コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
あれから、五年が経った
美咲は街を変え、仕事を変え、そして苗字も変えていた
結婚したわけではない 母方の旧姓を名乗ることで、あの「彼」という忌まわしい記憶から逃れようとしたのだ
平穏な日々だった
カーテンの隙間から誰かが覗いている気配に怯えることも、背後の足音に過呼吸を起こすこともなくなっていた
その電話が鳴ったのは、秋雨が窓を叩く、薄暗い午後のことだった
美咲
刑事
受話器の向こうから聞こえた低い男の声に、美咲の指先が凍りついた
警察
その単語だけで、封じ込めたはずの記憶が、泥沼の底から泡を吹いて浮き上がってくる
刑事
心臓が嫌な音を立てた
刑務所から出所したのだろうか また私を探しているのだろうか だが、刑事の口から出た言葉は、美咲の予想を遥かに超えるものだった
刑事
美咲
美咲は息を呑んだ
死んだ あの男が
あの粘着質な視線も、妄想に満ちた微笑みも、もうこの世には存在しない
安堵と、言いようのない不気味さが同時に押し寄せる
美咲
美咲
震える声で電話を切ろうとした美咲を、刑事が鋭い声で引き止めた
刑事
刑事
刑事の声色が、一段低くなった
刑事
刑事
私宛の、荷物
住所を知られていた恐怖よりも、もっと生理的な嫌悪感が胃の腑を駆け巡る
美咲
刑事
時が止まった
雨音が遠のく
刑事
刑事
刑事
美咲は膝から崩れ落ち、フローリングに手をついた
殺すつもりだった
「愛している」と叫びながら 私の肉体を木っ端微塵に吹き飛ばそうとしていたのだ
それが彼の言う 「愛」 の最終形だったのか
刑事
刑事は言いにくそうに言葉を継いだ
刑事
美咲
刑事
刑事
吐き気がした
喉の奥から酸っぱいものがせり上がってくる
美咲の脳裏に、あのバスの中で窓ガラス越しに見せた、彼のうっとりとした笑顔がフラッシュバックする
昭二
昭二
見ていないはずの映像が、鮮明な幻聴となって頭の中に響き渡る
彼は最期の瞬間まで孤独な部屋でカメラのレンズを見つめそこに「私」を幻視し、幸せそうに死んでいったのだ
爆弾という名の指輪を贈る手配を済ませて
刑事
刑事の声が遠く聞こえる
美咲は震える手で通話を切った
窓の外では、雨が降り続いている
男は死んだ
もう二度と、物理的に美咲を傷つけることはできない
だが、美咲は知ってしまった
この世を去るその瞬間まで、彼の中では「二人の愛」が成立していたことを
そしてその狂った物語の結末として、自分が殺されかけていたことを
美咲
美咲は自身の肩を抱き、うずくまった
部屋の隅の影に、まだ彼が立って微笑んでいるような気がした
死んでなお、彼の妄想という名の檻から私は一生出られないのかもしれない
誰もいない部屋に、美咲の嗚咽だけがいつまでも響いていた