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篠原愛紀
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「あの人とはもう良いんです。会わなくても」
思い出として割り切っていきたい。
そう思いたい。
「何? ちょっと大人になってる! ちょっとさ、仕事終わったら飲みに行かない? 話聞くよ、聞く。いや、聞かせて」
「飲みにって日高さん、妊娠中……」
「あはは、私はジュースジュース。鹿取ちゃんは堅いからさ、御酒で一回、自分を忘れるぐらい飲んで開放感を覚えるべきよ。行こう行こう」
豪快に笑うと、私の返事も聞かずにスマホで店を探し始めた。
決定事項らしいので、私も夜はご飯要らないと連絡しなくては。
食卓にブリザードが吹くかもしれないけど、私は変わると決めたから。鳥籠から抜け出して、自分で失敗して生きていきたいと。
だから、もう平気だ。
「あ、幹太を巻かないといけないや」
そう言うと、日高さんは盛大な舌打ちをした。
そんな自由奔放な彼女に私も笑う。
仕事も、なんとか覚えたと思ったら先からまた違う仕事の指導が始まる。
日高さんの後の人が決まらないのも納得できるぐらい厳しい。
髪は黒髪だとかアイライン、アイシャドウ禁止とかは接客もするのだから当然かと思うけど、歩き方から指の動かし方一つ、そして電話対応さえも細かいマニュアルがある。
今日はずっと電話対応も練習させられた。
御菓子の説明もなんとか出来ている……といいなと思っている。
実際に働いたことがない私から見てここは大変だと思うだけで、本当はもっとOLさんは厳しいのかもしれない。
「熨斗の御名前、頼めるかしら」
「はい」
日高さんは、歩き方から仕草まで完璧で、お客様が居なくなると素に戻るからギャップが激しいが仕事はしっかり割り切って出来ている。
そんな日高さんは、書道は苦手らしく熨斗は私が担当している。
と言っても私も父が亡くなってからは練習はほぼしていない。
「美麗さんって繊細な字を書くわよね」
小百合さんに、慣らしで使った広告の裏の字を見られそう呟かれた。
「はい。よく父に言われてました。力強さがないと」
細くて弱々しくて、字にまで自信がないのが映し出されているらしい。
「繊細で、儚げな字だけど美しいと思うわよ。桔梗さんなんて、あっちへふらふらこっちへフラフラ、おまけに汚しちゃうし」
「あ、小百合さん酷い!」
暖簾の向こうの調理場で、餡を味見していた日高さんが顔を出した。
「幹太の方が酷いのよ、全部太い。止めも羽も分からないの。太い眉毛みたい」
「うるせーぞ」
二人のやりとりに、小百合さんが着物の袖で口元を押さえて上品に笑う。
私も持っていた御盆で口元を隠すと思わず笑ってしまった。
楽しくて暖かい仕事場だったのは恵まれていたかもしれない。
多少の影口はあれど、あれぐらい慣れているし。
居心地が良くて、不意に泣きたくなるそうな哀愁を感じてしまう。
――夢から覚めても、笑えている。
それだけで私が満足してるのは、単純で浅はかなのかもしれないけど。」
***
「あはは。ねぇ見た? 幹太の怒った顔、最高!」
仕事が終わると同時に休憩室に走って着替えて私が先に裏から出た。
その時には、幹太さんは調理室から出て、腰にまいたエプロンを脱いでいた。
私に気がついた幹太さんは首で外を示して、乗っていけと促されたので私は愛想笑いで誤魔化して言った。
『あの、日高さんが先に帰りますって、表から帰りました』
『っち。あいつ』
そのまま追いつこうと車で飛び出した幹太さんを、日高さんは大きなお腹を抱えて笑い、笑い過ぎてお腹が張ってしまい慌てて近くのカフェに逃げてきた。
けれど目の前の日高さんはホットココアを前にまだ笑っている。
「良かったんですか? 幹太さん」
「いいの。いいの。馬鹿みたいに律儀に私の送迎しちゃってさ、――私は一人でも平気なのに。まぁ、平気じゃないぐらい取り乱してたから幹太に家に入りこまれて、春月屋で働くことになったんだけど」
急に真面目な顔になった日高さんと、私の頼んだアールグレイの紅茶の氷が解けてカランと鳴ったのはほぼ同時だった。
「何で幹太が毎日私を送迎してると思う?」
それは、突然の質問だった。
「以前、幼馴染って言ってませんでした?」
「あはは。正解。あってるね。でも、半分正解かな? 私の旦那と私と幹太の三人が幼馴染で、――新婚ほやほやでアイツが死んじゃったから幹太がアイツの代わりに私を守ろうと必死なの」
さらりと話した中に、思いがけない言葉が入っていて私は固まってしまった。
持っていた紅茶のグラスが、小刻みに震える。何か話しかけなければいけないのに、頭が真っ白になる。
そんな震える手に、日高さんは自分の手を重ねて真っ直ぐに此方を見た。
「ごめんね。こんな話。でも、鹿取ちゃんにも関係ない話ではないの、幹太の事だから」
私に関係ある話? 幹太さんが?
「衝突事故でさ、車なんて跡形もなくって酷い有様だったみたい。私なんて突然すぎて驚いちゃって、アイツが亡くなってから一カ月の記憶が曖昧ってか、すっぽり無くなっちゃってさ。恥ずかしいわ。ちゃんと見送りもせず自分の事ばかり。そんな私を部屋からひきずり出してくれたのが幹太。で、その時に妊娠2カ月だって分かってさ、もう頑張らばねばと私がギャン泣きしたら、――幹太が『俺がいる』って言ってくれたのよ」
手を離した日高さんは、ホットココアをゆっくり飲みだした。
こんなにさらりと話せるようになるまでに、一体どんな葛藤や壁や、泣きたい夜に耐えてきたのだろう。
彼女が美しいのは、内面から浮き出ているからなのかもしれない。
「幹太があまりにも私に義務的に尽くしてくるから、小百合さんに相談したの。幹太の婚期が遅れるから私は仕事辞めますって。反対されちゃったけどね」
ぺロりと舌を出した後、また真剣な顔に戻った。
「その後に、貴方が春月屋に来たのは、きっと偶然じゃないわ。――小百合さんも貴方の母親も、きっと画策してるんだと思う。土曜のイベントに幹太を送迎に使うぐらいね」
「あっと、ちょっと私には意味が分からないです」
画策とか、小百合さんがうちの母親に加担するようには見えないし、そもそも何を画策するのか。
「そこよ。貴方が世間知らずなお嬢様なのを良いことに、周りから攻めてると思うの」
「あの、だから意味が」
「貴方と幹太をくっつけさせようってしてるのよ」