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身の回りの物を買う気にはなれず、子供たちに会いに行く交通費にでもしようと仕舞っておいた。
収入のない私はクレジットカードも作っていなかったし、このお金があって良かった。
四十五分後の便に搭乗すべく、すぐに手荷物検査を済まし、ようやく一息ついた。
トイレで崩れた化粧を簡単に直し、売店でお茶を買って半分ほどを一気飲みした。
出発口すぐ近くの椅子に座り、閉ざされたゲートが開くのをじっと待つ。
そこでようやく、スマホを確認する気になった。
梨々花から、湊が運ばれた病院が知らされているかもしれない。
だが、入っていたのは匡からの着信とメッセージだった。
そうだ……。
忘れていた。
匡との約束の時間から、既に一時間が過ぎている。
私の身を案じる彼のメッセージがいくつも入っていて、アプリを開くとすべてが既読になった。そして、恐らくそれに気が付いたのであろう匡からの着信に、手の中のスマホが震えだした。
「もしもし」
私は立ち上がって隅に行き、それでも小声で言った。
「ごめんね、匡」
『何があった? 大丈夫なのか!?』
匡の背後では駅のアナウンスが流れている。
ずっと、待ち合わせの場所にいたのだろうか。
「ごめん。私、行けない」
『事故とかじゃないんだよな?』
そう言った匡の声は、心底心配してくれているようで、語尾が強い。
「うん」
『体調が悪いとか?』
「違う」
私の返事に、はぁっと安堵のため息が聞こえる。
こんなに私を心配してくれる彼のことを、今の今まで思い出しもしなかった。
つい一時間ちょっと前まで、会えるのを楽しみにお洒落して、鏡で何度もチェックしてたのに。
着け慣れない、けれど着けたかったイヤリングは、玄関に放り投げてきてしまった。
メイクもボロボロだ。
泣いて目をこすったせいで、アイシャドウも落ちてしまった。
その上、こうして話している今も、搭乗開始のアナウンスを待っている。
『なら――』
「――行けないの」
『都合が悪くなった?』
「もう……会えない」
『千恵?』
私は人目を避けて壁に身体を向け、俯いた。
「子供なんて……持つもんじゃないよ、匡」
『え?』
「赤ん坊はすぐ泣くし、用事のある時に限って体調を崩すし、外食なんて行けないし」
『何言って――』
「――お洒落しても涎で汚されるし、アクセサリーなんて凶器でしかないし」
言っていて、子供たちの幼い頃を思い出していた。
家族で外食しようとしたり、紀之の仕事関係や友人のパーティーに呼ばれている日に限って、熱を出したり吐いたりした。
そんなことが何度か続き、紀之は家族同伴を断るようになり、一人で出席しては帰ってこなくなった。
熱でぐずる子供を腕に抱いて泣いたことが、何度あったか。
『千恵』
「お金はかかるし、一生懸命育てても一人で勝手に大きくなったような顔してさ?」
『何言ってんだよ』
「ひとりで必死に育ててきたの! 浮気されても、女を感じないと笑われても、耐えてきた。なのに、捨てられたの。転校は嫌だとか、貧乏は嫌だとか、そんな理由で子供たちに捨てられたの」
『……』
「それでも、思い出さない日はないの。思い出さない振りをしていても、いつも心配でたまらなかった」
『何かあったのか?』
「私は……母親なの」
自分に言い聞かせるように、言った。
匡の前では『女』になってしまう。『女』でいたいと願ってしまう自分に。
『千恵』
「すごく傷ついたのに、泣いていたら抱きしめたくなる。苦しそうだったら代わってあげたくなる」
すぐそばのカウンターから、上品で落ち着いた女性の声で搭乗開始のアナウンスが流れた。
私は顔を上げ、肩にかけたバッグのショルダーをぐっと握りしめた。
「ごめんね、匡。私にとって一番大事なのは子供たちなの。匡じゃない。匡を一番には愛せない」
『おい、ち――』
「――けどね? 匡は私の最後の男だよ」
『……』
「あ、だからって、私を匡の最後の女にする必要はないよ。ちゃんと、匡にとって唯一の女性を見つけて。匡を、唯一の男にしてくれる女性《ひと》を」
『そんな女、お前しかいねーよ』
「いるよ、ちゃんと」
『お前がいいんだよ』
「ありがとう。バイバイ」
一方的に電話を切り、そのまま匡の番号を着信拒否にした。
そして、ぐっと歯を食いしばって、搭乗のための列に並んだ。