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第1話:緋色の産声
規則的に刻まれる心電図の電子音と、頼りなく空気を送り出す点滴の滴下音。白く塗り潰された病室には、死の予感だけが静かに澱んでいた。
十二歳のアランは、母の細く、冷たくなった右手を握りしめ、パイプ椅子に深く沈み込んでいた。
窓の外からは、ロンドンの街の喧騒が聞こえてくる。石畳を叩く馬車の蹄の音、新聞売りの少年の叫び、行き交う人々が立てる雑踏。世界はいつも通り残酷なほどに活気に溢れ、この部屋の静寂だけが、時の流れから取り残された絶海の孤島のようだった。
「母さん……」
アランの呟きは、誰に届くこともなく消える。
看護師が無言で部屋に入り、窓際の古びた花瓶の水を替えた。新たに挿された花は、不気味なほどに鮮やかな紅色をしていた。看護師の顔は、逆光でよく見えない。
ふと、外の喧騒が止んだ。
馬車の音も、売り子の声も、風の音さえも。まるで世界そのものが息を止めたかのような、絶対的な静寂。
「……訪れるわ」
不意に、母の唇が動いた。
アランが弾かれたように顔を上げると、母は虚ろな瞳を開き、天井のさらに先、運命の糸を見つめるようにして言葉を漏らした。
「ザ・ウォーヴンが……訪れる……」
それが、彼女の最期の言葉だった。
握りしめていた手から、完全に力が失われる。心電図は無機質なフラット音を響かせ、母は「何か」を待つようにして、永遠の眠りについた。
アランは泣くことすら忘れていた。
ただ、窓の外から漂ってきた「違和感」に目を向けた。
「……なんだ、あれ……」
ロンドンの街を、紅い霧が飲み込もうとしていた。
それは気体というより、意思を持った無数の「繊維」の塊だった。空から降り注ぐその霧に触れた人々は、悲鳴を上げる間もなく倒れ、あるいは肉体を異様な「条線(ストリエーション)」へと変質させていく。
アランは吸い寄せられるように病室を飛び出し、混乱の極致にある街路へと走り出た。
肺に飛び込んできた紅い霧は、針のように気管を突き刺し、喉の奥を焼いた。
「がっ……、は、あ……!」
呼吸ができない。
石畳に膝を突き、のたうち回るアランの視界が歪む。
ふと見た自分の右腕——肘から先が、どろりとした黒金色の筋繊維へと変異を始めていた。人の肌を突き破り、刃のように鋭く、針のように細く、蠢き、編み上がる「怪物」の腕。
意識が薄れゆく中、霧の向こうから重厚な足音が聞こえてきた。それは逃げ惑う人々の足音ではない。統制され、獲物を追い詰めるための冷徹な歩法だ。
現れたのは、異様な姿の集団だった。
分厚い防護服に身を包み、頭部には鈍く光る真鍮製のボルトで固定された、潜水ヘルメットを思わせる重厚なマスク。いくつもの蛇腹状のホースが背負ったタンクへと繋がり、シュウ、シュウと機械的な排気音を漏らしている。
その巨大な複眼のようなガラスレンズが、地面に這いつくばるアランを冷酷に捉えた。地獄絵図と化したロンドンに、そのあまりに機能的な「装備」は、神の代行者というよりは、死を回収する機械の群れのように見えた。
集団が左右に割れ、一人の男が歩み出る。
彼は顔を覆っていた無骨なマスクのロックを外し、プシュリと圧縮空気を逃がしてそれを取り払った。
現れたのは、父、エドワード・ヒューストンだった。
彼は、苦痛に顔を歪める実の息子の姿を、愛おしむでもなく、憐れむでもなく、ただ実験データの推移を見守るような眼差しで見下ろした。
「適合の兆候を確認した。……サンプルを回収しろ」
その冷淡な声音を最後に、アランの意識は深い闇へと沈んでいった。
緋色の霧に包まれた街の悲鳴が、遠ざかる意識の中で、不気味に響き続けていた。
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