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あれから空色は緊急手術を終え、病室へ戻された。今は麻酔で眠っている。顔色は白く、死んでいるようにも見えて肝が冷えた。
産んだ子供は処置室で預かってくれているらしい。空色の目が覚めたら伝えて欲しいと言われた。
「ご主人、どうか奥様のお傍についていてあげて下さい」
今さら旦那じゃないとは言い出せず、俺は頭を下げて看護師を見送った。
「空色……よく頑張ったな」
そっと彼女の手を取り温もりを確かめた。脈もあるし、手はほんのりと温かい。生きている――それだけでいい。
「辛かったな。もうなにも頑張らなくていいから、ゆっくり休んでくれ」
髪を撫でると愛しさがこみ上げる。胸の奥へ乱雑にしまい込んだだけの恋心は、簡単に顔を出す。もう二度と会えないくらいの遠い所へ行かない限り、この想いを止めることはできないし、彼女を忘れることも不可能や。
触れたくて、触れたくて、堪らなくなる。切なくなる。
彼女が傍にいるだけで俺の世界に色が付く。
音が溢れ、全てを艶やかな色で染め上げる。
どんな言葉を並べてもチープになる。この想いはあふれ出す音でしか表現できない。
地獄を味わった人間だけが到達できるような、不思議な空間にいるみたいや。
今はただ穏やかな時間が過ぎていく。ゆったりとした川の流れのような時間。なににも代えがたい空間。
まるで夢幻のような時間。好きな女の手を握り、温もりを、存在を確かめる。
夢のような時間に身を置くと、次に俺の心は蕩揺(とうよう)を始める。このまま彼女を手に入れて攫ってしまいたいという欲との葛藤と、そんなことは決してできないと、これ以上彼女を傷つけたくないという思い。
波に揺蕩(たゆた)う小舟のように、俺の心は全然定まらへん。想いが揺れ、心が乱れる。
でも、彼女に寄り添えたことを幸せに思う。
俺の中で音が溢れてくる。彼女の涙に代わる形となって、俺の心に泉が湧き、美しい音が紡ぎ出される。まだ目覚めない空色のために、心を込めて歌を歌った。
色づいた曲は、また俺の中でひとつの作品となって残る。彼女を愛した証しとして、俺だけの歌として心に秘めておきたい――どのくらいの時間、彼女の傍にいただろうか。白い部屋が夕日に照らされ始めた頃、握った彼女の手がほんの少し動いた。
「……――律さん! 気が付かれましたか!?」
呼びかけると彼女がゆっくりと目を覚ました。
「あれ……私、どうなって……?」
かすれた声でも話し声を聞くと安堵する。
「たくさんの負荷が母体にかかったのでしょうね。緊急手術が必要になりまして。無事に手術を終えられたあとは……ずっと眠っておられました」
「あの、詩音……は?」
「お子さんの取り上げも無事に終わっています。別室に安置されていますよ」
「そうですか……」
空色は目を伏せた。色々思うこともあるやろう。
俺は黙って見守った。こんな時に言葉は不要や。ただ、寄り添うだけでいいと思う。
「あの……ずっと傍にいてくれたの……ですか?」
「成り行きでしたので……申し訳ありません」
俺みたいな他人に一緒にいて欲しくなかったと思う。でも、緊急事態やったから……。本当は旦那に傍にいて欲しかっただろう。
「新藤さん……ありがとうございます。一人にせず、傍にいてくださって心強かったです」
なのに、俺に向かってそんな風に言ってくれた。
あのな、空色。その言葉で、俺がどれだけ嬉しいかわかるか?
迷惑じゃないかと心配だった俺に、そんな風に声をかけてくれたら、その先を期待してしまうからやめてくれ。
決して越えてはいけない琴線を、踏み越えてしまいそうになる――
「律さんが生きてくれていて、ほんとうによかったです」
俺のせいいっぱいの気持ちを伝えた。このくらいだったら、伝えてもいいだろう。生きていて欲しいと強く願っているのは本当の話。
「なにか欲しいものがあったら言ってくださいね」
お前のためなら、小間使いでもなんでもしてやるから。
「ありがとうございます……」
空色は瞳を閉じた。今、子供のことを思っているのだろうか。旦那のことを思っているのか。
俺は、お前を思っている。
今、俺だけが空色と共有していて、旦那や家族も知らない秘密を知っている。
俺だけが、彼女と同じ空間に立っている。
それだけで優越感に浸れる。家族になれない俺は、こんなことでしかお前を思い、心を満たすことができない。
目を開けた空色と視線がぶつかった。思わずありったけの感情をこめて見つめ返した。
震えるまつ毛に口づけをして、お前に好きだと伝えることが許されるのなら、俺は――