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中太♀。結婚します。子供できます。自己責任。
「ねぇ、中也。見てごらん、この欄。二人で名前を並べると、なんだか不思議な呪文みたいじゃないか」
ヨコハマの海を一望できる、中原中也のマンションのリビング。 窓から差し込む春の陽光は、埃のひとつひとつを宝石のように輝かせ、テーブルの上に広げられた一枚の「婚姻届」を真っ白に照らし出している。
中太♀――中原中也と、かつての相棒であり、今は最愛の恋人である太宰治(♀)は、並んで椅子に座っていた。 22歳になった太宰は、探偵社の仕事にもすっかり馴染み、かつての毒気を含んだ危うさは、愛する男に注がれる穏やかな光へと変わっている。ふわりと波打つ茶色の髪を耳にかけ、彼女は中也の顔を覗き込んで悪戯っぽく笑った。
「呪文じゃねぇよ。……婚姻届だ。間違えて変なこと書くんじゃねぇぞ、太宰」
中也はそう言いながらも、握った万年筆を持つ手がわずかに震えているのを隠せない。 マフィアの幹部として、修羅場なら数え切れないほどくぐり抜けてきた。重力を操り、戦場を蹂躙し、死の淵を歩んできた彼が、たった一枚の紙を前にして、初陣の少年のような緊張感を味わっている。
「ふふ、中也ったら。そんなに震えていたら、私の名前がミミズの這った跡みたいになっちゃうよ? 『中原』の隣に書くんだから、もっと格好良く、凛々しく書いてくれないと」
「わーってるよ! 黙って見てろ」
中也は深呼吸をひとつし、精神を集中させた。 万年筆の先が、純白の紙を捉える。 『中原中也』。 力強く、けれどどこか温かみのある彼の筆致が、戸主の欄を埋めていく。 続いて、その隣。配偶者の欄。 太宰は、中也の手から万年筆を預かると、愛用の万年筆でさらさらと、流れるような美しい文字を添えた。
『中原治』。
「……書いちゃった」
太宰がぽつりと呟く。 その声は、驚くほど澄んでいた。かつての彼女が持っていた「死への渇望」や「虚無」は、今の彼女のどこを探しても見当たらない。 苗字が変わる。たったそれだけのことなのに、自分の魂が中也という強固な重力に、永遠に、そして何よりも幸福に繋ぎ止められたような気がした。
「……あァ。書いちまったな」
中也は完成した婚姻届をじっと見つめ、それから堪えきれないといった風に、口端を大きく吊り上げた。 「おい、治。これでお前は、今日から、いや、役所に出した瞬間から、正真正銘、俺の嫁さんだ」
「嫁さんだなんて、中也は表現が古臭いなぁ」
太宰はケラケラと笑い、中也の首に両腕を回した。 中也は当然のように彼女の腰を抱き寄せ、膝の上に座らせる。 22歳の二人は、今や自分たちが「怪物」であることを忘れたかのように、ただの恋人同士として、互いの体温を分かち合っていた。
「でも、悪くないね。……中原治。うん、響きも完璧だ。さすがは私が見込んだ男だよ、中也」
「俺がお前を見込んだんだよ、自惚れんな」
中也は太宰の額に軽くデコピンをすると、そのまま彼女の頬を両手で包み込んだ。 太宰の白い肌が、中也の体温を吸い取ってほんのりと赤らむ。
「……治」
「なあに、中也」
「俺は、お前を幸せにする。……死にたいなんて、二度と言わせねぇくらいに。お前の退屈も、絶望も、俺が全部ぶっ壊してやる。お前の隣にいるのは、死神じゃねぇ。この中原中也だ」
真っ直ぐすぎる、あまりに熱い告白。 かつての太宰なら「そんなの非科学的だよ」と笑い飛ばしたかもしれない。けれど、今の彼女にとって、それはどんな真理よりも重く、信頼できる言葉だった。
太宰は目を細め、中也の唇に自ら触れた。 「……うん。知ってるよ。……中也は、私の重力だもんね」
二人は何度も、確かめるように唇を重ねた。 部屋の中には、ただ幸せな時間だけが流れている。 かつて「双黒」と呼ばれ、ヨコハマの裏社会を震え上がらせた二人が、今では婚姻届の「保証人」を誰に頼むかで、まるで子供のように盛り上がっていた。
