「そんな急がなくても、俺は逃げませんよ!!」
風に顔を叩かれながら、カイルの体はふわりと浮きかけていた。ゼフィアに腕を掴まれ、空中を引きずられるように運ばれていく。
森林を抜け、岩を飛び越え、傾斜を駆け上がる。視界は揺れっぱなしで、目からは今にも涙がこぼれそうだ。
「ここだったな。」
ピタリと足を止めたゼフィア。重力が一気に戻り、カイルの体が前へ投げ出されかける。 全身にズシリと重さがのしかかり、膝がわずかに折れた。
「はぁ……はぁ……こんな激しいの、初めてなんですけど。」
膝に手をつきながら、どうにか呼吸を整えていると、ゼフィアが腕を組んだまま目の前に立った。
「おい、あそこを見てみろ。」
彼女の視線が、森の奥へと向けられる。
「え?」
目を凝らすと、茂みの向こうに開けた空間があった。そこには、黒いフードを目深にかぶった十人の人影。
中心に描かれた魔術式を囲み、微動だにせず立ち尽くしている。
そこだけ、空気が凍りついたように静まり返っていた。
「近くに人がいるところではちょっとねぇ。」
こんな可愛い子がこんな趣味とは。人は見た目じゃ分からないもんだね。
カイルが妄想を膨らませながら茂みの奥をじっと見つめていると、肩をトントンと叩かれる。振り向いた瞬間、ゼフィアの顔が、ほとんど触れそうな距離にあった。
目の前の美貌が、真正面から見つめてくる。ほんのわずかに動くだけで、肌が触れ合いそうな距離感。カイルの動きが止まった。
「カイル君」
ゼフィアの手が、そっとカイルの頬に添えられる。そのまま、指先で包み込むように、ゆっくりと滑るように。冷たくも熱くもない、絶妙な温もりが肌に染み込む。
彼女の吐息が近い。かすかに甘い花の香りが、鼻をくすぐる。
「は、はいっ!!」
ごくり。喉が勝手に鳴った。頭の中がふらつくような緊張。背筋から足先まで、ぞわりとした感覚が駆け抜けた。
「もう、私……待てないよ。」
その声が耳元で響いた瞬間、頬に添えられた手から体温が伝わってくる。息が合いすぎて、時間が止まったかのようだった。
「俺もです!」
爆発しそうなほど膨れ上がった衝動を必死に抑えながら、カイルは体を傾ける。全身が熱くて、皮膚の感覚すら麻痺しそうだった。
「もういいかな……」
ゼフィアの口元が、ほんのわずかに開く。吐息が肌を撫でるように流れ込んでくる。その色っぽさに、カイルは耐えきれなくなってキメ顔を作り、低く呟いた。
「喜んで。」
目を閉じ、唇をとがらせる。
俺のハーレム生活が、いまここから始まる。みんな、これまでありがとう。
頭の中では鐘が鳴り、花が舞っている。勝利以外の未来が想像できなかった。
「じゃあ今からお前をあそこに投げるぞ。」
「お願いします。」
投げるだなんて。まったく、この子は遠回しに言うのが好きなんだな。きっと照れ隠しだろう。
両手を広げ、愛の到来を迎える準備は万全だった。
すると、背中にひやりとした違和感が這い上がった。
「ん?」
ぞくりとした感触。カイルは、自分の服の裏を誰かに掴まれていることに気づく。浮き上がるような、重力が抜けていくような感覚がじわじわと背骨を登っていく。
「は? 何してんの?」
あわてて目を開けた。視界に飛び込んできたのは、すぐ目の前のゼフィアの顔。その瞳が、まっすぐこちらを見つめている。
彼女の表情には、ほんの少し悪戯な笑みが浮かんでいた。片頬を、ほんの少しだけ上げて。その目が、カイルの期待をすべて見透かしていた。
「じゃあな」
その声と共に、ゼフィアの腕が軽く振りかぶられる。直後、全身に衝撃が走る。視界が一気に空へと跳ね上がった。
「騙したなああああ!!」
叫び声が空に吸い込まれていく。カイルの身体は見事な弧を描きながら飛翔し、舞い上がる土煙とともに、魔術式の中心へと落ちていった。
「そろそろ撤収したほうがよさそうだ。」
フードを目深にかぶった一人が、魔術式に送り込んでいた魔力を断ち切った。
「そうだな。実験はうまくいったしな。」
「これで、もうすぐ復活させることができるぞ。」
魔術式を消し去ろうとしたとき、何かが転がり込んできた。
「は?」
砂埃の中から、ぐしゃりと地面に沈むようにして一人の男が現れた。全員の動きが止まる。
フードをかぶった男たちは、一瞬で顔色を失った。
「誰だコイツは? ここに生け贄は必要ないんだが」
「間違って連れてこられたのでは?」
