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無名
27
桜城
#失恋
霞月 つむぎ 🌌🐈⬛🪽
6,118
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霊感が強すぎる友人 坂本 とは、学生時代、同じサークルに所属していた。
当時の私はかなり不真面目な学生で、暇さえあれば部室に入り浸っており、そのまま寝泊まりすることも珍しくなかった。半ば自分の部屋のように使っていたと言ってもいい。
そんな私が、ある夜を境に、一人で部室へ長居しなくなった。
ましてや、泊まることなどなくなった。
これは、そのきっかけになった出来事である。
この先に綴るのは、視世陽木や坂本、その周囲の人間が実際に経験した話だ。
その日も、私は一人で部室に残っていた。
少し前までは後輩数人と小さな飲み会をしていたのだが、翌朝の講義があるからと、みんな帰ってしまった。
さっきまで笑い声で満ちていた部屋が、急に静かになる。
少し寂しさを覚えながら、残された酒をちびちび飲んでいると、外から砂利を踏む音が聞こえてきた。
――ジャリ、ジャリ。
こちらへ近づいてくる。
ほどなくして、磨りガラスのはめ込まれたドアが開いた。
「もうみんな帰ったの?」
入ってきたのは坂本だった。
事前に『後輩たちと飲んでるけど来る?』とメールしていたので、様子を見に来たらしい。
「みんな朝イチで講義があるんだとさ」
「ふーん。俺、明日は全休だけど。お前は?」
「いつもどおり」
「自主休講ってことな」
そんなくだらない話をしながら、坂本は空いている席に腰を下ろし、残っていたビールを当然のように開けた。
その後も二人でだらだらと飲み続け、気がつけば時計は深夜二時を回っていた。
「鍵、閉めとけばよかったな……」
不意に、坂本が呟いた。
それまでと声の調子が違った気がして、顔を見る。
坂本はこちらを見ていなかった。
視線の先にあるのは、部室の入口。
「なんだよ。いつも閉めてないだろ」
人がいる間は、ほとんど鍵をかけない。例外があるとすれば、私が一人で泊まる時、眠る直前に防犯のため施錠する程度だった。
けれど、坂本は返事をしない。
ただ黙って、ドアを見つめている。
薄い磨りガラスのはめ込まれた、ごく普通の内開きのドアで、特におかしいところはない。
「どうした?」
そう尋ねようとした、その時だった。
「来たぞ……」
坂本が低い声で言った。
その言葉に促され、私もドアへ目を向ける。
磨りガラスの向こうに、人影が立っていた。
その時点では、怖いとは思わなかった。
アルバイトを終えた部員か、別の場所で飲んでいた誰かが立ち寄ったのだろう。
深夜に暇を持て余した連中が、何の約束もなく部室へ集まってくることは珍しくない。むしろ、こんな時間に誰が来たのかと、少し楽しみにすら思っていた。
しかし、人影は入ってこなかった。
磨りガラスの向こうに立ったまま、ゆっくりと左右へ揺れている。
右へ。
左へ。
また、右へ。
それは落ち着きなく身体を揺らしているというより、こちらの様子を窺っているようにも見えた。
まるで、自分が見られていることを知っているかのように。
しばらく待っても、ドアは開かない。
「なんだよ……」
痺れを切らし、こちらから見に行こうと腰を浮かせた。
その瞬間。
――ガチャ。
ドアノブが回った。
内開きのドアが、ゆっくりとこちら側へ動き始める。
ほんの少し開き、
さらに少し。
誰かが向こう側から、慎重に押し開けている。
そうとしか見えない動きだった。
やがて、人ひとりが通れるほどの隙間ができる。
その向こうには、
誰もいなかった。
「えっ?」
何が起きたのかわからず、声だけが漏れた。
だが、坂本の反応は早かった。
勢いよく立ち上がると、そのままドアへ駆け寄る。
「チッ、逃げやがった!」
悔しそうに吐き捨て、外を確認したあと、ドアを閉めた。
今度はしっかりと鍵をかける。
「誰だった?」
「視えたか?」
二人の声が重なった。
互いに、相手が何を尋ねたいのかわかっていたのだと思う。
坂本は私の問いに答えなかった。
こちらを振り返りもしない。
仕方なく、先に口を開いた。
「……視えなかった」
「そっか……」
それだけだった。
私は、それ以上聞けなかった。
何となく、わかっていたからだ。
それでも「誰だった?」と尋ねたのは、坂本の口から別の答えが返ってきてほしかったのだと思う。
「誰かのいたずらだった」
気休めでもよかった。
そう言ってくれれば、多少は安心できたかもしれない。
けれど、坂本は何も言わなかった。
その夜のことを、あとになって何度も考えた。
本当に、誰かのいたずらではなかったのか。
部室のドアは内開きだったので、外にいる人間がノブを回し、力加減を調節しながら内側へ押して、その間に走り去る――理屈だけなら、不可能ではない。
けれど、あの時の開き方は、そういうのとは違った。
勢いをつけて押されたドアが、惰性でゆっくり開いているようには見えず、ノブを握った誰かが、その場に立ったまま、部屋の中を覗くように少しずつ開けている――そんな動きだったのだ。
そして、どうしても説明のつかないことがもう一つある。
部室の外は、ドアを出るとすぐ砂利道になっているため、誰かが来れば必ずジャリジャリと音がする。実際、坂本が来た時にも聞こえていた。
なのに、磨りガラスの向こうにあの人影が現れた時――砂利を踏む音は、一度もしなかった。
ドアの前へ近づいてくる足音もなければ、坂本が「逃げやがった」と外へ飛び出した後にも、走り去る音は鳴っていない。
現れる時も、消える時も、アレは何の音も立てなかった。
「酒を飲んで酔っていたせいだ」
そう考えれば、すべて片づけられるのかもしれない。
できることなら、私もそう思いたかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
あのドアがゆっくりと開き、その向こうに誰もいないとわかった瞬間――私の酔いは、完全に醒めていたのだ。
それ以来、一人で部室へ泊まることはなくなった。
コメント
1件
うわ、これ本当に好きだわ……。磨りガラスの向こうの人影ってだけでゾクゾクするのに、「音もなく現れて音もなく消えた」ってところが一番怖かった。坂本くんの反応が早くて「逃げやがった」って言ったシーン、頼もしさと怖さが同時に来て鳥肌立った。酔いが一瞬で覚める感覚、すごく伝わってきた。ここで終わるのがまたいいんだよね……続き読みたい。