「保証人、やっぱり首領にするのか? 殺されるぞ、俺」
「いいじゃないか、あの人なら喜んで祝辞という名の嫌がらせを延々と言ってくれるよ。……それとも、うちの社長に頼もうか? 多分、君を見て、無言で刀に手をかけると思うけれど」
「どっちも地獄じゃねぇか! もっと普通に安吾とかにいかねぇのかよ」
「安吾は今頃、胃薬を飲みながら書類の山に埋もれているよ。私たちの結婚報告なんて聞いたら、それこそ過労で倒れちゃう」
「ははは! 違いねぇ!」
二人の笑い声が、春の風に乗って開け放たれた窓から外へと流れていく。 満たされていた。 これ以上ないほどに。 二人を繋いでいるのは、依存でもなく、義務でもなく、ただ純粋に「相手が、相手であればいい」という、究極の相思相愛。
太宰は、中也の胸板に耳を当て、その規則正しい鼓動を聞いた。 「……ねぇ、中也。お昼は何を食べようか? 今日はお祝いだから、君の好きな高いワインも開けちゃおう」
「おぅ。お前の好きな蟹も山ほど用意してやるよ。……あぁ、でも待て。婚姻届を出してからにするか、それとも食べてから行くか……」
「先に出しちゃおうよ。早く『中原治』になりたいんだ」
太宰が、甘えるように中也のシャツを掴んで上目遣いに見つめる。 中也は一瞬、言葉を失って顔を赤くし、それから豪快に笑って彼女を抱き上げた。
「よし、決まりだ! 今すぐ行くぞ! 準備しろ、治!」
「わわっ、お姫様抱っこなんて、中也は本当にヒーロー気取りだねぇ!」
「うるせぇ、主役なんだからいいだろ!」
幸せの絶頂にいる二人に、迷いなどない。 中也は太宰を抱えたまま玄関へと向かい、太宰はその腕の中で、世界で一番幸せな女の顔をして笑っていた。
ヨコハマの空は、どこまでも高く、青い。 二人の未来を祝うかのように、海鳥の鳴き声が遠くで響いた。 これから先、どんな困難があろうとも、どんな敵が現れようとも、この二人が手を繋いでいる限り、世界はどこまでも美しく、輝き続けるだろう。
「中也、大好きだよ!」
「……あァ。俺もだ、クソッタレなほどにな!」
最高の笑顔で、二人は新しい人生の扉を蹴り開けた。 22歳。二人の「心中」ではない、「生」の物語が、今ここから始まったのだ。
妊娠
ヨコハマの海を臨むマンション。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、柔らかな寝室を白く染めている。 中原中也は、隣で眠る妻——治の穏やかな寝顔をじっと見つめていた。かつての鋭すぎる知性は影を潜め、今の彼女は春の陽だまりのような、柔らかい幸福感に包まれている。
中也は布団の中で、そっと手を伸ばした。 太宰の薄いパジャマの上から、少しだけふっくらとし始めたお腹に、壊れ物を扱うような手つきで掌を当てる。
「……おはよう、チビ。今日も元気か」
まだ胎動を感じるには早い時期だ。それでも、その手のひらからは、確かに中也と太宰の血を継いだ、力強い生命の予動が伝わってくるような気がした。
「……ん、中也……。朝から、熱心だね……」
微かな声と共に、太宰がゆっくりと瞳を開けた。眠たげな、けれど蕩けるように甘い瞳が中也を捉える。彼女は中也の掌の上に、自分の手を重ねた。
「ふふ、そんなに心配しなくても、この子はどこにも行かないよ。私と違って、きっと君に似た、頑固で元気な子になるだろうからね」
「……お前に似たっていいんだぜ。ただし、死にたがりなところ以外はな」
中也はそう言って、太宰の額に優しく口づけを落とした。 太宰はくすぐったそうに笑い、中也の胸に顔を埋める。かつて「死」こそが唯一の救いだと思っていた彼女にとって、自分の腹の中に「生」が宿っているという事実は、今でも時折、魔法のように信じがたい。
「ねぇ、中也。私、最近思うんだ。この子が生まれたら、ヨコハマの街が今までとは違って見えるんだろうなって。……守るべきものが、もう一つ増えてしまったよ」
