テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
106
53
五限目の数学。 先生の解説する声と、チョークが黒板を叩く規則正しい音だけが教室に響いている。 外はいつの間にか、予報になかったどんよりとした雨雲が広がり、窓ガラスを激しく叩く雨の音が聞こえ始めていた。
山中絃花
憂鬱な気持ちで窓の外を見つめ、小さくため息をつく。 その時、トントン、と右側から筆箱の角で私の机が小突かれた。 隣の席を見ると、榛野くんが頬杖をついたまま、けだるげな視線をこちらに向けている。 榛野くんは左手で自分のノートの端っこに、サラサラと綺麗な文字で何かを書き、それを私の方に少しだけ滑らせてみせた。
榛野吏玖
教科書の陰に隠された、ノートの余白での秘密の会話。 私は少しドキドキしながら、自分のシャープペンシルでその下に文字を返した。
山中絃花
ノートをスッと戻すと、榛野くんはそれを一読し、また何かを書き加える。
榛野吏玖
山中絃花
思わず小さな声が漏れてしまい、慌てて口を両手で塞ぐ。 先生は黒板に向かったままだ。 ホッと息を吐いて榛野くんを見ると、悪戯が成功したときのように、ふっと目元を柔らかく緩めていた。
榛野吏玖
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。 榛野くんが書いたその文字を、私は何度も見つめてしまう。優しい。 いつも、私が一番困っている瞬間に、榛野くんはすくい上げるように声をかけてくれる。 戸惑う私を見て、榛野くんはそれ以上文字を書かず、前を向いて教科書を開いた。 けれど、その耳の先端がほんの少しだけ赤くなっていることに、私は気づいていなかった。
キーンコーンカーンコーン。 放課後を告げるチャイムが鳴り、静かだった教室が騒がしくなる。
山中紗花
廊下から紗花が申し訳なさそうに叫び、そのままバタバタと走っていってしまった。
山中絃花
伸ばした手は届かない。 困ったな、と下駄箱の前に立ち尽くす。 壱也は部活の友達に捕まって、まだ教室にいる。 呼び止めて「傘に入れて」と言うこともできたかもしれない。 けれど、付き合っている紗花に悪いような気がして、私はどうしても声をかけられなかった。
山中絃花
スマホを取り出そうとした、その時だった。
榛野吏玖
すぐ隣から、おだやかで、どこか耳に心地よい低い声がした。 振り返ると、いつの間にか下駄箱の前に立っていた榛野くんが、黒い長傘を手に持って佇んでいた。 相変わらずクールで掴めない表情。 けれど、私と視線が合うと、ふわりと目元を和ませた。
榛野吏玖
山中絃花
榛野吏玖
榛野くんはそう言って、パサッと静かに傘を開いた。 薄暗い雨の世界の中に、一本の傘が作る、小さな二人だけの空間。
榛野吏玖
手招きされて、私は意を決して榛野くんの傘の下へと一歩踏み出した。 すっと、榛野くんの体温が近くに迫る。 いつも一歩引いて、紗花と壱也の後ろを歩いていた私。 なのに、今の私のすぐ隣には、紗花ではなく、壱也でもなく――榛野くんが並んでいる。
榛野吏玖
山中絃花
榛野吏玖
榛野くんは空いている方の手で、私の肩をそっと引き寄せた。 一瞬だけ、榛野くんの制服の袖が私の腕に触れる。 トクン、トクン、と胸の奥の鼓動が、激しく雨の音をかき消していく。
榛野吏玖
顔を覗き込んできた榛野くんの、掴めないけれど真っ直ぐで優しい瞳。 私は顔が真っ赤になるのを隠すように、ただ小さく「うん……」と頷くことしかできなかった。
コメント
1件
わあ、このエピソード、すごく良かったです……! 雨の日ってだけでちょっと憂鬱な気分になるのに、榛野くんのノートでのやりとりが甘くて、心臓がドキドキしました。特に「おいで」って手招きされるところ、あの距離感がたまらないです。絃花さんの気持ちになってドキドキしながら読みました。まだ4話とのこと、この先ふたりの距離がどう変わっていくのかすごく気になります。続きが楽しみです!