テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
スマホ越しの中太です。太宰の片想い。付き合わない。それでもいいって方だけどうぞ。
窓の外では、退屈な放課後の陽光が校庭の砂埃を白く焼き付けていた。 部活動に励む生徒たちの喧騒も、遠くの教室から漏れ聞こえるブラスバンドの音も、今の太宰治にとっては書き割りの中の雑音でしかない。
太宰は机に頬杖をつき、隣の席で一心不乱にスマートフォンの画面を指で弾いている男――中原中也を眺めていた。 中也の眉間には深い皺が寄っており、その青い瞳は液晶の光を反射して、まるで深い海の底のように揺らめいている。
「中也、そんなに画面を睨みつけていたら、せっかくの顔が台無しだよ。何か面白いものでも見つけたのかい?」
太宰は、いつものように軽薄で、どこか人を食ったような微笑を浮かべて問いかけた。 中也は画面から目を離さず、鼻を鳴らす。
「あぁ? ……別に、いつものネットの知り合いだよ。今、新作の対戦ゲームで競ってんだ」
「へぇ、熱心だね。例の『なお』さんかい?」
「……あぁ。なおはすげぇんだ。俺のプレイスタイルを完璧に理解して、一番欲しいタイミングでサポートを入れてくる。正直、リアルの連中よりよっぽど話が合うぜ」
中也の口角が、ほんの少しだけ上がった。 それは、クラスメイトである太宰には決して向けられない、心からの信頼と親愛が混ざり合った笑みだった。
太宰は胸の奥を、冷たい針でひと突きされたような錯覚を覚えた。 けれど、その表情には微塵も動揺を見せず、さらに深く笑みを深める。
「それは素晴らしいね。中也がそこまで惚れ込むなんて、一体どんな女性なんだろう。きっと、とても賢くて、気遣いのできる、素敵な人なんだろうね」
「あぁ、そうだな。……言葉遣いも丁寧だし、俺の下らねぇ愚痴も黙って聞いてくれる。顔も見たことねぇし、住んでる場所も知らねぇけど。……なんつーか、なおと話してると、自分が自分でいられる気がするんだわ」
中也は照れ隠しのように頭を掻き、再び画面の中に没頭した。 その横顔を、太宰は吸い込まれるような瞳で見つめ続けていた。
太宰は知っている。 『なお』が、どんな女性なのか。 どんな風に指先を動かし、どんな想いで文字を綴り、どんな表情で中也からの返信を待っているのか。
なぜなら、『なお』の正体は、今中也の隣で涼しい顔をして座っている、太宰治本人なのだから。
この歪な関係が始まったのは、半年前のことだった。 同じクラスになり、隣の席になった。 中原中也という人間は、重力のように周囲を惹きつける光を持っていた。真っ直ぐで、短気で、けれど誰よりも情に厚い。 太宰はその光に当てられ、気づいた時にはもう、手遅れなほどに彼に執着していた。
けれど、太宰は理解していた。 中也は「男」としての太宰治を、ただの鼻持ちならないクラスメイト、あるいはせいぜい悪友の一人としか見ていない。 中也の恋愛対象が女性であることも、彼が自分のようなひねくれた人間に「愛」を感じるタイプではないことも、太宰の冷徹な知性が瞬時に弾き出した答えだった。
だから、太宰は嘘をついた。 インターネットという匿名性の海に潜り、『なお』という架空の女性を作り上げた。 中也が好むゲーム、中也が興味を持つトピック、中也が安らぎを感じる言葉遣い。 太宰はその天才的な頭脳を使って、中也にとっての「理想の理解者」を完璧に演じ分けた。
『なおさん、今日もありがとう。お陰で少しスッキリしたよ』
夜、自分の部屋の暗闇の中で、スマートフォンの画面に浮かび上がる中也からのメッセージ。 それを見るたび、太宰は狂おしいほどの悦悦感と、それを何倍も上回る絶望に苛まれた。
