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雨の匂いと、湿ったコートの匂い そして、微かに香る金木犀の香り それが、僕の毎朝の通勤風景
午前6時15分発、駅行きの市営バス 後ろから二番目の二人掛けシートの窓際そこが彼女の「指定席」だ 僕はその斜め後ろ、通路側の席に座る
ここからだと、彼女の白い首筋と、窓ガラスに映る横顔が一番よく見えるからだ
彼女の名前も知らない
職業も知らない
ただ、彼女がいつも文庫本を読んでいること、雨の日には少し憂鬱そうな顔をすること
そして僕と同じように
この街で一人ぼっちのような空気を纏っていることだけは知っていた
昭二
バスが揺れ、ふと顔を上げた彼女と、窓ガラス越しに目が合った
心臓が早鐘を打つ、彼女はすぐに視線を逸らしたが、その頬が微かに紅潮しているように見えた
昭二
そんな自惚れにも似た淡い期待が、僕の孤独な生活を支える唯一の光だった
話しかけたい
昭二
昭二
喉元まで出かかった言葉は、バスのアナウンスにかき消されてしまう、今の関係を壊すのが怖かった、ただの乗客同士という、細くても確かな繋がりが切れてしまう気がしたのだ
そうして、三年という月日が流れた
バスを降りた停留所のそばで、彼女が立ち止まっていた
木漏れ日が彼女の髪をキラキラと照らしている、彼女は僕が来るのを待っていたかのように振り返り、少し躊躇いながらも口を開いた
美咲
彼女は恥ずかしそうに、けれど真っ直ぐに僕を見ていた
美咲
僕の喉から、何かが解き放たれるような音がした
昭二
そこからの日々は、まるで色のない映画に突然色彩がついたようだった
僕たちは毎朝バスで隣に座り、小さな声で語り合った
彼女の名前は美咲といった、近くの事務職で働いていること、都会の喧騒が苦手なこと、そして僕と同じように、ずっと誰かが自分を見つけてくれるのを待っていたこと
美咲
休日のカフェで、彼女は僕の手を握りしめた
美咲
美咲
昭二
昭二
僕の孤独は消え去った 彼女の笑顔、温もり、交わす言葉のすべてが、僕の空っぽだった心を埋め尽くしていく
あの日、バスで声をかけられていなければ、こんな幸せは一生訪れなかっただろう
そして、運命の夜
僕は彼女へのプロポーズを決意し、彼女がいつも降りるバス停の近くで待っていた
サプライズだ、驚くだろうか、いや、きっと泣いて喜んでくれるはずだ
バスが到着し、彼女が降りてくる
月明かりの下
僕は笑顔で彼女に歩み寄った
昭二
名前を呼ぶ
彼女が顔を上げる
その瞳に僕が映る
その瞬間、彼女の表情が凍りついた
美咲
短い悲鳴と共に、彼女はカバンを胸に抱きかかえ、大きく後ずさった
まるで幽霊でも見たかのような反応だ 僕は苦笑して、手を伸ばす
昭二
昭二
美咲
夜の街に、彼女の絶叫が響き渡った
彼女はガタガタと震えながら、必死に逃げようとするが、足がもつれてその場にへたり込んでしまった
昭二
僕がさらに近づこうとした
その時だった
健哉
向かいの歩道から、スーツ姿のサラリーマン風の男が駆け寄ってきた
男は僕と彼女の間に割って入ると、怯える彼女を背に庇うように立った
健哉
男の鋭い視線が僕を射抜く
僕は溜息をついた
せっかくの二人の時間が邪魔された
昭二
昭二
健哉
男は訝しげに眉を寄せ、後ろの彼女を振り返った
健哉
美咲
彼女は涙を流しながら、悲鳴に近い声で訴えた。
美咲
男の表情が一変した
健哉
昭二
昭二
昭二
健哉
男は僕から目を離さずに、ポケットからスマホを取り出した
健哉
健哉
昭二
僕は男に詰め寄ろうとしたが、男の屈強な腕に制止された
健哉
男が「110」をプッシュする指が見える
彼女は男の背中の後ろで、震えながら僕を睨みつけている
その目は、愛する人を見る目ではなかった
汚物を見るような、底知れぬ恐怖と嫌悪の目
昭二
五月の晴れた日
あの日の記憶が、音を立てて崩れていく
あの日、彼女はバス停で立ち止まった
そして振り返り、僕に向かって言ったのだ
美咲
美咲
そうだ
彼女は確かにそう言った
でも、その時の彼女は頬を赤らめていた
声も震えていた
だから僕はこう翻訳したのだ
美咲
………と
そうか
あれは恥じらいじゃなくて、恐怖だったのか
会話なんて、一度も成立していなかったのか
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる
通報する男の声
泣き崩れる彼女
すべてが現実を突きつけてくる
でも、不思議と絶望はなかった
男に羽交い締めにされながら、僕は彼女を見つめた
彼女も、涙に濡れた目で僕を凝視している
恐怖であれ、憎悪であれ、今この瞬間、彼女の
心は
「僕」という存在だけで埋め尽くされている
昭二
僕は優しく微笑みかけた
昭二
僕の呟きを聞いた彼女が
悲鳴を上げて耳を塞ぐ姿が
何よりも愛おしかった