「……あァ。俺が全部守ってやる。お前も、そのチビもな。ポートマフィアも探偵社も関係ねぇ。俺の家族に手出しする奴がいたら、重力で宇宙の果てまで叩き落としてやるよ」
力強い、けれど慈愛に満ちた中也の言葉に、太宰は心底幸せそうに目を細めた。 二人が歩んできた道は、決して綺麗なものばかりではなかった。血に汚れ、闇を這い、互いに傷つけ合った夜もあった。けれど、そのすべてが、この穏やかな朝に繋がっていたのだと、今の太宰には確信できる。
「中也。……もし、男の子だったら、君に似た格好いい帽子を買ってあげようか」
「はは! 気が早いな。女の子だったら、お前に似た綺麗なリボンでも探すか」
「女の子だったら、君はきっと過保護すぎて、娘が年頃になった時に泣くことになるよ? 『パパなんて嫌いだ』って言われたら、君の重力、暴走しちゃうんじゃないかな」
「おい、縁起でもねぇこと言ってんじゃねぇ!」
二人の明るい笑い声が、静かな寝室に響き渡る。 太宰は中也の腕の中で、幸せを噛みしめるように深く息を吐いた。 かつて彼女を縛っていた包帯は、今ではほとんど必要なくなっている。心に空いていた底なしの穴は、中也という男の情熱と、これから生まれてくる新しい命の光で、完璧に埋め尽くされていた。
「……ありがとう、中也。私を見つけてくれて。私を、お母さんにしてくれて」
「……礼を言うのは俺の方だ、治。お前が俺の隣にいてくれるだけで、俺の人生は、これ以上ないほど満たされてる」
中也は太宰をそっと抱きしめ、二人の間に宿った小さくて尊い命に、誓うように目を閉じた。 窓の外では、ヨコハマの青い海が今日もキラキラと輝いている。 絶望を使い果たした二人の前には、もう、どこまでも続く幸福な未来しか残されていない。
「愛してるよ、治。お前も、チビも」
「私もだよ、中也。……さあ、朝ごはんを食べようか。今日はお腹の子が、君の作ったオムレツを食べたいって言っているよ」
「はは、そいつは命令か? よし、特製のを焼いてやるから待ってろ!」
中也は意気揚々とベッドから這い出し、太宰はその背中を、世界で一番幸せな妻の笑顔で見送った。 二十二歳の終わり、あるいは二十三歳の始まり。 二人の「心中」ではない、「命」の物語は、新しい家族と共に、より鮮やかに色づいていく。
出産
ヨコハマの夜が明ける直前、群青色の空が白み始めた頃だった。 病院の分娩室の廊下で、中原中也は人生で最も長い数時間を過ごしていた。 幾多の死線を越え、数多の異能者と戦ってきた彼だったが、今この瞬間ほど、己の無力さを痛感したことはない。重力で世界を捻じ伏せることはできても、今、奥の部屋で命懸けの戦いをしている最愛の妻——治の痛みを取り除いてやることはできないのだから。
「……っ、……ぁあああ!!」
扉越しに聞こえる治の、今までに聞いたこともないような叫び。 中也は壁に拳を押し当て、祈るように目を閉じた。 (治、頑張れ。……頼む、無事でいてくれ)
どれほどの時間が過ぎたのか。 突然、室内の喧騒が止まり、一瞬の静寂が訪れた。 そして――。
「……ぎゃあ、……っ、あぁ、……あぁあぁ!!」
張り詰めた空気を切り裂くような、力強い産声が響き渡った。 中也の心臓が、ドクンと大きく跳ねる。 直後、看護師に促されて中也が部屋へ入ると、そこには、汗と涙で髪を貼りつかせ、精根尽き果てた様子で横たわる治の姿があった。
「……中也、……見て。……私たちの、……赤ちゃん、だよ」
治の腕の中には、真っ赤な顔をして泣いている、小さな、けれど驚くほど温かな命の塊があった。 中也は膝を突くようにしてベッドの側に寄り、震える手でその小さな手首に触れた。
「……あァ。……頑張ったな、治。……凄げぇよ。お前、本当に……」
言葉が続かない。中也の瞳からは、自分でも驚くほど大粒の涙が溢れ、治の手の上にこぼれ落ちた。 治は弱々しく、けれどこの上なく誇らしげに微笑み、中也の涙を指で拭った。
