部屋の中は静かだった
外から差し込む薄曇りの朝日が
グレーのレースカーテンを透かして
真っ白な壁に柔く広がる
○○
ソファで目を覚ました○○は
数秒間瞬きをせず
ただ天井を見つめていた
1秒ごとに感情がすっと引いていく
“目覚め”というより“切り替え”に近かった
無音の部屋
目覚ましもテレビのなっていない
リビングの白い床を
素足で音もなくキッチンへ向かった
冷蔵庫を開くとペットボトルの水と
栄養ドリンク
そして
一際目を引く小さな金色の箱が映る
「PRIN Royal」
○○は蓋を開けた
○○
蓋を開けた瞬間
バニラと洋酒がふわっと香った
○○
1口目
瞳が少し潤み
口角が僅かにあがる
甘すぎず、でも確実に心に触れてくる
3口で終わる贅沢
プリンを食べ終えティースプーンを洗いながら
○○は小さく呟いた
○○
○○
今日も普通の顔を忘れないように
部屋に戻り
制服のような紺のスーツを手に取る
ジャケットの袖を通しながら
ふと鏡を見る
目の奥のどこかひかりのない色を
彼女自身も知っていた
それでも口元は
面接用のような「柔らかい笑顔」を浮かべた
すると不意にポケットの中でスマホが震える
○○
J ┊︎ 二口に彼女はいない。ただの女よけ
○○
暫く○○その文を見つめた
○○
それ以上は何も言わない
けれど心のどこかで
“始まる気配”を感じていた
週明けの月曜日
NEXT EARTH本社の6階 企画フロア
プリンの余韻もどこかに消え
○○はPCの前で静かにキーボードを叩いた
姿勢はいつも通り
背筋が伸びていてどこから見ても
模範的な新入社員
女よけ…か
今朝送られて来た言葉が
私の心を燃やした
女よけってことは…
もう少しやりようがあるって事
考えてしまう自分に気がついて
不意に視線を逸らした
ちょうどその時 通路を隔てた向こうの営業部側から
彼が歩いてきた
淡々とした顔で書類を持って廊下を歩く姿は
やっぱりどこか整いすぎていた
だからって簡単に落ちる相手じゃない
どこかスパイとしての“プロ意識”が顔を出す
でも彼は一度もこちらに目を向けない
この前少しは打ち解けたと思ったのに…
自然に見せた朝の笑顔も
丁寧に渡した報告書も何もかも
特別な対応は返ってこなかった
本当に
○○
そう思った時だった
穂高
穂高
穂高
明るい声がフロアに響いた
営業部と企画部の間に設けられた
小会議スペースで
総務の穂高さんは手を叩いていた
集められたのは企画部と営業部
ぞろぞろと人が入ってくる中に
彼の姿が見えた
宮島
横の宮島は頭を傾げて会議室へ入ってきた
○○
穂高
穂高
穂高
穂高
穂高
穂高
穂高
ホワイトボードにパチっと書かれたのは
営業部: 二口堅治
企画部:芦屋○○
穂高
その瞬間時が止まったような気がした
○○は瞬きも忘れ
隣で「すごいじゃん」という 宮島の言葉も聞き流していた
○○
思わず小さく漏れた声
穂高
穂高
穂高
穂高
穂高
そう穂高さんが言うと
周囲の社員たちは
「新人に任せて平気か?」
「あの子優秀なの?」
といった言葉を落としてから
会議室を後にした
穂高
その言葉に従って○○と二口は残った
二口
あからさまに嫌そうな顔をしている
穂高
二口
穂高
穂高さんは少し笑いながら言った
穂高
穂高
二口
穂高
○○
二口
穂高
穂高
穂高
穂高
穂高
穂高
穂高さんはそれだけ伝え
震えたスマホを取って会議室を後にした
残されたのは
私たち2人
○○
○○
○○
○○
二口
二口
二口はため息を吐きながら会議室をでた
吐き捨てた言葉は思ったよりも軽かった
○○
○○
私は唇をかみ締め
拳を強く握った
水曜日の夜
翌日の出張を控えた日の
いつもより静かなリビング
スーツをアイロンを通しハンガーに掛け
明日の資料の確認を済ませた○○は
キッチンに向かって冷蔵庫をあけた
○○
ほろ苦キャラメルとピスタチオの二層仕立て
○○
ぽそっと呟く声は
どこか安心したようで
それでいて少し寂しげだった
○○
なんか
久しぶりに味わった気がする
出社して、仕事をして
さりげなく二口さんに視線を送る日々
それだけの事なのに
なぜだか
胸の奥がざわついている
彼女がいないって知った
だったら…どうする?