中也が求めているのは、太宰治ではない。 太宰が作り上げた、虚像の『なお』なのだ。 中也が画面の向こうに微笑みかける時、その視線の先にいるのは、存在しない透明な幽霊でしかない。
「……なおが、どうかしたのかい?」
太宰は、中也が不意に画面を止めて考え込んだのを見て、声をかけた。
「いや……。今度、なおがオフ会っつーか、一度会ってみねぇか、って言ってきたらどうしようかと思ってよ。……もし、俺が勝手に想像してるような奴じゃなかったら、って思うと、なんか踏ん切りがつかねぇんだわ」
中也の声は、わずかに震えていた。 それは、恋する男の臆病さそのものだった。
太宰は、心臓が凍りつくのを感じた。 自分が送ったわけではない。『なお』として、そんな誘いをした覚えはない。 それはつまり、中也の中で『なお』という存在が、現実を侵食するほどに大きくなっているという証拠だった。
「……会ってみればいいじゃないか。中也なら、どんな相手だって受け入れられるだろう?」
太宰は、自分の声が他人のもののように遠く聞こえた。 嘘だ。会えるわけがない。 もし会ってしまえば、中也の信じている『なお』は、ただの薄汚い男の嘘だったことが暴かれてしまう。 その瞬間、自分たちは「友達」でさえいられなくなるだろう。
「そうだよな。……なおなら、きっと分かってくれるよな」
中也は自分に言い聞かせるように頷き、鞄を掴んで立ち上がった。 「じゃあな、太宰。明日もまたゲームの話、聞いてくれよ」
「あぁ。楽しみにしているよ、中也」
太宰は、去っていく中也の背中を見送った。 夕陽に照らされたその背中は、どこまでも眩しく、そして、今の太宰の手が届く場所にはなかった。
それからの日々、中也の口から語られる『なお』の話は、次第に熱を帯びていった。 昨日どんな話をしたか。なおがどんな風に笑った(絵文字を付けた)か。 中也が幸せそうに語れば語るほど、太宰の内側はドロドロとした黒い感情で埋め尽くされていった。
太宰は、自室に戻るたびにスマートフォンを手に取る。 『なお』としてログインし、中也に返信する。 中也を甘やかし、中也を肯定し、中也に「好きだ」と言わせるために、言葉を尽くす。 その行為は、自らの手で自分の首を絞める自殺行為に他ならなかった。
ある夜、中也から『なお』宛にメッセージが届いた。
『なお。俺、本当は学校に苦手な奴がいるんだ。太宰っていうんだけど。 いつも人を小馬鹿にしてて、何を考えてるか分からねぇ。 でも、たまにアイツと話してると、胸の奥がザワザワするんだよ。 なおと話してる時とは違う、もっと嫌な、イライラする感じ。 アイツのことなんて大嫌いなのに、なんでか放っておけねぇんだ』
太宰は、その画面を見つめたまま、長い間呼吸を止めていた。
嫌われている。 それは分かっていたことだ。 けれど、「嫌い」という強い感情の裏側に、ほんのわずかでも「自分」が中也の中に存在していることを知ってしまった。
もし、自分が最初から素直に中也にぶつかっていたら。 もし、こんな卑怯な手段を使わずに、太宰治として中也の前に立ち続けていたら。 自分たちは、また違う関係になれていたのだろうか。
太宰は、震える指先で返信を打った。
『太宰さんのこと、中也さんは本当は気にかけているんですね。 それも一つの、大切な絆なのかもしれませんよ。 でも、私は……私は、中也さんの隣に、いつもいたいと思っています』
送信ボタンを押した直後、太宰は声を殺して泣いた。 自分の言葉なのに、自分のものではない。 自分の想いなのに、決して中也には届かない。
太宰治が愛しているのは中原中也で、中原中也が愛しているのは『なお』なのだ。 この三角形の頂点は、永遠に交わることはない。
冬が近づき、街が冷たい空気に包まれ始めた頃、中也が唐突に言った。
「太宰。俺、なおに告白しようと思う」
