テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
11,230
#veeronica
ゆ♨️
352
#azure
ゆ♨️
134
白銀の世界に。
重苦しい沈黙が漂っていた。
先ほどまで命懸けのチェイスを繰り広げていたとは思えないほど、静かだった。
マフィオソは右肩を回していた。
ぐる。
ぐるぐる。
ぐるぐるぐる。
「……信じられん」
肩が軽い。
首も軽い。
腰も軽い。
身体中に溜まっていた疲労が、嘘のように消えている。
先ほどチャンスに撃たれたはずなのに。
むしろ絶好調だった。
「俺……今なら三日三晩ぶっ通しでカジノを経営できそうだぞ」
「……」
その隣で。
チャンスは死んでいた。
精神的に。
「ハァ……」
白銀の床を見つめながら、深い溜息を吐く。
「銃を撃っても相手の体調が良くなる」
ポケットへ手を突っ込む。
「命の危険もない」
コツ。
靴音が響く。
「勝ち負けの緊張感もない」
コツ。
もう一歩。
「こんな世界でキラーをやれと言われても……」
チャンスはサングラスを指で押し上げた。
「……何が楽しいんだ?」
答える者はいない。
当然だった。
ここには誰もいない。
ただ、白い。
ひたすら白い。
「……」
チャンスはしばらく黙っていた。
やがて。
ポケットから、一枚の銀貨を取り出した。
チャリン。
銀貨が指先で光る。
「……コイントスでもするか」
「コイントス?」
マフィオソが怪訝そうに眉を寄せた。
チャンスにとって、コイントスは単なる暇潰しではない。
人生そのものだった。
退屈な日常。
つまらない勝負。
刺激のない時間。
そんなものを一瞬で変えてくれる、最も単純で、最も美しい賭け。
表か。
裏か。
たった二つの可能性。
その二択に、自分の運命を委ねる。
そして。
チャンスには、それができた。
なぜなら。
彼には、生涯を共にすると誓った幸運の女神。
「レディラック」がいたからだ。
彼の強運は常識を遥かに超えていた。
表を望めば表。
裏を望めば裏。
偶然すら彼の味方をする。
確率という概念すら、彼の前では意味を失う。
「……」
チャンスは銀貨を親指の上に乗せる。
「表が出たら」
マフィオソを見る。
「君をもう一度撃つ」
「おい」
「裏が出たら」
銀貨を軽く回す。
「俺はここで十分間寝る」
「……随分と差がないか?」
「どっちでもいいよ」
チャンスは淡々と言った。
「どうせ俺の幸運の女神が、俺を見捨てるわけがない」
「……」
マフィオソは微妙な顔をした。
「その自信はどこから来るんだ」
「今まで一度も裏切られたことがないからね」
チャンスは口元を僅かに上げた。
ほんの少しだけ。
久しぶりに。
賭け事らしいものをする。
もしかしたら。
この退屈な世界でも。
ほんの少しくらいは――
「……面白いかもしれない」
親指に力を込める。
ピンッ――!
銀貨が高く舞い上がった。
白銀の光を受けながら、銀貨は美しい回転を描く。
表。
裏。
表。
裏。
クルクルと回りながら、ゆっくりと上昇していく。
チャンスはそれを見上げた。
「……」
マフィオソも見上げる。
そして。
銀貨が。
頂点へ達した。
その瞬間。
ジジジジジジッ!!
世界が歪んだ。
「……え?」
チャンスの表情が固まる。
銀貨の回転軸が。
ありえない角度へ曲がった。
物理法則を完全に無視して。
クイッ。
銀貨が横へ向いた。
「……?」
次の瞬間。
ビュンッ!!
まるで意思を持った弾丸のように。
銀貨がマフィオソへ向かって飛んだ。
「え」
マフィオソが目を見開く。
ゴツン!!
「ぐはァッ!?」
銀貨が。
額のど真ん中に直撃した。
「痛ってぇぇぇぇぇッ!!」
マフィオソがその場でしゃがみ込む。
「な、何すんだ急に!!」
額を押さえる。
「コイントスで人間を狙撃する奴があるかッ!!」
「…………」
チャンスは呆然としていた。
「……今のは」
銀貨を見る。
「俺のせいじゃないだろ」
「お前が投げたんだろうが!!」
「いや」
チャンスは首を傾げた。
「こんな軌道になる予定じゃなかった」
「俺だって予定してねぇよ!!」
銀貨は床へ落ちた。
カラン。
カラン。
カラン。
そして。
ぴたり。
表面が上を向く。
……はずだった。
「…………」
二人が見下ろす。
そこに刻まれていたのは。
「裏」。
「…………」
チャンスが沈黙する。
「……裏」
マフィオソも額を押さえながら呟いた。
「……裏だな」
「…………」
チャンスの顔から、わずかに血の気が引いた。
「おかしい」
「何がだ?」
「計算が狂った」
「コイントスなんだから、表か裏だろ」
「そういう意味じゃない」
チャンスは銀貨を見つめる。
「俺は裏を望んでない」
「じゃあ表だったはずだろ」
「そう」
「なのに裏だった」
「そう」
マフィオソが眉をひそめる。
「……それ、つまり」
チャンスがゆっくり顔を上げる。
「俺の幸運が」
一拍。
「……反転した?」
その瞬間だった。
ブワァァァァッ!!
