テラーノベル
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このまま寝室にいてもらちが明かない。瑠璃香は下着や服も取り戻さねばならないのだ。
意を決して隣室への引き戸を開けると、湯気と一緒にほろ苦くて香ばしいコーヒーのにおいが瑠璃香の鼻孔をくすぐった。
「とりあえずコーヒーでも飲みながら話さないか?」
逃げてもいいと言ったくせにコーヒーを飲めという。
「あの……課長……、私、それより……」
「……晴永だ、瑠璃香」
「え……?」
いきなり下の名前で呼ばれて、瑠璃香は戸惑った。
確か昨夜、新入社員歓迎会の時までは、彼は自分のことを〝小笹〟と苗字で呼んでいたはず――。
「まさかそれも忘れたのか。……お前が先に言い出したんだぞ? 結婚するんだから下の名前で呼んで欲しいって」
「そ、そんなことっ」
「言ってないって言い切れるのか?」
――結婚しようと言ったことすら覚えてないくせに。
そう言外に付け加えられた気がして、瑠璃香は口ごもる。
「そっ、それにしても、ですっ! 私が新沼課長を下の名前で呼ぶなんてこと――」
あり得ません! と続けようとしたのだが……。
「昨夜ベッドの中ではさんざん愛らしく〝はるにゃがしゃん〟って甘えてきてくれたのに?」
「――っ!」
にやりと笑われて、瑠璃香は言葉に詰まった。
ベッドの中――。それは情事の最中のことに他ならないではないか。
そう思い至った瑠璃香は、ぶわりと頬に熱が昇るのを感じた。
「で、何を言おうとした?」
「……?」
「さっき。俺になんか言いかけただろ」
そこで晴永からじっと見つめられた瑠璃香は、しばし考えてハッとする。
「わ、私の服! どこですか!?」
ノーブラ、ノーパン状態で、悠長にコーヒーなんて飲めるわけがないではないか!
ググッと晴永に詰め寄る形でそう尋ねたら、「そんなに身、乗り出したら見えるぞ?」とにやりと笑われる。
慌てて裾を引っ張った瑠璃香に、晴永が戸棚からコーヒーカップをふたつ取り出しながら告げるのだ。
「とりあえず風呂入ってこい。湯、張ってあるから」
「でも……」
「分からねぇのか? お前の服は、下着も含めて脱衣所にある」
「え……?」
「本当は全部洗っとくつもりだったんだがな」
そう言って、晴永は一瞬だけ言葉を切る。
「……すまん。女性ものの下着は、どう扱えばいいのか、分からなかった」
下手に洗濯機で回したり、乾燥機に掛けたりしてダメになったらいけないからと、手つかずのまま脱衣所に置いてあるらしい。
(あれ? でもちょっと待って? いま課長、女性ものの下着は、って……)
そう瑠璃香が思い至ったと同時、
「服だけは洗っといた」
晴永が意味深な笑みを浮かべる。
「まだ乾いてねぇから、代わりに今着ているのをそのまま着ておけ」
当然のようにそう付け加えられて、瑠璃香は晴永をじっと見つめた。
「……課長」
「晴永」
短く訂正される。
それ以上の言葉はなく、けれどそれだけで今までの呼び方を拒否されているのが分かった。
瑠璃香は吐息を落とすと、腹をくくる。もう、どうせ――記憶にはないけれど――、一線は越えた仲なのだ。今更呼び方だけ取り繕ったって仕方がない。
「……晴永さん、さっき逃げるか? って聞いてきましたけど……実際は私のこと、最初から逃がしてくれる気なんて、なかったですよね?」
下着を取り戻したところで、こんな格好のままでは、外に出られない。
コメント
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ふふふ、策士だな、はるながくん(笑)