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@ きみ以外なんて選ばないよ
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第三話 君のいない世界で、君を探す
列車の窓から見える景色は、どこまで行っても夜だった。
空には月も星もなく、遠くの山並みさえ、黒い紙を切り抜いて貼りつけたように輪郭だけが浮かんでいる。 線路の脇には枯れた草が続き、ときおり、名前も知らない小さな駅が現れては、音もなく後ろへ流れていった。
窓際の席に座り、膝の上に置いた青いマフラーを見つめていた。
あっきぃが、いつも冬になると巻いていたものだった。
寒いと言いながら、首元をぐるぐるに覆って、口元まで隠してしまう。
そうすると声がこもって、何を言っているのかわからなくなるものだから、ぷりっつは何度も「ちゃんと喋れや」と文句を言った。
それでも、あっきぃは笑っていた。
『だって、あったかいんだもん!』
そう言って、ぷりっつのコートの袖を引っ張る。
『ぷーのすけも寒いでしょ!半分こしよ!』
半分こ、と言いながら、実際にはほとんど全部を自分の首に巻きつけてしまうのだ。
ぷりっつが取り返そうとすると、あっきぃは逃げる。
狭い廊下を走り、階段を駆け上がり、最後には笑いながら、ぷりっつの背中に隠れるようにしてマフラーを守る。
そんな、どうしようもなくくだらない記憶。
思い出すたび、胸の奥があたたかくなる。
そして、その直後に、息ができなくなるほど苦しくなる。
「……何してんねん、ほんま」
どうしようもないこの感情と一緒にマフラーを握りしめた。
「勝手にいなくなりやがって」
怒っていた。
ずっと、怒っていた。
あっきぃがいなくなってから、何度もそう思った。何も言わずに消えたことも、謝罪の言葉だけを残していったことも、どこにいるのかさえ教えてくれなかったことも。
全部、許せなかった。
それなのに、今、あっきぃの痕跡をひとつ見つけるたび、泣きそうになる自分がいる。
まだ生きているかもしれない。
まだどこかで、自分と同じように、帰りたいと思っているかもしれない。
そう考えてしまう自分が、どうしようもなく情けなかった。
「……生きとけよ」
誰もいない車内で呟いた。
「頼むから、生きとけや……」
返事はなかった。
列車は、一定の速度で走り続けていた。
やがて、車内の照明が一度、ちらりと明滅した。
天井に取りつけられた古いスピーカーから、かすれた音声が流れる。
『まもなく、忘却駅、忘却駅です』
アナウンスに顔を上げた。
『お降りのお客様は、お忘れもののないよう、お気をつけください』
その言葉に、思わず笑いそうになった。
忘れもの列車で、忘れもののないように。
冗談にしては、あまりにも皮肉だった。
列車がゆっくりと速度を落とす。
窓の外に、古びた駅舎が見えてきた。
高い天井。煤けた壁。天井から吊るされた大きな時計。そして、誰もいないホーム。
立ち上がり、マフラーを首に巻いた。
あっきぃの匂いは、もうほとんど残っていなかった。
それでも、何も持たずに降りることはできなかった。
列車の扉が開く。
冷たい空気が流れ込んできた。
一歩、ホームへ踏み出した。
その瞬間、背後で扉が閉まった。
振り返ると、列車はすでに動き出していた。
窓の向こうに、誰も乗っていない座席が流れていく。
思わず駆け寄った。
「おい、待てや!」
列車は止まらなかった。
「……っ、待てって!」
叫んでも、声は届かない。
最後尾の灯りが霧の中へ消えていく。
そして、静寂が戻った。
しばらくその場に立ち尽くしていた。
帰りの列車があるのかもわからない。
ここがどこなのかもわからない。
あっきぃがどこにいるのかも、まだ何ひとつわかっていない。
それでも。
もう戻れない。
引き返すつもりはなかった。
「……待っとれよ」
駅舎の奥へ向かって歩き始めた。
「絶対、見つけたるからな」
その言葉だけを胸に、誰もいない駅の中へ足を踏み入れた。
*
駅舎の中には、無数の忘れものが置かれていた。
壁際には古い傘が何十本も立てかけられ、ベンチの下には片方だけの靴が並んでいる。
棚の上には、色褪せたぬいぐるみや、割れた眼鏡、錆びた鍵。天井からは、どこかの学校で使われていたらしい名札が、糸で吊るされていた。
どれも、誰かのものだった。
誰かが大切にしていたもの。
誰かが失くして、探して、それでも見つからなかったもの。
何故かは分からないけど棚の1つに目を留めた。
そこには、小さな黄色い傘が置かれていた。
持ち手の部分に、黒いペンで名前が書かれている。
文字は薄れていたが、かろうじて読むことができた。
『ゆうた』
その横に、紙が一枚、貼りつけられていた。
『持ち主、八歳。雨の日に紛失。本人は現在、四十三歳。傘を失くしたことを覚えていない。』
思わず眉を寄せた。
四十三歳。
つまり、三十五年も前の忘れものということになる。