「泣かないでおくれよ、パパ。……この子、君にそっくりだ。……とっても元気な、……男の子だよ」
赤ん坊が、中也の指をぎゅっと握り返した。 その小さな、けれど確かな力強さに、中也は胸が締め付けられるような熱さを覚えた。かつて自分たちは、破壊し、奪うことでしか己の存在を証明できなかった。けれど今、二人の手の中にあるのは、純粋な「創造」の結果だった。
「……ようこそ。……俺たちのところに、生まれてきてくれて……ありがとうな」
中也は赤ん坊の額に、それから治の額に、深い愛を込めて口づけを落とした。 治は中也の首に腕を回し、幸せの重みを噛み締めるように目を閉じる。
「中也。……私、生きてて良かった。……この子に、世界がこんなに綺麗だってことを、これからたくさん教えてあげなくちゃ」
「あァ。……全部見せてやろうぜ。お前と、俺と、このチビと……三人でな」
窓の外では、ヨコハマの海から太陽が昇り始めていた。 新しい光が、家族三人を等しく照らし出す。 かつて心中を望んだ太宰治は、もういない。 ここにいるのは、最愛の夫を愛し、新しい命を守るために強く生きることを決意した、一人の母親だった。
「……ねぇ、中也。名前、……考えてあるんだろう?」
「……あァ。『治』と『中也』から一文字ずつ貰ってな……。……これから一生、こいつを誇りに思えるような、最高の名前をよ」
二人は微笑み合い、小さな命の鼓動を感じながら、新しい世界の夜明けを見つめていた。 二十三歳の朝。 二人の、そして新しい家族の、眩いばかりの物語が、今ここから新しく書き記されていく。
子育て
「こら、またパパの帽子を隠したな? それはパパの大事な仕事道具だって言ってるだろ」
中原家のリビングに、中也のよく通る声が響く。かつてヨコハマの裏社会を震え上がらせた「重力使い」は今、二歳になる愛息を追いかけて、キッチンとソファの間を右往左往していた。
その子は、中也譲りの赤茶色の髪を跳ねさせ、太宰によく似た形の良い瞳をキラキラと輝かせながら、中也の黒い帽子を両手で大事そうに抱えてトコトコと逃げ回っている。
「パパ、おそーい! かちー!」
「あァ!? 待て、この……! 異能を使って捕まえるぞ!」
「ふふ、中也。二歳の子供相手に異能を使うなんて、ポートマフィアの幹部が聞いて呆れるよ」
ソファでその様子を眺めていた治は、読みかけの本を閉じると、くすくすと肩を揺らして笑った。彼女の髪は育児のために少し短く切り揃えられ、以前よりも柔らかな、慈愛に満ちた表情をしている。
「治、お前も笑ってねぇで助けろよ! こいつ、最近お前に似て知恵が回るようになってきやがって……」
中也は苦笑しながら、ようやく幼い身体をひょいと抱き上げた。子は「きゃはは!」と声を上げて笑い、中也の首にぎゅっと抱きつく。その小さな指先が中也の頬をぺたぺたと触るたび、中也の表情はみるみるうちに形無しになっていった。
その光景を見て、治の胸の奥がじんわりと熱くなる。かつて、彼女の世界には「絶望」か「虚無」しかなかった。死に場所を探して彷徨っていた日々。けれど今、目の前にあるのは、自分の血を分け合った小さな命と、その子を愛おしそうに見つめる、世界で一番信頼できる夫の姿。
「中也、降ろしてあげて。そろそろお昼ごはんにしよう。今日はこの子の好物の、カニのグラタンだよ」
「カニ! カニたべるー!」
「よし、じゃあ手ぇ洗ってこい。パパが手伝ってやるよ」
中也は子を洗面所へと連れて行き、親子で並んで手を洗っている。鏡越しに映る二人の姿は、驚くほど似ていた。中也のぶっきらぼうだけれど深い優しさが、確実に次世代へと受け継がれている。
テーブルに並べられた料理を囲み、三人で手を合わせる。 「「「いただきます」」」
「……あ、中也。またピーマンを自分の皿に避けてあげようとしただろう。ダメだよ、パパが甘やかしては。好き嫌いはお互い様なんだから」
「……っ、バレたか。いや、こいつが嫌そうな顔したからよ……」
「ダメ。君がちゃんとお手本を見せないと」