突然。
何もなかった白銀の世界に。
凄まじい突風が吹き荒れた。
「なっ!?」
チャンスのフェドラ帽が。
「……あ」
浮いた。
「ちょっと」
さらに浮く。
「待て」
帽子が回転する。
「俺の帽子」
ブワンッ!!
吹き飛んだ。
「俺のリミテッド・フェドラァァァァ!!」
チャンスが反射的に手を伸ばす。
だが。
届かない。
帽子は風に乗って高く舞い上がり。
白銀の空間を横切り。
遥か彼方。
空間に走る巨大なシーム。
その向こう側へ。
スゥッ。
消えた。
「…………」
静寂。
チャンスは伸ばした手を、そのまま空中に残していた。
「…………」
ゆっくり下ろす。
「……嘘だろ」
マフィオソが何とも言えない顔で見ている。
チャンスは呆然と呟いた。
「俺のフェドラ……」
数秒。
「限定品だったのに……」
さらに数秒。
「闇市場で死ぬほど競り合って……」
さらに数秒。
「三倍の値段を払って……」
サングラスの奥の目が虚ろになる。
「……幸運の女神は?」
返事はない。
当然だ。
「……レディラック?」
当然、返事はない。
チャンスは一歩踏み出した。
帽子を追おうとした。
その瞬間。
「……?」
ぐきっ。
「え」
足がもつれた。
「うわ」
ドッシャァァァン!!
何もない。
本当に何もない。
障害物も。
段差も。
石ころすらない。
完全に平坦な白銀の床。
そのど真ん中で。
チャンスは盛大に転んだ。
「…………」
マフィオソが目を丸くする。
「…………」
チャンスは床に突っ伏したまま動かない。
「…………」
数秒。
「……今の」
チャンスが呟く。
「床に何かあったか?」
「いや」
マフィオソは答える。
「何もない」
「…………」
チャンスはゆっくり起き上がろうとした。
その拍子に。
チャリン。
チャリン。
チャリンチャリンチャリン。
ポケットから大量のコインが零れ落ちた。
白銀の床に、数十枚のコインが散らばる。
「……」
二人で見下ろす。
一枚。
裏。
二枚。
裏。
三枚。
裏。
四枚。
裏。
五枚。
裏。
「…………」
マフィオソの口が開いた。
「……全部?」
チャンスが呟く。
「全部だ」
一枚残らず。
すべて裏。
見事なまでに。
完璧なまでに。
一切の例外なく。
「……100%、裏」
チャンスは呆然と呟いた。
「帽子は紛失」
床を見る。
「何もない場所で転倒」
コインを見る。
「手持ちのコインは全部裏」
そして。
自分の額に触れる。
「…………」
何か硬いものが当たっている。
どうやら転んだ拍子に、床へ落ちていたコインにまで頭をぶつけていたらしい。
「……コブまでできた」
「お前、どこまで不運なんだ……」
マフィオソが引きつった笑みを浮かべた。
先ほどまで。
マフィオソは、この男を恐れていた。
何をするか分からない危険なギャンブラー。
生死すら賭け金にする狂人。
それがチャンスだった。
しかし。
今、目の前にいるのは。
帽子を飛ばされ。
何もない場所で転び。
自分で投げたコインに額を殴られ。
持っているコインを全部裏にされ。
地面に座り込んでいる男だった。
「…………」
マフィオソはとうとう耐えきれず。
「……ぷっ」
吹き出した。
チャンスが顔を上げる。
「……笑った?」
「いや」
マフィオソは口元を押さえる。
「すまん」
肩が震える。
「だが……」
さらに笑いが込み上げる。
「お前……」
マフィオソは目の前の男を見下ろした。
「世界一の強運を誇っていた男だったよな?」
「…………」
「今じゃ」
マフィオソは周囲を見回す。
「世界一の不運じゃねぇか」
チャンスは答えなかった。
ただ。
床に散らばったコインを見つめる。
一枚。
また一枚。
全部裏。
「…………」
そして。
ほんの少しだけ笑った。
「……ハハ」
自嘲だった。
「すごいな、SWAPSAKEN」
サングラスを直す。
「スリルを奪うだけじゃない」
床から立ち上がる。
「俺の幸運まで奪って」
服についた埃を払う。
「帽子まで奪って」
額のコブを押さえる。
「尊厳まで奪っていくのか」
「…………」
マフィオソは何も言えなかった。
チャンスは遠くを見つめる。
その姿は。
もはや、かつての「幸運のギャンブラー」とは別人だった。
強運。
財産。
スリル。
そして。
誇り。
そのすべてが、SWAPSAKENによって反転させられている。
「……俺」
チャンスは静かに呟いた。
「キラーなんだよな?」
「一応な」
「なのに相手を撃ったら健康になる」
「そうだな」
「コイントスをしたらコインに殴られる」
「そうだな」
「帽子もなくなる」
「そうだな」
「平地で転ぶ」
「…………」
マフィオソは少し考えた。
「それはお前が悪い気もする」
「…………」
チャンスの動きが止まった。
「……マフィオソ」
「なんだ」
「今のはちょっと傷ついた」
「知らん」
白銀の世界に。
妙に現実的な会話だけが響いた。
そして床には。
チャンスの「幸運」だったはずのコインが。
数十枚。
すべて裏向きのまま。
静かに転がっていた。