その日、娘は朝からなんとなくそわそわしていた。夕方、キッチンで夕飯の支度をしていたママに、ぽつりと話しかける。
「……ママぁ、なんかここ、ぐらぐらす る……」
「ん?どうした?」
振り返ると、娘は下の前歯をちょこんと指さしていた。
ママがしゃがんで覗き込むと、たしかに、ほんの少しだけ歯が動いてる。
「ほんとだ……これはねぇ、歯が抜ける前触れだよ。大人の歯が出てくるんだ〜!」
「えええぇぇえ!?抜けちゃうの!?」
急に涙目になりかける娘に、笑ってぎゅっと抱きしめながら言う。
「大丈夫だよ〜、ちょっとだけ痛いけどね、抜けるのは大きくなってる証拠。成長してるんだよ!」
「……パパに見せたい!」
「そうだね。帰ってきたら、すぐ見せよ?」
夜。玄関のドアが開く音と共に、バタバタっと駆け出していく小さな足音。
「パパーーー!!」
「おー、ただいま!どうしたの?」
リビングに戻ってきたママの目に飛び込んだのは、娘が一生懸命口を開けて、下の歯を見せている姿。
「ここ、ぐらぐらしてるの!抜けるかもしれないの!」
「え!?ほんとに!?……わぁ、すごいじゃん。いよいよ、だねぇ」
しゃがんで娘の顔をのぞきこむ颯斗。
どこか自分ごとのように嬉しそうで、ちょっとだけ寂しそうな、そんな優しい顔。
「ママが言ってたけど、これって大人の歯が出てくるってことなんだって!」
「うん。だからパパよりも立派な歯になっちゃうかもな〜」
「え〜〜!パパより〜!?それはやだ〜!」
「なんでさ。立派な歯、いいことじゃん」
「だってパパの歯がいちばんカッコイイのに〜〜!」
そう言って笑う娘に、颯斗が照れて頭をくしゃくしゃに撫でる。
その様子をキッチンから眺めながら、ママはちょっと胸が熱くなる。
――あぁ、こういう瞬間が、家族だなぁって思うんだよね。
その夜、寝る前。絵本を読み終えたあと、娘がぽつりと聞いた。
「ねぇママ、抜けた歯って、どうすればいいの?」
「日本ではね、上の歯は軒下に、下の歯は屋根の上に投げるんだって〜。そしたら、次に生えてくる歯がまっすぐ育つようにって願いをこめて」
「……屋根の上、むずかしいね……パパに投げてもらう?」
「うん、パパ、頑張って投げてもらおうか?」
「わかった!じゃあ、抜けたらおうちでやる〜!」
「楽しみだねぇ」
そう言いながら、娘の小さな体をトントンと優しく寝かしつけていると、隣では颯斗がニヤニヤしながらママを見ていた。
「……何?」
「いや。なんか、うち子ほんと大きくなったなーって。見てたらちょっと感動してた」
「……ふふ。私もよ」
――そして数日後。
ついに、娘の前歯はぽろりと抜けて。
ママも颯斗も、小さな白い歯を「成長のしるし」だと嬉しそうに見つめて。
歯は大事にティッシュに包んで、家族3人で「せーのっ!」って、ベランダから夜空に向かって高く放り投げた。
ちいさな、でも特別な家族のイベント。
大きくなるって、こんなふうに毎日が愛しい。
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