治に嗜められ、中也は観念したように苦い顔で野菜を口に運ぶ。それを見た子は「パパ、すごーい!」と拍手を送り、負けじと自分の小さなスプーンを動かした。
昼食を終え、陽の当たるカーペットの上で親子が川の字になって昼寝を始める。中也の腕を枕にし、その胸の上に小さな頭を預けて眠る子の寝顔は、天使そのものだった。
太宰はそっと二人の側に寄り、その穏やかな寝息に耳を澄ませる。 中也の無骨な手が、無意識に子の背中を優しく叩いている。一定のリズム。それはかつて太宰が独りきりの夜に切望した、安らぎの鼓動そのものだった。
(……ねぇ、中也。私、この子に、世界がこんなに綺麗だってことを、毎日教えてあげたいんだ)
太宰は中也の空いている方の手をそっと握りしめた。中也は眠ったまま、その手を力強く握り返してくる。
「……あァ、わかってるよ……」
寝言のように呟いた中也の言葉に、太宰は幸せそうに目を細めた。 絶望を使い果たし、愛に呪われることを選んだ二人が辿り着いた、最高に「普通」で、最高に贅沢な休日。
窓の外では、春の風に揺れるヨコハマの街が、今日も優しく家族を包み込んでいた。
「……ただいま」
玄関のドアが開く音が、以前よりも少しだけ重くなった。 かつて中也の帽子を奪って走り回っていた子供は、今や太宰の背を追い越しそうなほどに成長している。中也譲りの赤茶色の髪は少し長めに伸ばされ、太宰によく似た理知的な瞳には、年齢相応の尖った光が宿っていた。
リビングでは、二十代の頃と驚くほど変わらない美貌を保った治が、優雅に紅茶を啜っている。
「おかえり。今日は随分と遅かったじゃないか。……おやおや、その服の汚れ。またどこかの野良犬と喧嘩でもしてきたのかい?」
「……別に。放っておいてよ、母さん」
子は治の鋭い視線を避けるように、足早に自室へ向かおうとする。しかし、その肩を、背後から伸びてきた無骨な手ががっしりと掴んだ。
「おい。母さんの問いかけに『別に』はねぇだろ、あァ?」
帰宅していた中也だ。仕事帰りの彼は、マフィアの幹部としての威圧感を隠そうともせず、我が子の目を見据える。
「……父さん。……別に、大したことじゃないよ。絡んできた奴らを、少し黙らせただけだ」
「『黙らせた』、ね。……お前、また異能を使ったのか」
中也の問いに、子は沈黙で返した。 彼には、父の強力な重力操作と、母の冷徹な知性が高い水準で受け継がれている。その強すぎる力は、多感な時期の少年にはあまりに制御し難く、同時に周囲との「壁」を高く築かせていた。
「……あんたたちみたいに、上手くやれるわけないだろ。俺は、あんたたちじゃないんだ」
振り払うようにして、子が二階へ駆け上がる。 バタン、という乱暴なドアの閉まる音が、静かなリビングに響いた。
中也は溜息をつき、被っていた帽子をテーブルに置いた。 「……ったく、誰に似たんだ。あの頑固さは俺か、それともお前の理屈っぽさか」
「両方だろうね、中也。……でも、困ったな。あの子は今、自分の持っている『力』が、自分自身の価値なのか、それとも私たちが与えた遺産なのか、その狭間で溺れているんだよ」
治は皮肉げに、けれどその瞳には隠しきれない慈愛を浮かべて、階段の方を見上げた。かつて自分が「生」に絶望した年齢に、息子が近づいている。そのことが、彼女の胸をわずかに締め付けていた。
「……中也。あの子を、少し甘やかしてあげたらどうだい? 君の得意な『力ずくの説得』ではなくて、もっと……そう、一人の男としてさ」
「……言われなくても分かってらぁ」
その日の深夜。 子が自室のベランダでヨコハマの夜景を眺めていると、音もなく隣に人影が降り立った。重力を操る父、中也だ。
「……父さん」
「夜風に当たりすぎるなよ。……ほら、これでも食え」
中也が差し出したのは、コンビニの袋に入った安っぽい肉まんと、温かいコーラだった。幹部が買うにはあまりに不釣り合いな夜食に、子は思わず拍子抜けしたような顔をする。
「……あんたたちの息子でいるのは、時々、息が詰まるよ」