その紙の下には、さらに小さな文字があった。
『持ち主が忘れたものは、時間の経過とともに、世界からその痕跡を失っていく。』
ゆっくりとその文字を読み返した。
世界から、その痕跡を失っていく。
あっきぃを知っていた人々が、彼の顔を思い出せなくなっていたこと。
店の記録には名前が残っているのに、誰も彼の存在を確信できなくなっていたこと。
それらが、1つにつながった気がした。
「……忘れられたら、消えるんか」
声に出した瞬間、背筋が冷たくなった。
もし、そうなら。
あっきぃは、今、どうなっているのだろう。
誰も覚えていない。
誰も探していない。
この世界で、あっきぃのことを覚えているのは、自分だけなのかもしれない。
マフラーを握りしめた。
自分が忘れたら。
自分まで、あっきぃを忘れてしまったら。
そのときこそ、本当に、あっきぃはどこにもいなくなってしまうのではないか。
「……忘れるわけないやろ」
誰に言うでもなく、ぷりっつは呟いた。
「お前のことなんか、忘れるわけないやん……」
その声は、ひどく小さかった。
まるで、自分自身に言い聞かせているようだった。
そのとき。
「お客さん」
背後から、声がした。
勢いよく振り返った。
そこには、1人の老人が立っていた。
灰色の制服に身を包み、古い制帽をかぶっている。手には、小さなランタンを持っていた。
顔には深い皺が刻まれていたが、目だけは、不思議なほど澄んでいた。
「……誰や、あんた」
「駅員でございます」
「駅員?」
「はい。この駅にお越しになるお客様をご案内しております」
老人は丁寧に頭を下げた。
「ようこそ、忘却駅へ」
老人を睨む。
「ここは何なんや」
「忘れられたものが、最後にたどり着く場所でございます」
「……人間もか?」
老人は、少しだけ黙った。
その沈黙だけで、答えを察してしまった。
「……あいつは、どこや」
老人の目が、わずかに揺れた。
「その方のお名前は?」
「……あっきぃや」
まっすぐに老人を見つめた。
「俺の、大切な人や」
口にした瞬間、胸が痛んだ。
大切な人。
そんな言葉で、足りるのだろうか。
親友という言葉では、もう説明できなかった。
家族という言葉でも、違う気がした。
けれど、恋人という言葉を使うには、自分たちは、あまりにも何も伝えられないまま離れてしまった。
好きだった。
ずっと、好きだったのだと思う。
隣で笑う顔を見るたび、明日も一緒にいられることを当たり前だと思うたび、いつかこの気持ちを伝えられたらいいと、心のどこかで願っていた。
でも、いつか、いつかと先延ばしにしているうちに、そのいつかは、永遠に来なくなってしまった。
「……あっきぃは、ここに来たんか」
老人は、ランタンを持ち直した。
「その方のお名前は、この駅の記録にはございません」
「……は?」
「ですが」
老人は、ぷりっつの首元に視線を落とした。
「そのマフラーには、まだ強い記憶が残っております」
ぷりっつは、思わずマフラーを握った。
「記憶……?」
「人が忘れても、物は覚えていることがございます。誰かが大切にした時間も、誰かと過ごした日々も。持ち主がいなくなった後でさえ、物は、その人がいたことを覚えているのです」
老人は、棚の黄色い傘を見た。
「忘れものとは、単に失くしたものではございません。持ち主が、もう一度必要とする日が来るかもしれないもの。それを、ここではお預かりしております」
「……ほな、あっきぃも、返してもらえるんか」
老人は答えなかった。
その沈黙が、何よりも恐ろしかった。
「……おい」
「お客様」
「返してくれや」
声が、震えた。
「俺、あいつのこと探しに来たんや。どこにおるんか教えてくれたら、俺、自分で迎えに行くから」
老人は、じっとぷりっつを見つめていた。
そして、やがて、静かに言った。
「その方は、ご自分の意思で、こちらへ来たわけではないのでしょう」
息が一瞬止まったような気がした。
「……どういう意味や」
「この駅に来る方には、二種類ございます。自ら大切なものを手放し、忘れられることを選ぶ方。そして、誰かを守るために、ご自身が忘れられることを選ばされた方」
ぷりっつの手が、強く握りしめられた。
誰かを守るため。
あっきぃが。
自分に何も言わずに、いなくなった理由。
あの写真に書かれていた、謝罪の言葉。
『約束を守れなくて、ごめんね。』
まさか。
まさか、あいつは。
「……あっきぃは、何をしたんや」
老人は、ランタンを掲げた。
その光の向こうに、駅舎のさらに奥へ続く通路が見えた。
「この駅の地下には、忘れられた約束を保管する場所がございます」
「……約束?」
「はい。人と人が交わした約束。叶わなかった願い。伝えられなかった言葉。そうしたものは、時に、人の記憶よりも長く残るのです」
老人は、ゆっくりと通路へ歩き始めた。
「もし、その方をお探しになるのであれば、まずは、ご自身が覚えていらっしゃる約束を、ひとつずつ確かめていく必要がございます」
疑うことなく迷わず老人の後を追った。
「……全部、覚えとる」