放課後の誰もいない教室。 中也は、決意に満ちた瞳で太宰を見つめていた。
「今夜、通話する約束をしてるんだ。そこで、全部伝える。……なおが男だろうが女だろうが、もう関係ねぇ。俺は、アイツっていう人間そのものが好きなんだ」
太宰の思考が、真っ白に弾けた。 「……男でも、いいのかい?」
「あぁ。最初は女だと思って惹かれたのかもしれねぇけど、今は違う。なおが、なおであればいい。……お前にこんなこと話すのも変だけど、なんか、お前には言っておかなきゃいけねぇ気がしてよ」
中也の言葉は、太宰の心に深く、鋭く突き刺さった。 もし今、ここで「私がなおだ」と言えば。 中也は一瞬、驚き、怒るかもしれない。けれど、その後に「男でもいい」と言った言葉通り、自分を受け入れてくれる可能性が、一パーセントでもあるのではないか。
太宰は唇を開きかけた。 その喉元まで、真実がせり上がっていた。
けれど、太宰は見てしまった。 中也の手に握られたスマートフォン。その待ち受け画面に設定された、どこか遠い風景の断片。 それは、『なお』として太宰が送った、何気ない写真だった。
中也は、この『なお』という幻想を愛しているのだ。 太宰治が作り上げた、優しくて、思慮深くて、中也を傷つけない、完璧な偶像を。
もし今、その正体が自分だと明かせば、中也の愛した『なお』は死ぬ。 そして、残されるのは、親友のふりをして自分を騙し、恋心を弄んでいた、醜悪な太宰治だけだ。
中也をこれ以上、裏切ることはできない。 けれど、太宰治として彼に愛される未来も、もう存在しない。
「……そうか。頑張るといいよ、中也」
太宰は、完璧な微笑みを維持したまま、そう告げた。 その声が、自分でも驚くほど冷たく、乾いていた。
「おう。サンキュな。……結果がどうあれ、明日はお前に報告するわ」
中也は、希望に満ちた足取りで教室を出て行った。 彼を追いかける夕闇が、次第に濃くなっていく。
太宰は一人、暗くなった教室に残された。 机の上に置かれた自分のスマートフォンが、静かに震えた。 中也からの、『なお』宛のメッセージ。
『今夜、話せるのを楽しみにしてる。大切なお願いがあるんだ』
太宰は、そのメッセージを消去した。 そして、『なお』のアカウントの、設定画面を開く。
「……さようなら、中也」
太宰は、震える指で『アカウントを削除する』のボタンを押した。
画面に表示された「本当に削除しますか?」の文字。 その「はい」を選択した瞬間、半年間の嘘と、恋と、絶望が、デジタルなデータの藻屑となって消え去った。
その夜、太宰はスマートフォンを海に投げ捨てた。 冷たい冬の海が、自分の罪もろとも、すべてを飲み込んでくれることを願って。
翌日。 学校に来た中也は、ひどく憔悴していた。
「太宰……。なおの垢、消えてた」
中也は椅子に座るなり、机に伏せった。 その肩は、微かに震えている。
「連絡もつかねぇ。何があったのかも分からねぇ。……俺、何か悪いことしたのかな。……俺が会いたいなんて言ったから、怖がらせちまったのかな」
中也の声は、嗚咽を堪えるようにかすれていた。 太宰は、その背中に手を伸ばしかけて、止めた。 今の自分には、彼を慰める資格さえない。
「……きっと、彼女には彼女の事情があったんだよ。……中也のせいじゃない」
「……分かんねぇよ。……なお、どこに行っちまったんだよ」
中也は顔を上げず、ただひたすらに、存在しない幽霊の不在を嘆いていた。 その悲しみは、太宰が与えたものだ。 愛するために嘘をつき、愛されたくて偽り、最後には保身のためにすべてを破壊した。
太宰は、窓の外を眺めた。 校庭には、昨日と同じように、何も知らない生徒たちの喧騒が溢れている。