「だろうな。……俺も、お前の母親に捕まった時は、世界で一番厄介な重力に捕まったと思ったぜ」
中也は隣に並び、街の灯りを見つめた。 「いいか。お前は俺じゃねぇし、治でもねぇ。お前の力は、誰かのために使う必要もねぇ。……ただ、お前自身が『これでいい』と思える道だけ選べ。……もし転びそうになったら、俺とお前の母親が、世界を敵に回してでも受け止めてやる」
無骨で、けれど絶対的な肯定。 子は肉まんを頬張り、熱さに目を細めた。 「……母さんには内緒だよ。また『教育に悪い』とか言って笑われるから」
「ふん。……あいつのことだ、どうせどこかで盗み聞きしてやがるさ」
その言葉通り、リビングの窓際で二人の影を眺めていた治は、満足げに微笑んで紅茶を飲み干した。
かつて心中を望んだ二人の物語は、今や一つの「命」が迷い、悩み、そして羽ばたこうとする姿を見守る物語へと変わっていた。 重力よりも重く、死よりも深い愛に守られて、新しい世代は今日も、この美しいヨコハマの街で呼吸をしている。
教会の控室には、心地よい緊張感と、どこか鼻の奥がツンとするような花の香りが漂っていた。
「……おい、治。お前、さっきから鏡ばっかり見てんじゃねぇよ」
中也は慣れないタキシードの襟を正しながら、隣に座る妻に声をかけた。22歳で婚姻届を書いたあの日から、もう二十数年。治の美しさは、歳月を重ねるごとに知性と落ち着きを増し、今や一国の女王のような気品を湛えている。
「失礼だね、中也。今日はあの子の晴れ舞台なんだ。母親がみすぼらしい格好をしていたら、あの子が恥をかいてしまうじゃないか」
「……誰が見たって、お前が世界で一番綺麗だよ。……ったく」
中也はぶっきらぼうに吐き捨てて、視線を窓の外に投げた。その耳たぶが、昔と変わらず赤くなっているのを、治は見逃さなかった。彼女はふふ、と喉を鳴らして笑い、中也の腕にそっと手を添える。
「中也。……あの子、本当に素敵な人を見つけたね。あんなに幸せそうな顔、初めて見たよ」
「あァ。……俺たちの息子にしちゃ、出来すぎだ。重力も知略も受け継いだくせに、最後には俺たちに似ねぇ『真っ当な幸せ』を掴み取りやがった」
中也の声は、少しだけ震えていた。 かつて自分たちが歩んできた、血と硝煙にまみれた道。あの子にも同じ影が差さないよう、二人は必死に光の差す場所へと導いてきた。その旅が、今日、一つの大きな区切りを迎えようとしている。
コンコン、と扉がノックされる。 「……父さん、母さん。準備できたよ」
扉を開けて現れたのは、真っ白な婚礼衣装に身を包んだ、二人の愛息子だった。 中也譲りの精悍な顔立ちに、治譲りの柔らかな微笑。その瞳には、かつての二人が持っていたような「孤独」や「飢え」は一切ない。ただ、愛する人を守り抜くという、静かで強い決意だけが宿っている。
「……あァ。行こうぜ」
中也は立ち上がり、格好つけるように愛用の帽子を指先で弾いた。 治は息子の腕に優しく触れ、その耳元で小さく囁いた。
「おめでとう。……世界で一番、幸せになりなさい。……私たちみたいにね」
バージンロードを歩く息子の背中を、二人は最後列の席から見守った。 誓いの言葉を交わし、指輪を交換する。その光景は、かつて二人が「死」という出口を求めて彷徨っていた頃には、夢に見ることさえ叶わなかった奇跡だった。
「……治」
中也が隣で、そっと太宰の手を握りしめた。 その掌は、あの日と変わらず熱く、力強い。太宰はその熱に寄り添うように、中也の肩に頭を乗せた。
「なんだい、中也」
「俺たち、間違ってなかったよな。……お前を無理やり生かして、隣に縛り付けて……。こんな景色を見られて、本当に良かった」
「……当たり前じゃないか。私の計算に狂いはないよ。君という重力に捕まった時から、私の結末は、この幸福の中にしかなかったんだ」
式が終わり、教会の外では青空の下、フラワーシャワーが舞っていた。 新しい人生へと踏み出していく息子夫婦の背中を見送りながら、二人はいつまでも手を繋いでいた。
