〇〇の弟

五条悟は「最強」だった。その称号は、生まれ持った六眼と無下限呪術によって揺るぎない事実として確立されていた。特級呪霊を塵と化し、呪詛師を震え上がらせ、腐敗した呪術界の上層部すら意のままに操る。その存在は、まさに世界の均衡を保つ**絶対的な「要」**であった。だが、彼の強大さは常に拭いきれない孤独を伴っていた。そして、誰にも明かすことのできない、深く根差した秘密が、彼の魂の奥底で燻り続けていたのだ。 それは、彼の唯一の弟、**悠（ゆう）の存在だった。五条家にあって、悠は兄とは対照的に、呪術師としての才能には全く恵まれなかった。それでも、兄である悟を慕い、屈託のない笑顔を見せた。五条家では珍しいほどの「普通」の少年だった。その「普通」が、五条悟にとってどれほど眩しく、愛おしかったか。幼い頃、悠は悟が訓練を終えて部屋に戻るたび、小さな貝殻のペンダントを悟の首にかけ直した。「兄さんの呪力が、僕を守ってくれるお守りなんだよ」と笑う悠の言葉は、悟にとって何よりも尊いものだった。この貝殻は、遥か昔、五条家の祖が海の精霊から授かったと伝えられる「星辰の貝」**の一部であり、持ち主の魂と共鳴し、微弱ながらも呪力を増幅させる特性を持っていた。悠が悟の首にペンダントをかけるたび、貝殻は仄かに光を放ち、二人の絆を深めるように見えた。しかし、その「普通」こそが、彼を地獄へと突き落としかける。 五条悟がまだ幼く、その「最強」を完全に制御しきれない頃、とある任務地で大規模な呪霊の無差別襲撃が発生した。悠はそれに巻き込まれたのだ。悟は、すぐ近くにいたにもかかわらず、守ると誓ったはずの弟を、救うことができなかった。あと一歩、あとほんの一瞬、悟の対応が遅れていたら、悠は非業の死を遂げていたはずだった。悟の目の前で、悠は呪霊の瘴気に飲み込まれ、その小さな体がぐったりと横たわった。悟は咆哮し、無差別に呪力を放ったが、その力はまだ制御しきれておらず、周囲を破壊するばかりで悠を救うことはできなかった。その絶望的な光景と、言いようのない後悔が、悟の心に深く刻み込まれた。悠は奇跡的に一命を取り留めたものの、彼の魂は兄への強い執着と、死の淵を彷徨った経験によって、特級呪霊と化し、悟に取り憑いた。それは、呪術界の常識ではありえない、異例の共生関係の始まりだった。悠は肉体的に生きているが、その魂は呪霊として悟と共にある――。五条家は悠の呪霊化を隠蔽し、その魂が悟に取り憑いている事実を、悟以外には誰にも悟らせなかった。悠の呪霊は、悟の術式の出力に微細な**「枷」を与え、同時に彼に未来を指し示す「恩恵」**をもたらしていた。悠の魂は、呪霊と化してもなお、生前の無垢な心を保ち、悟の呪力と「星辰の貝」を通して、さらに深く共鳴し続けていた。 高専時代：失意と覚悟の萌芽 東京呪術高専に入学した五条悟は、その圧倒的な才能で「最強」の片鱗を見せつけていた。だが、彼の内側は、悠を失いかけた深い悲しみと、守りきれなかった後悔に支配されていた。親友である夏油傑や家入硝子との交流も、彼にとっては、全てを理解できる「強さ」の裏に隠された、孤独を紛らわす時間でしかなかった。彼の心の中には、常に悠の呪霊が存在し、彼の行動に**「枷」を与え、静かに問いかけ**を続けていた。 「兄さん、またそうやって無茶してる。僕が死にかけたのは、兄さんのせいじゃないってわかってるんでしょ？でも、もう誰も死なせちゃだめだよ。あの貝殻、まだ持ってる？僕のお守り、ちゃんと兄さんを守ってる？」 悟が力を最大限に解放しようとすると、悠の呪霊が僅かに術式の出力を阻害する。それは、周囲への被害を最小限に抑えようとする、悠の無意識の作用だった。悠の声は、少年時代の無邪気な響きを残しつつも、深い悲しみと、兄への切なる願いを含んでいた。悠の存在は、悟に常に自身の傲慢さと限界、そして「最強」であるがゆえの責任を突きつけていた。「もしあの時、もっと完璧な『最強』だったら、悠が死の淵を彷徨うこともなかったのではないか」――その自問自答が、悟の心に深く根差し、彼を突き動かす原動力となっていた。 