しばらく嵐のような小言(こごと)をもらった葛葉は、自販機で購入した飲料をなかば押しつける形で手打ちに持ち込んだ。
それにしても、試合を見逃しただけで大人げない。
もとい、可愛いところもあるじゃないかと思ったが、これは口に出さずにおく。
「そういや、さっきの」
「あん?」
代わりに適当な話題を見繕い、先方の機嫌を参照しながら言葉を選ぶ。
「さっきの女(ひと)、なんか変じゃなかった?」
「そんなん居んのかよ?」
「はい? と言うと?」
「オメーより変な女」
「なんだとオイ?」
それなりの意趣返しをくれて満足したか。 スポーツドリンクをゴクゴクと流し込んだ虎石は、首をゆるく振って応じた。
「さっき、そこですれ違った女だろ? ありゃただの一般人だよ」
「ん、そっか……」
彼の鼻を疑うわけでは無いが、葛葉としては何かが引っ掛かる。
しかし、それがどういった種類の違和感なのか、当人にも判別がつかない。
胸元に据えたココアのプルタブを、しょうことなしにカチャカチャと弄びながら頭をひねる。
視線をそぞろに窓の向こうへやると、折しもあの女性が見えた。
試合にのぞむべく、グラウンドに姿を現した彼女だが、相変わらずマントを入念に被っており、素顔を知る術(すべ)はない。
繊弱な手指には、赤樫で仕立てられた長寸の槍がひっそりと携えられていた。
途端、満場が割れんばかりに熱狂した。
何事かと思うと、どうやら観客の注目は対戦相手のほうを向いているらしい。
「あれが昨年の優勝者ですか……」
同じく窓際に集(たか)る選手たちの間から、それらしい明言があった。
「相手はまったく運のない」
「真の強者とは運をも味方につけるとか」
室内の水かけ論を聞きながら、目線を正して盤上の様子を見る。
木剣を高々と振りかざし、満場の歓声に応える男性の姿があった。
靭(しな)やかな肉体はよく均整が取れており、体幹にも揺るぎのないものを感じる。
歩く姿をみても隙がなく、相当の腕前なのは確かなようだった。
昨年度の優勝者というのも、何となく頷ける。
「………………」
改めて、これに相対(あいたい)する女性のほうをよくよく吟味する。
歩く姿は何とも茫洋としており、まったく取りとめがない。
まるで穏やかな追い風に肖(あやか)った天雲が、ゆったりと通い路を行くがごとく。
安閑とした歩調は、見ているだけで眠気を催しそうなほどだった。
それは間隙云々を唱える以前に、そもそも荒事を基調にした足運びではないように思えた。
どうにも優雅で繊細な印象は、たとえば舞踊や舞踏の類に用いられるものか。
いや違う。
一見して繊細な、そのじつ薄弱とした足つきは、まるで寄る辺のない心持ちを端的に表しているような。
身も世もない経験をした時、人はあのように振る舞うことがある。
そう、あれはまるで
「あ? どうしたよ?」
「いや……」
何やら恐ろしいものを見せられた気分になって、不本意ながら視線が逸れた。
これを目ざとく指摘する虎石だが、彼は別段 こだわる様子を見せない。
意を決して、競技場の中央付近を見る。
あの女性の様子。 あれはまるで、うら寂しい野道を行く葬列のそれだ。
──運がないのは、いったいどっちよ?
すすり泣きのような鐘の音が、胸の片隅で尾長に後を引いた気がした。
「なぁ虎石っさん……、あの人 本当に」
改めて隣り合いに意見を求めようとした矢先、幸か不幸か背後から声をかけられた。
見ると、今朝がた世話になった役所勤めの若者がおり、相変わらず恐縮した様子でペコリと一礼を加えた。
「非常に申し上げ難いのですが……、天野さま」
「え、私……?」
「えぇ。 先の試合ですね、ああいった内容はあまり……。 あ、虎石さまはお見事でした。 本当に盛況で、はい」
つまるところ、勝つのはいいがもうすこし盛り上がる試合を所望するという事らしい。
役場の遣いであるからには、誰の差金か考えるまでもない。
「ん。 了解!」
心中がにわかに波立ったが、しかし葛葉の返答には屈託がない。
手にした空き缶をキュッと抱(いだ)く仕草まで演じ、愛想よく笑った。
何を考えてやがると半信半疑の虎石は、当の手元に妙な働きを見た。
缶の表面にかるく食い込んだ爪の先端が、丸みに沿ってキリキリと線条を刻んでゆく。
時を経ず、綺麗に上部と底部に別れた空き缶は、それぞれ浮薄な音を鳴らして足元に転がった。
「次はちゃんとやるからさ。 そちらもちゃんと町長に言っといてくださいね?」
「いえいえ! お手柔らかに! えぇ!」
その模様に目を剥いた若者は、逃げるように退室しようとしたが、葛葉はこれを既(すんで)に引き止めた。
「名前……ですか? 例の?」
「そう。 御遣の」
周囲に気を配りつつ、先方は冴えない表情で応じた。
訊くだけ野暮だったか、この様子を見れば答えは自ずと知れる。
何より、そう簡単に尻尾をつかませるような相手とは思えない。
ただ、きちんと質しておかないとすっきりしない事柄がある。
「ユキ、とかだったりしません?」
「いえ、もっと長い名前で」
「あん?」
そこであからさまに“しまった”という顔つきをとった彼は、次いでチラリと上目遣いにこちらの様子を窺った。
そんな目で見られても、聞かなかったことになんて出来るわけがない。
「話してくれますよね?」
圧力を及ぼしたつもりはないが、たじたじと身を引いた若者は、ややあってたっぷりと息をついた。
「……くれぐれも内密にお願いしますよ?」
そう前置きをくれて、彼は少しずつ話し始めた。
何でも、件の御遣の本名ではないかと囁かれる名称があるのだという。
「最初に確認された田舎町の大会なんですがね、ロゼッタ地方の」
「ロゼ……? なにそれ欧米?」
「べつに珍しかねえだろ?今さら何言ってんだ」
虎石の横槍はもっともだった。
土地であったり個人であったり、名称を用いる上で義務づけられた煩雑な規定など、当世には存在しない。
そうした いい加減な世相の表れか、記号に等しい使い捨ての人名が、そこかしこに散らばっている。
ご多分に漏れず、各地のエントリー表を見ても、先方が記した名称はまったくの不定で、毎度ちがうものが使用されていたと。
もっとも、これは足がつかないよう計らった所以(ゆえん)もあるだろうが。
そんな中で唯一、最初の大会に限っては、単なる偽名あるいは使い捨てと断じるには、必要以上に重みのある名前が記載されていたそうな。
「それはどんな?」
「いえ。 それが、あまり縁起の良い名前ではなくってですね。 その、公の記録には……。 私も小耳に挟んだ程度でして」
「根拠ってあるんです? それが偽名じゃないっていう」
至極もっともな質問を投じたところ、若者は途端に面持ちを神妙に取りなした。
と言うよりは、立ちどころに血の気がさっと失せたような顔色だった。
「……呪いって信じますか?」
そんな彼が、間もなく恐々と呟いた言葉を聞いて、葛葉はにわかに眉を顰めた。
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