やがて、二人はどちらからともなく、ヨコハマの海が見える丘へと歩き出す。 家族三人の賑やかな時間は終わり、また今日から、二十二歳のあの日と同じ、二人きりの生活が始まる。
「さぁて、中也。帰ったら、久しぶりに二人でとっておきのワインでも開けようか」
「あァ。お前の好きな蟹も山ほど買ってある。……これからはまた、たっぷり俺に付き合ってもらうぜ、治」
「望むところだよ。……死が二人を分かつまで、ね?」
「……いや、死んだって離さねぇよ。お前は一生、俺の重力圏内だ」
二人は笑い合い、夕暮れに染まる街へと消えていく。 かつて絶望の淵で出会った二人の物語は、愛という名の永遠を継承し、これからも穏やかに、どこまでも続いていく。
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ヨコハマの海を見下ろす、かつて二人で選んだマンションのリビングには、穏やかな午後の陽光が差し込んでいた。
「……ふふ。聞こえるかい、中也。賑やかな報せが届いたよ」
中原治は、窓際の安楽椅子に腰を下ろし、サイドテーブルに置かれた一枚の写真立てに、細い指先でそっと触れた。写真は数年前、任務帰りに撮られたものだ。今より少し若く、不敵な笑みを浮かべて彼女の肩を抱き寄せている中原中也の姿。
今の治は五十代半ば。その瞳には、永い年月を愛されてきた者だけが持つ、深く静かな慈愛が湛えられている。かつて死を望んで彷徨っていた少女の面影は、今やこの街で最も美しく、凛とした「中原中也の妻」としての佇まいに昇華されていた。
手元のスマートフォンには、さきほど息子から届いたばかりの通知が表示されている。添付されていたのは、産院のベッドで小さな命を抱く、幸せそうな若夫婦の写真だ。
「見てごらん。君にそっくりな、元気な女の子だ。……君の孫だよ、中也」
治は写真を手に取り、陽光に透かすようにして愛おしげに見つめた。 「あの子ったら、あんなに格好つけて家を出たくせに、自分の子が生まれた瞬間、君と同じくらい情けなく泣いたんですって。……やっぱり、私の血よりも君の血の方が、ずっと熱くて濃かったみたいだね」
治はくすくすと喉を鳴らして笑い、少しだけ潤んだ瞳を細めた。中也が往ってから、彼女が一人で過ごす時間は増えた。けれど、不思議と孤独を感じたことは一度もない。常に隣には、目には見えないけれど絶対的な「中原中也」という名の重力が、彼女を抱きしめ続けているからだ。
「……ねぇ、中也。私はあの日、君の重力に捕まって、本当に正解だったよ」
彼女はゆっくりと立ち上がり、クローゼットの奥から、今も大切に手入れされている「黒い帽子」を取り出した。指先でその革の感触を確かめると、男の体温さえ、まだそこにあるような気がした。
「寂しくないと言えば嘘になるけれど。……でもね、私は今、とっても幸せなんだ。私の体の中にも、あの子の中にも、そして今日生まれた新しい命の中にも、君の生きた証が脈動しているから」
治は、写真の中の夫を見つめ、慈しむように微笑んだ。中也が最期に遺したのは、「お前は、俺に愛されて生きろ」という、最高に身勝手で愛おしい、呪いのような願いだった。
「……もう少しだけ、待っていておくれ。この子が笑うのを、歩くのを、もう少しだけこの目で見届けてから……君にたっぷりと土産話を聞かせてあげたいからね」
治は写真にそっと唇を寄せ、琥珀色に染まり始めた空を見上げた。かつて心中を夢見た少女は、今、愛する人の名前を背負い、最高の幸福に包まれながら、また新しい一日を紡ぎ始める。
二人の愛は、形を変え、命を繋ぎ、このヨコハマの空の下で永遠に響き続けている。
かつて自分を地上へ繋ぎ止めるために、最愛の彼女の代わりに「汚濁」を使い切り独り逝った、その男の背中を想いながら。
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