太宰治は、これからも中也の隣の席に座り続けるだろう。 「なお」という名前を耳にするたび、胸を切り裂かれるような痛みに耐えながら、何も知らない親友のふりをして、彼を慰め続ける。
それは、彼が選んだ、地獄のような愛の形だった。
中也が時折、ふとした瞬間に太宰を見つめることがある。 その瞳の奥に、かつての『なお』の面影を探すように。 けれど、太宰はその視線に気づかないふりをして、本を捲る。
「太宰、お前……」
「なんだい、中也? おかわりなら、購買まで買いに行ってあげてもいいけれど」
「……いや。……なんでもねぇ。……お前、相変わらずムカつくツラしてんな」
中也は、吐き捨てるようにそう言った。 その言葉の裏に、どれほどの不信感と、やり場のない苛立ちが隠されているか。 太宰はそれをすべて飲み込み、甘んじて受け入れた。
彼らが付き合うことは、もう二度とない。 中也はいつか、本当の、生身の女性と恋に落ち、幸せな家庭を築くだろう。 そして太宰は、その結婚式で、誰よりも晴れやかな顔をして、「おめでとう」と言うのだ。
自分の中にだけ生き続ける、あの『なお』という少女の亡骸を抱きしめたまま。
放課後のチャイムが鳴り響く。 中也は鞄を肩にかけ、無造作に教室を出ていく。 太宰は、その背中をじっと見つめ続けた。
夕陽が、二人の間に長い影を作る。 その影が交わることはあっても、光の下で手が重なることはない。
太宰は、自分の心の中に、小さな墓標を立てた。 そこには名前さえ刻まれていない。 ただ、一人の少年が、もう一人の少年に宛てた、届かなかった恋心だけが眠っている。
(愛しているよ、中也)
心の中で呟いたその言葉は、誰にも聞こえないまま、冬の風にさらわれて消えていった。
数年後。 同窓会で再会した二人は、酒を酌み交わした。 中也は立派な社会人になり、隣には婚約者だという女性が笑っていた。
「太宰、お前も早くいい相手見つけろよ。……あ、お前みたいな性格の悪い奴、誰も相手にしねぇか」
中也が豪快に笑いながら、太宰の肩を叩く。 太宰は、いつものように皮肉な笑みを浮かべて返した。
「失礼だねぇ。私はこう見えて、一途なんだよ。……ずっと昔に、失恋して以来、独り身を通しているのさ」
「はは、冗談言うなよ。お前が失恋? 天変地異でも起きるんじゃねぇか」
中也は、隣の女性の手を愛おしそうに握った。 その光景を見て、太宰の胸の奥で、カサブタが剥がれるような痛みが走った。 けれど、太宰は笑い続けた。
「あぁ、本当だよ。……彼女は、とても素敵な人だった。……私によく似た、ひねくれた、悲しい嘘つきだったけれどね」
中也は一瞬、不思議そうな顔をして太宰を見たが、すぐにまた酒を煽った。 その瞳には、もう、あのネットの海に消えた『なお』の影は残っていなかった。
それでいい。 これでいいのだ。
太宰は、自分のグラスに注がれた琥珀色の液体を見つめた。 そこには、かつての自分が夢見た、ありもしない幸福の残滓が揺れていた。
太宰治の片想いは、誰にも知られることなく、静かに幕を閉じた。 彼が守り通した嘘は、今や彼自身の真実となり、彼を永遠の孤独へと閉じ込める檻となった。
中也が女性と楽しげに談笑する声を背中で聞きながら、太宰は店を出た。 夜風が冷たく、頬を刺す。
空を見上げると、星が、涙のように冷たく光っていた。
(さようなら、私の中の、『なお』)
太宰は夜の街へと消えていった。 その足取りは、どこまでも軽く、そして、死人のように頼りなかった。
二人の軌跡はここで途切れる。 交わることのない二本の線は、それぞれの暗闇へと、ただ真っ直ぐに伸びていく。
中也は二度と、太宰のスマートフォンが海に沈んだ理由を知ることはない。 そして太宰も二度と、中也に「なお」と呼びかけることはない。
世界は残酷なほどに美しく、今日もまた、誰かの嘘で回っている。