天元様の護衛任務で、五条と夏油は星漿体・天内理子を護衛する。そこへ伏黒甚爾が現れる。甚爾の圧倒的なフィジカルと、悟の油断が重なり、理子は殺されかける。しかし、その刹那、悟の胸元にかけた貝殻のペンダントが強く光り、悠の呪霊が悟の無下限呪術を一時的に暴走させ、甚爾の攻撃の軌道を僅かに逸らした。理子は辛うじて一命を取り留めたのだ。その時、悠の呪霊が悟に強く語りかけた。「兄さん、僕が死にかけた時と一緒だ。もう、こんな悲劇を繰り返さないで。兄さんは、みんなを守れるんだから！あの時、僕を守れなかったってずっと苦しんでるんでしょ？でも、今度は間に合った。だから、兄さんは大丈夫だよ」。この一件は、悟が「最強」であることに加え、「誰も見捨てない」という強い意志を持つ契機となった。甚爾との戦闘中、悠の呪霊は、悟の知覚できない領域で、過去の悟の悟の記憶を呼び起こすように「共鳴」し、悟の無意識の動きを促すような微細な呪力操作を行っていた。それは、悠が兄を「守る」という生前の純粋な願いが、呪霊化によって形を変え、発現したものであった。 教師として：誰も取りこぼさない世界を目指して 高専教師として、夜蛾学長、そして七海建人と灰原雄といった後輩たちとの出会いは、悟の心を少しずつ変えていった。特に、灰原の屈託のない明るさと、七海の真面目な仕事ぶりは、悠の面影をどこかに感じさせ、悟の心に温かい感情を呼び起こした。夏油傑との思想の違いが顕著になり始めた頃、悠の呪霊は悟に訴え続けた。 「兄さん、あの人が変わっていくのがわかる？誰も見捨てちゃだめだ。僕たちは、守らなきゃいけないんだよ。誰一人として、取りこぼしちゃだめだ。夏油さんにも、僕のお守り、分けてあげられたらよかったのに…」 悠の言葉が、悟の正義感と責任感を揺さぶった。夏油傑が非術師を蔑むようになっていく過程で、悟は悠の存在を強く意識した。彼の「最強」をもってしても、親友の心を守りきることはできなかった。しかし、悠の願い、そして理子を救った経験が、悟を突き動かした。夏油傑が道を違え、呪詛師となることを選ぼうとしたその時、五条は悠の呪霊の「枷」を乗り越え、かつてないほどの感情を込めて傑に訴えかけた。 「傑！お前は、俺の、俺たちの誇りなんだ！悠も、お前が正しく生きることを願ってる！誰も見捨てない、それが俺たちの呪術師の道だろ！？」 悟の言葉と、悠の呪霊が放つ優しい波動が傑の心を僅かに揺さぶった。この時、傑は悟の瞳の奥に、かつて見たことのないほど深い悲しみと、それでいて揺るぎない覚悟を見出した。それは、幼い頃の悠が悟に語りかけた「誰も死なないでほしい」という願いが、悟というフィルターを通して傑の心に触れた瞬間でもあった。傑は呪詛師への転身を思いとどまり、呪術界の在り方に疑問を抱きながらも、別の形で呪術師としての道を模索し始めた。この一件は、五条が「最強」であるゆえの孤独から脱却し、周りの人々との絆を深めていく、決定的な転機となった。彼は、悠の呪霊の「枷」と「問いかけ」の意味を深く理解し、高専教師の道を選ぶことを決意した。 月日は流れ、五条悟は東京呪術高専の教師となった。かつての自分と同じように、呪術師として未熟で、未来への希望を抱く生徒たちと向き合う日々。虎杖悠仁、伏黒恵、釘崎野薔薇。彼らと共に過ごす時間は、五条の心に大きな変化をもたらした。彼らが無謀な戦いに挑もうとする時、悠の呪霊は、かつての自分と重ね合わせるかのように、五条の心に強く訴えかけた。 「兄さん、彼らをちゃんと守ってあげて。僕みたいに、誰かが傷つくのはもう見たくない。誰も、取りこぼしちゃだめだよ。僕が、守りたかった、あの日常を、彼らに残してあげて。あの貝殻のペンダントみたいに、兄さんの呪力でみんなを守ってあげてね。」 その声は、高専時代の自分に向けられたものとは異なり、どこか切実で、五条に責任感と優しさを促すものだった。虎杖悠仁は、ある日、悟が夜中に自室で一人、誰かに話しかけているのを目撃した。声は聞こえないが、悟の表情は優しく、そしてどこか悲しげだった。彼はその時、悟が自分たちの知らない「何か」と繋がっていることを漠然と感じ取った。