ざわつく空気の中で、一人が慎重な足取りで男のほうへと近づいていく。
「気にすることではない。殺せばいい話だ」
手を伸ばし、魔力を集めたその瞬間、転がってきた男、カイルが、森の奥を指さした。
「俺はあなたたちの味方です!! 森の奥にやばい女がいたので、報告しに来たんですよ!!」
フードの男たちがそちらを見ると、木々の隙間に赤髪の女の姿が現れた。胸元に光るバッジ“断天”の文字が目に入り、全員の顔が強張る。
「まさか、ゼフィアか!?」
「チッ。我々の手には負えん。早く逃げるぞ!」
男たちは一斉に四方へ散ろうとしたが炎の壁が、すでに囲い込んでいた。噴き上がる火柱が、猛り狂うように唸り声を上げる。
「逃がすわけないだろ。屑どもが。」
ゼフィアは、足元から肩口まで炎に包まれていた。焔が彼女の髪を赤く照らし、その瞳に揺らめく業火の光が宿る。
フードをかぶった男たちが、無言でうなずき合った。それぞれの手が宙に走り、同時に異なる魔術式を編み上げていく。
光の軌跡が交差し、重なり、やがて一つの巨大な陣形を描き出した。魔力の干渉により、空気が軋むように震える。
詠唱の声が低く、重く、重奏のように重なっていく。
「合成魔法――氷刃乱舞」
咆哮のような音とともに、男たちの前に氷の竜巻が立ち上がった。渦巻く凍気が一瞬で地表を白く染め、風の刃が無数に生まれる。
風の刃が幾千にも分裂しながら唸りを上げ、ゼフィアを飲み込まんと迫った。
「これで時間稼ぎになれば良いんだが……」
だが内心では理解していた。この程度では、焼き尽くされるのは時間の問題だと。
「誰かー!!消化器持ってきてー!!」
やはり賭けに出るしかないようだな……
「暑すぎるんだけど!」
「さっきからうるさいわ!」
飛び込んできたカイルが、炎の壁に囲まれた戦場を目にして立ち尽くした。顔をしかめ、両手で頭を抱える。
「早くあのイカレ女を倒してくれ!! 俺まだ死にたくないんだ!!」
「お前も手伝え!」
なんだこいつは……組織でも見た覚えがないぞ!?
混乱する中、カイルはぐるりと辺りを見回し、大声を上げた。
「フードかぶった人たち! 早くしないと、炎こっちまで来てるんだけど!? なんとかしてよ!!」
「クソが、そんなことは分かっているわ!」
男たちの焦りが限界を超えた頃、ゼフィアは、ただその場に立ち尽くしていた。
燃え盛る炎と凍てついた風の狭間で、彼女は動かない。目前に迫る竜巻を、まっすぐ見据えたまま氷と風の凶流が彼女の身体を貫いた。
炎と氷が激突し、爆音と共に衝撃波が地面を割る。凍気が砕け、爆ぜ、辺り一帯に白濁した水蒸気が充満する。
「今のうちだ!魔術式に再び魔力を込めるぞ!」
地面に描かれた術式へ手を伸ばす。だが、そこにあったはずの魔術式は、原型を留めてていなかった。
「なぜ、こんなことに!?」
頭に浮かぶのは、ついさっき飛び込んできたあの男の姿。
炎の中で意味もなくバタバタと走り回り――
「まさか、あの男のせいか!」
「ゴミカスめ!!」
「そんなこと言ってる場合か!早く逃げるぞ!」
周囲を見渡すと、フードをかぶった者の半分がすでに焼かれ、倒れていた。
絶望が押し寄せる中、炎の向こうから声が飛んでくる。
「早く諦めろ。」
ゼフィアがゆっくりと歩き出す。彼女の周囲に、炎が渦を巻くように立ち上がる。逃げ道を阻むように広がった火の壁が、水蒸気をかき消し、視界を赤く染めていった。
「仕方ない。私が儀式でこの炎を止めるから、その隙に逃げろ!!」
男が叫ぶと同時に、空中で指を高速に走らせ、空間そのものに魔術式を描き始める。
「命を犠牲にするつもりですか!」
「……あぁ。ここで死ぬなら本望だ。」
周囲の魔力がざわめいた。男の身体から溢れ出す魔力が、空中に紋様を刻むたび、赤黒い光が宙を裂いてゆく。
「なら、私も生け贄になります。」
もう一人の男も隣で魔術式を構築しはじめた。術式の骨組みが空中で重なり合い、黒く脈打つ光を帯び始める。
常ならば破綻するはずの過負荷魔力。だが彼らは、己に刻まれた禁術によって、命を媒介に魔力を“生成”していた。
体内から滲み出す命の欠片が、空の紋様に焼きついていく。その密度は周囲の魔力とは比にならず、圧倒的な質量で魔術式を侵食していった。
魔術式の輪郭が赤黒く染まりきった瞬間、空気が震えた。烈火に包まれていた空間が、黒赤の魔力に飲み込まれていく。