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
「俺、あいつとの約束、全部覚えとるで」
老人は振り返らなかった。
けれど、その背中が、ほんの少しだけ、寂しそうに見えた。
「……そうでございますか」
地下へ続く階段は、どこまでも長かった。
壁には無数の引き出しが並び、それぞれに小さな札がついている。
『十年後に一緒に旅行する約束』
『いつか仲直りする約束』
『大人になったら結婚しようという約束』
『明日、必ず帰るという約束』
そのひとつひとつが、誰かの人生の一部だった。
歩きながら、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。
明日、必ず帰る。
その言葉を信じて、帰りを待ち続けた人がいたのだろう。
いつか仲直りする。
その約束を果たせないまま、別れてしまった人がいたのだろう。
自分にも、ある。
『7年後も、隣にいてね』
あっきぃは、あの日、確かにそう言った。
そして、自分は約束した。
『……約束や』
そう答えた。
なのに。
「……あっきぃ」
足を止めた。
壁に並ぶ引き出しのひとつに、小さな札がついていた。
そこには、見覚えのある文字が書かれていた。
あっきぃの文字だった。
少し丸くて、ところどころ線が跳ねる、あの文字。
『7年後も、隣にいるという約束』
その文字を見て震える手で引き出しを開けた。
中には、何もなかった。
ただ、底に一枚、小さな紙片が置かれていた。
そこに書かれていたのは、短い一文だった。
『約束した人が、僕を忘れないでいてくれますように。』
息を呑んだ。
紙片を握りしめた瞬間、胸の奥で、何かが崩れた。
あっきぃは。
あっきぃは、自分が忘れられることを、知っていたのだ。
自分がいなくなれば、世界から、自分の痕跡が消えていくことを。
それでも、あっきぃは、最後に願ったのだ。
自分のことを、忘れないでいてほしいと。
たった1人でいい。
誰も覚えていなくてもいい。
ぷりっつだけは。
ぷりっつだけには。
「……忘れるわけ、ないやろ」
声が、掠れた。
「……お前、ほんま……」
涙が、紙片に落ちた。
慌てて手の甲で拭った。
泣いている場合ではない。
まだ、何も分っていない。
あっきぃがどこにいるのかも。
どうして、こんなことになったのかも。
何をすれば、あっきぃを連れ戻せるのかも。
それでも、1つだけ、分かったことがあった。
あっきぃは、何も言わずに消えたかったわけではないのだ。
自分を忘れてほしかった訳でもない。
きっと、何かを守るために、どうしようもなく、そうするしかなかったのだ。
紙片を胸ポケットにしい
そして、老人を追いかけた。
「……駅員さん」
「はい」
「俺、絶対にあいつを見つける」
老人は、静かに頷いた。
「……そのお気持ちが、どうか最後まで失われませんように」
地下の通路の先に、ひとつの扉が見えた。
その扉には、他の引き出しとは違う札がついていた。
『忘れられた人々の記録』
扉の前で立ち止まった。
ここに、あっきぃのことが書かれているかもしれない。
あっきぃがどこへ行ったのか。
何をしたのか。
どうして、いなくなってしまったのか。
そのすべてが。
扉に手をかける。
そして、ゆっくりと開いた。
中には、無数の本が並んでいた。
天井まで届く棚。
何百、何千という背表紙。
その中に、一冊だけ、真新しい本が置かれていた。
他の本はすべて古びているのに、その本だけは、まるで今日、誰かが置いたばかりのように、綺麗だった。
表紙には、名前が書かれていた。
『あっきぃ』
その本を手に取った。
表紙を開く。
最初のページには、こう書かれていた。
『この記録は、7年後の十月三十一日に、最後のページが書き加えられる。』
そして、その下に。
『もし、ぷーのすけがこの本を見つけてしまったのなら、どうか、これ以上、僕を探さないでくたわさい』
ページをめくる手を止めた。
そこに書かれていたのは、見慣れた文字だった。
あっきぃの文字だった。
けれど、その文章を読んだ瞬間。
ぷりっつは、初めて、あっきぃを見つけることが怖くなった。
だって。
だって、そこには。
あっきぃが、最後に残した言葉が、書かれていたのだから。
・
『僕がいなくなったのは、ぷーのすけを、忘れたくなかったからです。』
コメント
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第4話、読み終えました……。忘却駅の設定、特に「忘れられたら存在そのものが消えていく」っていうルールがじわじわ来ますね。あっきぃが「ぷーのすけを忘れたくなかったから」消えたっていうラスト、その一文で過去のすべての違和感がつながった気がしました。マフラーとか引き出しの約束とか、小道具の使い方が本当に巧みで、読んでて胸が締め付けられました。ぷりっつの関西弁の語りもキャラの強さと脆さをよく引き出してる。続きが気になりすぎます……!