伏黒恵もまた、悟の術式の微細な変化や、時折見せる遠い目つきに、何か秘めたるものを感じていた。釘崎野薔薇は、悟が冗談めかして「お守り」と呼ぶ貝殻のペンダントに、強い執着があることに気づいていた。五条は、彼ら生徒たちを、そして全ての術師たちを、悠が望んだ「誰も死なない世界」へと導くために、全力を尽くすと心に誓った。それは、悠の呪霊が与える**「恩恵」**の一つでもあった。悠の存在は、五条が教師として、そして人間として成長するための、重要な道標となっていたのだ。 そして、運命の渋谷事変 **偽夏油（羂索）**による大規模な呪霊によるテロ計画が明るみに出た。そのテロの鍵を握る特級呪霊は、悠を死の淵に追いやりかけたあの呪霊と酷似していた。渋谷の街が、かつての惨劇を繰り返そうとしていたのだ。五条悟は、単独で事態を収拾しようと決意する。しかし、その刹那、全身に重い「枷」を感じた。悠の呪霊が、かつてないほど強く抵抗しているのだ。 「兄さん、一人で行っちゃだめだ！また、あの時のようになる。僕たちは、もう一人じゃないんだよ！夏油さんだって、灰原さんだって、七海さんだって、みんながいるんだから！兄さんの貝殻、一人で抱え込まないで！」 その声が、五条の心に響く。そして、背後から駆けつけてきたのは、虎杖、伏黒、釘崎、そしてかつての親友、夏油傑の姿だった。彼は、五条との対話と、悠の存在が放つ「誰も見捨てない」という願いに導かれ、呪術師としての道を再び歩み始めていたのだ。七海と灰原もまた、それぞれの任務を終え、渋谷へと駆けつけていた。彼らの絆、そして共に戦おうとする意志が、五条の心に新たな光を灯した。 「ああ、そうだな。悠。俺はもう一人じゃない。お前も、ずっと俺と一緒にいてくれた。この貝殻みたいに、いつも俺の傍にいてくれたんだな。」 五条の六眼が、かつてないほどの蒼い光を放った。それは、弟が与えた**「隠された力」の覚醒だった。悠の魂は、生前、兄の術式を無邪気に「お守り」と信じ、その存在自体が悟の呪力と共鳴する特殊な特性を持っていた。悠の呪霊化はその特性を増幅させ、悟の無下限呪術に新たな側面を開かせた。無下限呪術の「蒼」が、空間そのものを停止させる「蒼の淵（あおのふち）」**として開花する。それは、五条が知覚し得なかった、彼自身の術式の新たな側面であり、同時に悠が彼と共に戦い、生き抜くことを願う、魂の叫びでもあった。その瞬間、五条は、悠の存在が彼を「最強」以上の、「誰一人取りこぼさない」存在へと押し上げていることを、確信した。 「領域展開――無量空処」 五条は、その広大な領域で敵を包み込みながらも、同時に「蒼の淵」で味方を守るという、かつてない繊細な術式制御を見せた。彼の生徒たち、そして仲間たちは、悠との共鳴によって得た新たな悟の力と、彼自身が選択した「誰も見捨てない」という強い意志によって、全員が無事に生還した。羂索は封印を試みるも、五条の新たな力と、夏油傑の加勢によって計画は失敗に終わった。悠の呪霊は、その瞬間、悟の術式に干渉し、あたかも悟の六眼を通して渋谷全体の状況を把握しているかのように、味方への被害を最小限に抑えるよう、術式の範囲と出力を「調整」した。それは、悠の呪霊が、もはや単なる「枷」ではなく、悟の術式と一体化し、新たな「力」として成長した証でもあった。 結び 五条悟は、弟の呪霊という、誰にも見えない**「呪縛」と「恩恵」**を背負い、呪術界の闇と戦い続ける。それは、彼にとって永遠の贖罪であり、そして、かつて守り切れなかった弟の魂と共に、新たな「最強」の形を模索する、終わりのない旅でもあった。彼が「最強」である限り、悠の魂は彼と共にあり、彼が選び取る未来を、静かに見守り続けるだろう。そして、もし悟が道を見失いそうになった時、悠の声が、再び彼を正しい道へと導くはずだ。彼の教え子たち、そして夏油傑、七海、灰原といった仲間たちが、悠が望んだ平和な世界を築くための、新たな希望となることを願いながら。五条悟の物語は、誰も死なない世界で、彼自身と彼の愛する者たちを守り続ける、永遠の戦いへと続いていく。