。
いつ、偉央が逃げようとしている自分を見咎めて追いかけてくるんじゃないかと気が気じゃなかった結葉だ。
だが実際は結葉が見つめる先。
『みしょう動物病院』の駐車場は満車で、駐車スペースが空くのを待っている車も数台いるほどの盛況ぶりだったから。
当然結葉が懸念したように偉央が彼女を追いかけて建物から出て来るようなことはなかった。
想は結葉を気遣ってくれたんだろう。
前回このマンションを訪れたときには山波建設の社用車だったのが、今回は黒のミニバン――ヴォクシーで来てくれていた。
助手席に乗ったら外から丸見えだ、怖い……とソワソワした結葉にいち早く気付いた想が、ドアロックを解除するなりリモコンキーで後部座席のスライドドアを開けて後ろに乗り込めるようにしてくれる。
前部座席とは違って、後ろは窓がプライバシーガラスになっていて、外からは車内が見えにくくなっていたから、それだけでも結葉の心は軽くなった。
それでもやっぱり不安が拭いきれなかった結葉は、想に促されるまま後部シートに乗り込みながら、窓から顔が覗かないよう身体を寝かせるようにして。
そんな自分を見守ってくれている想は、コンシェルジュと同じ制服を着て、夫の勤め先を異常なまでに気にして怯えている結葉に、きっと聞きたいことが山ほどあるはずだ。
だけど何も言わずに運転席に乗り込むと、結葉に「出すぞ」とだけ声を掛けてきた。
いま、想からアレコレ聞かれても、きっと追っ手がくるのではないかとか、そういうことばかりが気になっている結葉には、まともな受け答えなんて出来なかっただろう。
小刻みに震える身体にギュッと力を込めて、両腕に抱えた雪日の入ったトートバッグを抱き寄せた結葉は、そんな想の気遣いに心の底から感謝する。
今はとにかくただただこの場から遠ざかりたい一心の結葉だ。
実際、想がどこへ向けて車を走らせているのかとか、そういうことにすら気持ちが回らないほど、結葉はそればかりに気を取られていた。
***
マンションを出て初めて赤信号に引っかかって。
「結葉、大丈夫か?」
想がルームミラー越しに結葉をチラリと見遣って、初めて質問を投げ掛けてきた。
結葉は座席に横たえていた身体を恐る恐る起こすと、そっと窺うように窓の外に視線を投げて。
リアウィンドウ越しに背後を振り返って、『みしょう動物病院』も住んでいたタワーマンションも見えないと確認してからやっと。
急に息苦しさを覚えて喘ぐように空気を吸い込んだ。
どうやら結葉、無意識に呼吸をすることすら最小限に抑えてひっそりと縮こまっていたらしい。
「結葉、ひょっとして息止めてたのか?」
想が驚いたように目を細めたのが見えて、結葉は恥ずかしさにうつむいた。
「……そんだけお前、追い詰められてたってことだよな……」
だが、ややしてポツンとつぶやかれた想の言葉に、結葉は思わず顔を上げて。
申し訳なさそうに眉根を寄せる想の表情が鏡に映っているのを見てしまった。
「想、ちゃん?」
その顔があまりにも辛そうで、結葉は思わず運転席シートに手を付くようにして見を乗り出して。
途端抱えていたトートバッグが傾いて、中からコトリと音がした。
結葉は慌ててバッグを真っすぐに抱え直すとシートに戻る。
「俺さ、お前の様子がおかしいの、結構前から分かってたんだ。なのにあの雪の日、結局結葉を置いて帰っちまっただろ? あれ、ずっと後悔してた」
「えっ……」
まさか想が自分のことを気にしてそんな風に思ってくれていただなんて思いもしなかった結葉は、想の言葉に息をのんだ。
確かに想はずっと結葉に、「何かあったら頼れ」とか「いつでも連絡してこい」などと言ってくれていた。
あの雪の日にも、偉央に結構際どい牽制を掛けてくれたのを覚えている。
でも、そんな想の優しさを嬉しく思いながらも、想に――いや、きっと想だけじゃなく他の誰にも――偉央との夫婦仲が破綻しているのを気付かれたくなくて、結局幼なじみを頼る選択をしなかったのは結葉自身の責任だ。
(想ちゃんは悪くない)
それだけは確かだ。
結葉がそう言い募ろうと口を開き掛けたら、そこで信号が青になって。
鏡越し、想と絡み合っていた視線が不意に解かれてしまう。
それで、言うタイミングを逃した結葉だ。
でも――。
車の揺れや走行音とは別に、膝の上に載せたトートバッグからカサカサと言う音と、微かな振動が伝わってきて。
結葉はまるで雪日に励まされるように、再度口を開いた。
「あ、あのね、想ちゃん」
結葉の声に想がミラー越しにチラリと視線を送ってくれて。
三白眼で、ともするとキツく見えて怖いと評されまくりの想の視線だったけど、結葉は幼い頃から見慣れたその瞳の奥の光が、実はとても優しいことを知っていたから。
何ら怯むことなく言葉を続けることが出来た。
考えてみればこれ、想より遥かにやわらかな印象を受ける顔つきをしていたはずの偉央には出来なかったことだ。
偉央は結葉が何かを言おうとすると、無言の圧力をかけてくることが多くて。
実際に口に出して言われたことはほとんどなかったはずなのに、『結葉は何も考えずに僕の言うことだけを聞いていればいいんだよ?』と常に言外に含まされているような気持ちにさせられていたのを思い出す。
でも、想にはそれがなかったから。
想は、今みたいに結葉が口を開けば、ちゃんと耳を傾けてくれる。
何か物申してくる時でも、結葉の言いたいことをしっかり聞いた上で、想なりの意見を提案してくれる。
決して「俺に従え」と言う感じの言い方はしない。
偉央とはそこが違うんだ、と確信した結葉だ。
コメント
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想ちゃんが来てくれて良かった〜。 話を聞いてあげてね😊