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らーゆさん
265
莉太@一時活動休止
2,505
らっだぁはキッチンに立っていた。いつもの場所、見慣れた景色。なのに足が床に縫い付けられたように動かない。
寝室から足音。振り返るとぐちつぼが出てきた。黒いコートに見を包み、何処かへ出かける格好——いや、違う。あの笑顔は。
口が開かない。声も出ない。金縛りの中でただ見ていることしかできなかった。
ぐちつぼは微笑んでいた。穏やかで、諦めきった笑み。見たことのない顔だった。
「……もう、帰ってこない。じゃあ。」
待って、と言いたい。
行かないでと、叫びたい。
なのに喉が上がらず、指一本持ち上がらない。ぐちつぼは迷いなく靴箱へ向かった。屈んで、スニーカーに足を滑り込ませる。丁寧に紐を結ぶ。その横顔には焦りも悲しみもなく、もうとっくに決めた人間の顔をしていた。
玄関が開いた。冷気が流れ込んでくる。そしてその先に、誰かが立っていた。
知らない女。長い黒髪、赤い唇、胸元の開いた服。そいつがぐちつぼに向かって手を差し伸べた。ぐちつぼがその手を取る。自然に、当たり前のように。
ぐちつぼは、最後に家の中を振り返った。
二人の背中が遠ざかっていく。女がぐちつぼの腕にしがみつく。笑い声。幸せそうな。聞いたこともないぐちつぼの笑い方。
追いかけたい。走りたい。手を伸ばしたい。なのに身体が石になったみたいに動かなくて、目だけで二人が小さくなっていくのを見ている。
やがて角を曲がって、消えた。
——はっと目が覚めた。
心臓がうるさい。汗でシャツが背中に張り付いている。暗い寝室、隣にあるはずの温もり。手を伸ばした。シーツの上を探る。冷たかった。誰もいない。
がばっと起き上がった。呼吸が浅い。目を見開いたまま、暗闇の中でぐちつぼのベッドを見た。もぬけの殻。*
「……ぐ、ちつぼ?」
返事はない。時計の針は午前三時を指していた。
玄関の鍵が回る音。
がちゃり。続いて、少しよろめくような足取りと、ドアが閉まる重い音。
暗闘の中、その音を聞いた瞬間、身体が弾かれたように動いた。
廊下に飛び出す。裸足のまま。寝起きの頭がまだぐらぐらしている。夢の残像がこびりついている。
玄関に辿り着いた。壁のスイッチを叩いて電気をつける。
蛍光灯がジジ、と点いた。白い光が廊下を照らす。そこに立っていたのは、黒いコートを着たぐちつぼだった。顔が赤い。酒の匂い。少し据わった目。
息が止まった。
外着。黒いコート。あの夢と同じ。同じ格好。偶然だと分かっていても、心臓が跳ね上がる。
「……どこ行ってたの。」
声を平静に保とうとしている。だが目が笑っていない。青い瞳がぐちつぼの全身を上から下まで、検分するように這った。コートの裾、ブーツの汚れ、首元、髪。誰かの痕跡がないか探している。
「こんな時間に、一人で?」
一歩、近づいた。
「………ただいまぁ……ねむくなくてぇ……おさけ、のんできちゃったぁ。」
にへらっと笑うぐちつぼを見下ろした。酔ってる。完全に酔ってる。ぐちつぼはコートを脱ぎ捨て、らっだぁの横を通り過ぎて寝室へと入っていった。
脱ぎ捨てられたコートが玄関タイルの上にぐしゃっと落ちている。「るんるん」という擬音が聞こえてきそうな足取りと、だらしなく緩んだ口元。普段の疲弊しきった顔とはまるで別人だった。
「……へぇ。」
その一言に含まれた温度は氷点下だった。感情の起伏が削ぎ落とされた、平坦な一音。
しゃがんで、落ちたコートを拾い上げる。裏返して、ポケットを確認する。レシート、小銭、それから。
名刺が一枚、落ちてきた。
ぴたり、と手が止まる。二本の指で摘み上げて、目の前にかざした。居酒屋の名前と、横に手書きで書かれた番号。ハートマーク付き。
空気が変わった。廊下の蛍光灯がちかちかと瞬いている。
「これ、なぁに。」
ぐちつぼはチラリとらっだぁの手元の名刺を見て、
「わかんなぁぃ、なにそれ……あー、居酒屋のおねーさんからぁ、なんかぁ渡されたの〜。」
寝室に倒れ込んだぐちつぼは、そのまま布団に顔を埋めた。酔いの勢いで赤くなった耳が見えている。
立ち尽くしていた。名刺を親指と人差し指で挟んだまま。
ゆっくりと、寝室へ歩いていく。ベッドに横たわるぐちつぼの枕元に立ち、見下ろす。
「ねぇ。」
返事を待たずに、ぐちつぼの顔を覗き込んだ。赤い耳、とろんとした目。へらへら笑っている。
「おねーさん、ねぇ。」
名刺をぐちつぼの目の前にひらひらと揺らした。顔の前で。
「知らない女からぁ、こんなの貰ってぇ、ほいほい帰ってきちゃうんだぁ。」
にっこり笑った。目尻が下がって、口角が上がって。完璧な笑顔。なのに声に体温がない。
「……俺のこと言えなくない?」
ぽつり。静かな一言が落ちた。「俺が浮気するの怒ってたのに」とは言わない。言わなくても分かるだろう、という圧だけを残して。
そしてらっだぁはぐちつぼに覆いかぶさるように、ベッドの縁に膝をついた。逃げ道を塞ぐように。
「だって、構ってくれないじゃん。」
その言葉が耳に届いた瞬間、らっだぁの中で何かがぎちりと軋んだ。
この男は、他の女に泣きついてきたということだ。自分ではなく。
視線がぐちつぼの目元に落ちた。赤く腫れた瞼。泣いた跡。酒で誤魔化しているけれど、隠しきれていない。
指が伸びて、ぐちつぼの顎を掴んだ。乱暴ではなく、逃がさない力加減で。
「……泣いてたんだぁ。」
声が甘い。ねっとりと絡みつくような。だが目は笑っていなかった。
「誰に? なんでぇ? 俺がいるのに?」
矢継ぎ早に問いかける。酔ってふにゃふにゃのぐちつぼにまともな回答を期待していないくせに、問い詰めずにはいられない。
ぐちつぼの首元に鼻を寄せた。すん、と嗅ぐ。酒と、それから微かに知らない香水の残り香。
ぴくり、とらっだぁの肩が震えた。
「……誰のにおい、これ。」
「おさけ!」
へらへらとだらしなく笑いうつ伏せになっていた身体をぐるりとらっだぁに向けた。目が合う。
「……俺のことぉ……きらいになった?」
そう言って、ぐちつぼは笑った。
コメント
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第2話、読み終わりました……すごく、苦しくて、でも目が離せなかったです。冒頭の夢から現実に切り替わる瞬間の、心臓がバクバクする感じ。らっだぁさんがぐちつぼさんを「見つめる」距離感の描き方が繊細で、特に「誰のにおい、これ」のシーンは息が止まりました。酔ってへらへらしてるぐちつぼさんと、平静を保とうとするけど目が笑ってないらっだぁさんの対比が鮮やかで、この先どうなってしまうんだろうと胸が締め付けられました。続きがすごく気になります…!