もっと近づく?
でもどうやって
スパイとしての経験なら山ほどある
気配を無くして尾行し
相手の癖を読み
懐に潜り込む
基本中の基本で得意分野のはずだった
○○
今の自分はまるで“普通の新入社員”
まるで本当の自分が
少しずつ
思考の途中にスマホが鳴った
画面にはJの文字
J┊︎明日移動する駅の路線、迂回注意
J┊︎なるべく監視カメラの無い所を通って
J┊︎それと
J┊︎ 入り込みすぎるなよ
J┊︎お前はエルだから
○○
ため息をつきながら
スプーンを口に運ぶ
○○
その味は今日だけ
少しだけ鈍く感じた
出張先は郊外にある
中規模の製造メーカーだった
NEXT EARTHが新たに連携を進める相手企業
その地方支社に営業部から二口
企画部の私が同行する形で訪れることになった
二口
二口
二口さんは名刺を交換した
橋田
橋田
橋田
橋田
気さくにそう話しかけてきたのは
出張先の責任者
橋田 衛さん
50代前半の穏やかな人だった
スーツの袖口はやや擦れて
ネクタイの結び目が少しゆるい
けれどその顔は
柔らかい印象だった
…あの時もそうだった
7年前
○○
橋田
○○
きっとまだあれは
16歳だった頃
吉原 和泉として潜入していた
某化学系ベンチャー企業
橋田さんはそこに居た
広報を通さず現場で社員と話す癖のある彼を
騙すのはいとも簡単だった
まさか…こんな形で再開するとは
もちろん橋田さんは私のことは覚えていない
あの頃の私とは名前も
髪の長さも何もかも違った
橋田
橋田
橋田
自分の呼吸が浅くなるのがわかった
橋田
橋田
橋田
橋田
そう言って照れたように言った橋田さん
橋田
橋田
橋田
橋田
胸の奥がほんの僅かに痛んだ
彼の過去の“失敗” の中に
自分の任務の情報リークがあったことを
○○は知っていた
…今更、何も出来ない
罪悪感を飲み込み深く息を吸って
スーツの裾を整えた
二口
と二口さんは言ったあと○○の方を見る
○○
○○
○○
穏やかな笑みを浮かべていった○○の声に
橋田さんは満足そうに微笑んだ
橋田
○○
橋田
○○
橋田
橋田さんは「ただ似てるだけか」とぼそっと言った
きっと
過去の“私”のことだ
二口
二口
○○
会社の外にでると
○○はほっと息を吐いた
二口
○○
二口
二口
二口
○○
二口
二口
それはこれまでで1番
“普通の会話”だった
その日の夜
視察と軽い打ち合わせを兼ねて
○○と二口はロビーに集まった
ソファ席に座った○○は
メモとノートとPCを見比べながらも
流石に疲れの色を隠せられない
スーツ…きつい
プリンも食べてない
そんなことを考えた瞬間
ふわりと意識が遠のいた
気がつくと少し俯いて眠っていた
今日の感じからして
契約はほぼ確定だな
あとは…
二口
ソファの反対側に座る芦屋は
少し俯いて眠っていた
気が抜けすぎだろ…
まぁ初めての出張だし
多少は疲れるか
声をかけようと手を伸ばそうとした
その瞬間
二口
芦屋の目がカッと開かれた
その手を反射的に掴まれ
次の瞬間には彼女の細い腕が
二口をソファに押し倒していた
○○
正気に戻った時には
もう遅かった
これは完全な“防御反応”だった
○○
○○は二口を押し倒したまま
言葉に迷っていた
思考停止
少ししてから○○の肩はピクっと揺れた
二口
○○
暫くしてからソファに起き上がった二口は
少し乱れた髪を直しながら
○○に目をやった
二口
二口
二口
○○
○○
○○
誤魔化すように笑って見せた○○に
彼は少し唇の端を上げた
二口
二口
二口
二口
○○
○○は即答した
それが少しおかしくて
2人はそのまま
ほんの少しだけ笑った