周囲の炎が、まるで掻き消されるように音もなく、静かに消滅した。空気中に残されたのは、赤黒く脈打つ魔力の残滓。死の匂いすら漂わせる異質な力。
「合成魔法・血塗られた嵐」
その名を告げると同時に、二人の男の前に禍々しい竜巻が現れる。その渦は赤黒く染まり、まるで血と煙が混ざり合って巻き上がるようだった。
空気が一変し、茂みに立ち込めていた残り火が吸い込まれていく。
竜巻から生み出される刃が炎を喰らうたび、その回転は鋭くなり、骨を砕くような風音が響いた。周囲の地面が押し固められ、茂みの中はすべて吹き飛び、完全に平らな空間へと変貌していく。
術の代償はすぐに現れた。二人の男は、魔力を使い果たした身体ごと、地へと崩れ落ちる。
「あっぶねぇ!!俺も消えるところだったじゃねぇかよ!」
炎の残響を縫うように、軽薄な男の声が背後から響く。
「でもよくやったよ!!早くあの女を倒そうぜ!!」
だが、それに応じる者はいない。二人とも動かない。反応する力さえ、もう残っていなかった。
「あいつはどうでもいいが、もう一人は逃げれたようだな。」
ゼフィアは腕を組み、赤黒い竜巻を無言で見据えている。 そこから生み出される無数の刃は、彼女の目前で一瞬にして塵となった。
「エリーゼにまで被害が及びそうだしな。手加減が全く分からねぇ。」
ゼフィアはゆっくりと手を掲げる。その指先から炎が噴き出し、空中で形を取り始めた。
熱の塊が、空気を振動させながら刃を作り出す。
「これくらいでいいだろ。」
周囲の地面が、熱に耐えきれず溶けていく。 周囲の空気でさえ、燃えはじめていた。
ぜフィアが笑い混じりに声を張り上げた。
「カイル!お前、さっきからふざけたことばっか言ってたな!!」
逃げながら、カイルが叫び返す。
「俺はね、暴力的な女は嫌いなんだよ!!エリーゼをもっと見習え!!」
ゼフィアが不意に吹き出し、そのまま高らかに笑う。
「ハハハッ。そんなことを言われたのは、お前が始めてだぞ。」
「あなた気づいてないと思うけど、性格悪いんだよ!!」
その言葉に応じるように、カイルの足元から炎の壁が立ち上がった。 カイルは悲鳴をあげてその場にしゃがみ込む。
「ごめんなさい!!冗談です!!」
だが、熱気は感じない。炎はただ囲むだけだった。
「これでいいな。」
ゼフィアは剣を構え、前を睨む。 赤黒い竜巻が目前へと迫っていた。唸りを上げる暴風に混ざって、さっきよりも大量の刃がゼフィアの身体めがけて突き進む。
空気が切り裂かれ、周囲の景色が揺れる中、ゼフィアは一歩も退かずに剣を振った。
刹那、天地が割れるような衝撃が走った。
竜巻は瞬時に炎へと飲み込まれた。燃え上がる火柱は森の樹々をはるかに超え、そのまま一直線に横断していく。天を焦がすような熱の奔流が、木々をなぎ払いながら進み、巨大な炎の刃となって森を貫いた。
白光が辺りを包み込む。直後、大地を揺らす轟音が炸裂し、熱と衝撃が空気を押し潰すように広がっていく。
「エリーゼに被害が及んでないと良いんだが。」
カイルを守っていた炎の壁が、ふっと消える。カイルはおそるおそる顔を上げた。
目に映るのは、何もかもが吹き飛ばされた光景。木々も草も焼け落ち、遠くには、かすかにエリーゼと赤い狼の姿が見えた。
「あの子、怖すぎるでしょ。」
驚嘆している中、ゼフィアがカイルの前に降り立つ。
「さっきはすいませんでした!!」
カイルは反射的に地に手をついた。
「もう二度と生意気なことは言いません!!」
俺の土下座でなんとかなって欲しいんだけど……
「許すわけないだろ。」
ふざけるなよこの女!お前のせいで、こっちは酷い目にあったんだぞ!!
「そんなこと言わないでくださいよ!!ニャンパフのポスターあげますから!!」
もちろん渡す気はない。あれは限定300枚の初版ポスターだからな。
「立て。」
「はい!!」
カイルは飛び起き、背筋をピンと張って気をつけをする。
「お前はエリーゼの所へ戻れ。あと、私のことは言うなよ。」
「分かりました!すぐに戻ります!」
「また会うときは気をつけろよ。」
言い終わる前に、ゼフィアの姿は煙のように消えた。
カイルはしばらくその場に立ち尽くし、焼け野原を見回しながら呟く。
「誰がお前なんかと会うかよ。」
「でも可愛すぎるんだよな。」
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