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「毎週木曜にさ、移動パン屋がうちに配達に来てくれることになったけぇ」
岩国祭の一件がきっかけで、移動パン屋『くるみの木』の木下くるみと知り合った実篤だったが――。
あの日、まだ二十代そこそこと思しき歳の離れたその女の子に一目惚れしてしまっただなんて。
ましてやその子との接点をなくしたくなくて、『クリノ不動産』への定期的な配達を打診しただなんて。
強面で結構図太い神経をしていると自認しているつもりの実篤でも、さすがに恥ずかしくて口が裂けても言えそうになかった。
代わりに、何でもないことのように「祭りン時にさ、縁があってそこのチョココロネ食ってみたら旨かったんっちゃ。じゃけぇ……」と、もっともらしい理由をつけて定期配達を頼んだ旨を社員らに暴露した。
くるみの顔をまじまじと見つめたとき、どこかで会ったことがあるような気がしたのは未だ心の片隅に引っかかってはいる実篤だったけれど、「あんな可愛い子、見知っちょったら今更〝一目惚れ〟なんてせんよなぁ」とも思うのだ。
くるみ自身から自己紹介された時も、彼女の名前の響きさえ記憶の端っこにも引っ掛からなかったし、くるみにしても実篤の名前に何の反応も示さなかった。
だから、「きっと気のせいじゃろ」と思うことにしたのだ。
そもそもそんな事実があったならきっと。
自分ならその時点で今みたいに何らかの手を打って、彼女と関われるようにしていたはずだから。
よく、五つ下の弟八雲や、七つ下の妹鏡花からも言われるのだが、実篤はそういうところ、結構抜け目がない男なのだ。
だからこそ父親から是非に!と請われて、この『クリノ不動産』を一任されたのだと、実篤は思っている。
八雲や鏡花は、父親に言わせると裏表がなさすぎて商売には向かないらしい。
元々父親としては三人のうちの誰かに家業を継いでもらえれば良かったらしいのだが、そのお眼鏡にダントツでかなったのが実篤だった。
子供の頃から実篤は、弟や妹とともに空手を習わされたのだけれど、それも商売をやっていれば色々ある。経営者になるならある程度の腕っ節の強さは必要だからというのが理由だったと後で知った。
家業を継ぐ云々は抜きにしても、結局有段者になるまで続けたのは実篤だけ。
八雲は飄々とした所のある男だったから、闘いには興味が持てない、やるならスイミングがいいとやめてそちらに流れてしまい、鏡花は好きな男の子から守られる女の子になりたいから強くなるのは困る、どうせなら私はピアノを習いたいとやめてピアノを習い始めてしまった。
親の思惑なんてお構いなしに自由奔放な振る舞いをする下ふたりの埋め合わせをするように、実篤は結局親が望むように道を歩んでしまった。
別に不動産業が嫌いだったわけじゃなし。
これと言ってやりたくて堪らないことも、将来なりたくて仕方なかったものもなかったから成り行きで何となく継いでしまった家業だ。
だけど、やってみれば案外楽しかったし、父親が「好きにやれ」と早々に引退してくれたのも、ある意味しんどくはあったけど有り難くもあった。
結局父は母親とふたり、母の生まれ故郷だと言う広島県庄原市の方へ引っ越してしまい、高速で2時間程度と、そこそこ近い所にいる割に年に数回程度しか会わなくなってしまった。
だが、まぁ実篤も三十路を超えたいい大人だ。
そうなったところでそれほど不便は感じていない。
どうしても困ったことがあれば大抵のことは電話で事足りるし、昨今はスマートフォンを介してテレビ電話だって簡単に出来る。
さすがに父から家業を引き継いで五年以上経った今では分からなくて困ることも起こらなくなった。
結果、テレビ電話を使うのは仕事とは関係のない他愛のないことばかりがこの所の主流だ。
先日は捨て子されていたのを拾ったのだと、両親ともに目尻を下げられて、茶トラの仔猫を見せられた。
『大豆って名付けたんよ』
嬉しそうに言う母に、『父さんはきなこ押しだったんじゃけどな』と父が続けて。
決め手は仔猫が雄だったから、「○○ 子ちゃん」を連想させる「きなこ」は却下になったと言うことだった。
(まぁ、きなこの「こ」は「粉」じゃけど)
などと思ったことは言わずにおいた実篤である。
実篤の顔が怖いのは、きっと今画面の向こうで目尻を下げまくっている父親に似たからに違いない。
年齢を重ねて、大分目元に皺が増えて柔らかく見えるようになったとは言え、父親も相当な強面であることに変わりはない。
『良い名前じゃと思ったのにのぉ〜。なぁー、大豆?』
その父が、目を糸のように細めて猫を撫でる姿はなかなかに不気味だった。
もしかすると、くるみを前にした自分も、あんな顔になっているんだろうか、とちょっとだけ不安になった実篤だ。
(今度からくるみちゃんと会う時は気を付けんにゃあいけんな。あんなバカなことも言ってしもぉーたし)
画面越し、猫に頬を擦り寄せる父を見て真剣にそう思って。
「そう言えば、なんで文豪の名前にせんかったん?」
両親は、大学の文芸サークルで知り合ったのがキッカケで結婚した同級生同士だ。
現に実篤を筆頭に、我が子らの名は三人とも名だたる作家たちの名前から取られている。
そんな両親なら、猫にだって夏目漱石の『吾輩は猫である』なんかに託けて、そう言う系の名前を付けたって何ら不思議じゃなかったはずだ。
実篤からの至極もっともな質問に、母親があっけらかんと答えた。