14
人がこんなに苦しんでいるというのに誰も彼もが自分の気持ちをスルーする。
子供や夫のために家庭を……今ある幸せを壊してはいけないと言う。
じゃあ私は?
私は子供や夫の今ある幸せの為に犠牲にならなきゃいけないの?
どうして誰も私の幸せのことは考えてくれないの?
桃はそう叫びたかった。
痛めつけられた自分が痛めつけてきた相手の幸せを優先しなきゃならないなんて、
どうしてこんな滑稽なことがまかり通るというのだろう。
母に離婚したいと考えている旨はあらかじめ伝えていた。
母はその時は黙って聞いているだけで意見は言わなかった。
それを私は受け入れ、肯定の意味に捉えていたのだがそうではなかったようだ。
私が憤懣やるかたない様子で帰る際、母が側に来て言った。
「桃、しようがないのよ。身体のほうもいろいろと悪いところが出てきてるし、
もう年だもの。
奈々子をあなたのいない間ずっとみるなんてこと今の私には無理なんだって。
悪く思わないでね」
「……」
私は返事をしなかった。
無理なら無理でいいけど皆の前でのあの発言はどうなの? と言いたかった。
実娘の背中をもろ撃ちするような言動がどうしても許せない。
母親の”発言”が私をどこにも逃げ場のない弱い立場に更なる追い込みを
かけたのだ。
もう今更何も話すことはないし、この先もない。
胸の内でそう呟き、私は実家を後にした。
15
◇残酷な日常
苦しみから抜け出し救われると考えていた私の目論見は、周囲四方八方から
無言の圧力で潰えた。
この日を境に私の無限とも思える苦しみの日々がはじまった。
何も悪くないのに何一つ人生の中の大切な選択ができないという衝撃に
自分は打ちのめされた。
浮気され傷ついている自分の主張を誰もかれもが否定し、人の気持ちを
傷付け魂を痛めつけた裏切者は、私以外の人たちから鷹揚に許され、
そのことで私にも許されたと……早々と何事もなかった、自分の犯した浮気
など些細なことだったのだと己に言い聞かせているかのように、
何食わぬ顔で平然と食べ、安眠し、何の後悔も呵責もなさげな風に暮らしている。
そして自分が苦しめておきながら、更にこの先も私を苦しめようと
しているのだ。
夫と恵子の浮気を知る前と同じような毎日が、チクタクと時計の針が進むように
空しく進んでゆく。
夫を送り出し子供の世話に家事そしてまた仕事から帰って来る夫を出迎え、
たまには夫婦生活もいたしたりして。
違ったのは自分の抱えている感情だ。
自分の気持ちだけがどこかに置き去りにされたまま過ごす日々に、感情が
追いついていかない。
今までのように回数あるわけじゃあないけれど、夫婦生活もある。
家族会議のあった日の私の剣幕を聞いていたはずなのに……
その場では意気消沈していたはずなのに……
夫はチャレンジャーだった。私に何度拒絶されてもすり寄って来るのだ。
何度目かの攻防の末、私は疲れ果ててしまい身体を委ねてしまうことになる。
肉体的に弱い立場での攻防はかなり疲弊する。
私は身体を明け渡すことにした。
身体はくれてやる、魂の抜けた身体を……という気持ちで。
15-2
◇妻の桃が更なる苦しみの中にいた頃……。
俊は、たまたま会うことになった親友の近江健吾にだけ、
浮気の顛末を話していた。
「奥さん相当怒っただろ?」
「ショックは受けてた……かな」
「怒らなかったのか?」
「怒ってはいただろうけど、罵ったり喚いたりとかはなかったな。
『どうしてそんなこと』って言ってたな」
娘に汚い手で触ってくれるなと言われたことはあったのだが
それは親友には話したくなかった。
あまりにあの一言は心を抉られるほど手厳しいもので
今も困惑するしかない言葉で……言えない。
「うちなんてすごかったけどな。
泣くわ喚くわで俺ほんとにほとほと困ったんだぜ。
小遣い制にされちまったしな。
あっちの御奉仕も手抜きすると、愛が足りないって文句言われるし。
水野ん家はその辺どうなんだ」
「最初は離婚してほしいって言われたけど、俺の両親も彼女の両親からも
離婚を反対されてさ、その後諦めたのかもう浮気のことは持ち出してこないな。
夜の方は以前とあまり変わらないかな」
「すごいな、お前の淡々とした話振りと言いそれだとお前のやり逃げ、
やり勝ちじゃないか。もし奥さんがお前の言うような反応なんだったら
二択だよ」
「二択って?」
「その一、もうお前を見限ってる」
「その二は?」
「我慢していて、その実は心が壊れてる。
何を言っても、訴えても周りには味方がひとりもおらず一人で耐えてるかも
しれんな。それだといつかどこかで何かの拍子にボンっ」
「何だよ、ボンって」
「破裂するってことだよ」
「そのどちらでもないように見えるけど。
ちゃんと誠心誠意謝ったから許してくれてると思う」
「そんなのでき過ぎ……、後でややこしいことにならないよう、様子見して
ちゃんと精神面で奥さんのフォローしておいたほうがいいと思うぞ」
「あぁ、そこは分かってる。
離婚を許してもらう条件に俺は結婚前からの預貯金全部と、この先の給与は
全部彼女に渡すことに決めてるからな。
次浮気があれば、離婚するということで離婚の用紙も記入したものを
渡してるさ」
「そっか。なんか侘しいな、金で解決したんだ」
「それしかないだろ? 死んで見せるわけにもいかないじゃないか」
「まぁな。だけどさ何かお前も奥さんも俺からすると……っていうか
俺たちのすったもんだ劇に比べると淡々としてんだよな。
俺は渡せる貯金もなかったし、元々給料は奥さんに渡してたからなぁ~。
許してもらう条件にはならなかったけど、お前たち見てると
それでよかったのかなって思うわ」
「今は浮気相手とは会ってないし、こんなもんじゃないのか?
他にできることないじゃないか」
「お前に足りないのは気持ちなんだよな。
奥さんが壊れてないことを祈るわ」
「大丈夫だよ。今は元の仲のよい夫婦に戻ってる」
「そっか。まぁ、いらんこと言ったかな。すまん」
◇ ◇ ◇ ◇
妻が今も納得していないことは自分が一番よぉ~く分かっている。
『仲のよい夫婦』という言葉は、真実というより俊自身の希望が
盛り込まれていてのものだ。そしてまた、親友に対する強がりでもあった。
弱み……弱わっている自分の姿を見せたくなかった。
―――
そんなふうな会話を親友と交わした日から数か月後のこと、全く自分が何も
妻の気持ちに寄り添えていなかったという現実に遭遇することになるのだが、
この時の俊は何も分かってはいなかった。 ―――
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